劉慈欣『三体Ⅱ 黒暗森林(上)』(早川書房、2020年)を読んでいる途中で、面白い記述を見つけた。9/24に書いた「英雄か敵か? 歴史だ! 虫けらだ。」の続編に当たるSF物語。だんだん面白くなってきた。物語は省くが、数世紀先に待ち受ける地球の命運を賭ける人物(複数)を国連が選び、その人に「すべてを託す」。
その人物たちの要求はすべて国連のある機関に伝え、そこだけが精査することになっているシチュエーション。その場面で、警護に付き添う元警官と国連の派遣するスタッフとの会話。その人物(複数の中の一人)が「夢の恋人」を見つけてほしいと元警察官に頼み、彼は国連スタッフにそれを伝える。そのとき国連スタッフは、それを拒む。
「いくら何でも、それは甘やかしすぎだろう。すまない。それを上に伝えることはできない」
「だったらあんたは、(国連決議)に反することになる。……いかに理解不能であっても、すべて報告し、実行しなければならない。拒否権は(国連機関)にのみある」
「しかし、社会のリソースをあんな男の王侯暮らしに浪費するわけにはいかない。あんたのことは尊敬している。経験も洞察力もある人だ。だから本音を聞かせてほしい。(かの人物は)計画を遂行していると本当に思いますか?」
「わからん。だがあんたは,どんなことにも理由を問わずにはいられないタイプだ」
「それが間違いだと?」
「正しいとか間違っているとか、そういうことじゃない。もしだれも彼もが,理由に納得できない限り命令に従わなかったとしたら、世界はとっくの昔に混沌に飲み込まれていただろう。」
数世紀先の地球の危機に備えるための「プランニング」を(地上のあらゆる資源を使ってもよいと)任されたら、どうするだろうという興味が、読み進めるモチーフになっている。だがそれ以上に、上記のやりとりが、この作品の慥かさを醸し出していると思った。
と同時に、自律した個人というのが、集団で生活していかなくてはならないヒトのありようとして、いかに障害になっているかも描き出している。自律した個人というのは、まさしく「情報化社会」のリテラシーを身に備えた「立派な人」のことだ。
たとえば、ドイツの軍人は、上官の命を実行する際に、その正当性を自ら判断しなければならないと規定されていると、何かの本で読んだことがある。ナチスの支配を受けた苦い経験を繰り返さないために、軍人に「主体的判断」を義務化したという。それが問われたのは、ハイジャックされたルフトハンザ機を撃墜した罪を問う裁判を描いた、フェルディナント・フォン・シーラッハ『テロ』(酒寄進一訳、東京創元社、2016年)。これについては、このブログの2016/12/21《「人間の尊厳」の重み》と2016/12/24《市民社会の「法」の精神の原型》の二度にわたって,記述している。
今その子細には立ち入らないが、上記やりとりに描き出された元警官のことばと振る舞いこそ、己をつかむことが世界を捉えることにつながることを示している。そして面倒なのは、「己をつかむこと」と「世界をつかむこと」が順接していないことなのだ。「己」の中はそれまでに触れた「世界の断片」に満ちており、「世界」の中は、「己の幻想」が混じり合っている。つまり、「世界」を読み取っている「己」自身に(そう判断する根拠はなに? なぜ? と)疑いの目を向けなければ、「己」自身が捉えられないし、そう疑うにためには「世界の断片」の何が,いつの間にか「己」に染みこんでいるのか腑分けしなければならない。そのとき、「理由を納得する」ことは、言わば永遠の自家撞着だ。
結局,目前の我が役割を「それ」として受け入れて働くこと。そのときの根拠は「世界」に対する信頼であり、それは「ことば」にならないわが身に染みこんだ感性や感覚を一つひとつ吟味することを通じて、「ことば」にしていくことに他ならない。そのようにしてつねにつねに、わが身の輪郭を描き出していくことが、即ち生きることだと、元警官のことばから感じ取ったのであった。
ここに登場する,目下の主人公の「あんな男の王侯暮らし」こそが、ひょっとすると地球の危機を救う驚天動地の手立てに通じているのではないかと(ちょっぴり感じながら)、「上巻」の6合目ほどを読み進めている。まだ「下巻」があるのだから、読後感はずうっと後になるが、こういう断片にぶつかるために本を読むんだなと思っている。
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