コロナウィルスの勢いがちょっと止まった。専門家の解説を聞くと、お盆の人流があって首都圏で減った感染が、今、数字に現れているという。また今後はお盆明けの人口集中が蘇って増えるだろうから、警戒を怠るなと引き締めにかかっている。
宰相が「日の目が見える」とコロナ収束の先行きを見込んでいたのは、ひょっとすると、このお盆時の(首都圏の)「人流が止まった」ことを指していたのか。そう考えると、なるほど、人流と感染拡大との相関を言い訳にしていた宰相のコロナ観がみえる。
そうしてマス・メディアは、目下、自民党の総裁選に関心を移しつつある。菅政権の失政を、それを支えてきた自民党の無能無策と捉える視点は消え失せて、力関係と人事の争いの面白さに浸されつつあるようだ。
支持率が落ちている菅宰相は、対抗馬が提案する党幹部人事の刷新案を意識してか、自民党の幹部人事を刷新すると発表した。あさって(9/5)からの話題が提供されて、マス・メディアは「活気」を取り戻し、自民党に関する報道が集中しつつある。そこへもってきて昨日(9/3)菅総裁が自民党へ出向いて幹事長に会ったものだから、「ひょっとしてサプライズか」とメディアは沸き立った。つまり、解散総選挙という奇手に打って出るのか? と色めき立ったのだが、それもこれも、自民党の人事に人々の気分を誘導するためのお膳立てというわけだ。
《みそぎして思ふことをぞ祈りつる やほよろづの神のまにまに》
と、宇治拾遺に歌われた(13世紀初め頃の)私たちの、自然(じねん)の心情に寄り添うように考えると、自民党の人事刷新というのが、「みそぎ」に当たるか。水をかぶって身を清め、犯した罪や被った汚れを除くという振る舞いと見なすか。あるいはさらにもう一歩先の総選挙で過半数をとることによって、コロナもオリンピックも、チャラにして水に流す国民性に期待しているのか。
これに苛立ちを覚えるのは、いつだってこうしてモンダイ人物を水に流して、じつは、モンダイの在処まで水に流してしまうからだ。つねに出直してばかり。モンダイの核には踏み込まない。踏み込んでいないという意識もない。人が変われば、手立ても変わるだろうという期待は、配役を入れ替えて同じ物語を繰り返しているだけ。これでは日本は、変わりようがない。千何百年も、こういうことを繰り返していれば、それが習い性になってネーションシップとして染みついてしまう。ネーションになったのはまだほんの百五十年ほどだよと言えばいえるが、島国の一体性というか、列島人としてのアイデンティティというか、そんな風な漠然とした自然観のもたらす同一感覚に染みついた「自然(じねん)感覚」、つまり気質が感じられて、なんとも言いがたいジレンマを味わっている。
やっぱりそれじゃあ、まずいよと、誰が誰に向かっていつどこで声を出せばいいか、それすらわからない。「禊ぎ感覚」も、なんとなく共有していると思っているだけで、じつはただ無関心が広がっているだけ。マス・メディアのディレクターたちが勝手に「共有している」と思っているだけかもしれない。その一体感のベールを食い破るのは、ではどうやって? だれが? どこで? いつ? そうそう、なぜ?
こうして呟くだけが、目下の手立て。こちらは歳をとっているから、それでいいようなもの。若い人たちにとっては、たまらないだろうなあ。えっ? そうでもないか。
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