2021年9月21日火曜日

ものぐさになる

《人とはぬ庭もわが身もあかつきて苔むしけりなものくさの庵》(徳和歌後万載集)

 と川柳に詠われた「ものぐさ」は、その235年後の私のようでもある。

 さすがに苔むすほどの風格のある古民家暮らしではない。だが「ものくさ」は若い頃からの気性とあって、歳をとるにつれてますます昂進し、なにもかもめんどくさい。カミサンという同居者がいるから、ちょっとはあかつきないように習慣化した生活の型が保たれているが、そういう他者の目がなければ、ほぼ間違いなく生活習慣は崩壊する。

 TVの番組を観ていると、東京から北海道の「山の中の一軒家」に40代で移住し、自らの手でリフォームして暮らしている夫婦が登場する。その二人の気ままでスマートな暮らし方を支えているのは、何事もめんどくさがらずに手を掛けて取り組む姿勢。山羊を飼い、いずれ馬を飼って幼い頃に親しんだ乗馬を楽しみたいと連れ合いが望み、馬の住処まで準備するご亭主。微笑ましいだけでなく、その姿自体が現代の都会ぐらし批判に通じている。田舎育ちの我がカミサンも、若ければねえ、と寄る年波を感に堪えぬ面持ちで振り返る。

 そうした暮らしは、私の「自然観」もあって、好ましく感じる。だが、仮令40年ほど若くても無理だったろうなと自答している。何より私は、ものぐさだ。5人兄弟の三番目に生まれ、上二人の兄を見ながら育ったものの、とうてい二人のまめまめしいモノゴトに対する向き合い方にはかなわないと感じつつ、我が振る舞いの限界を見極めて自律してきた。何より努力するということが身に合わない。自然体と口にはするが、要するに必要に迫られて、致し方なく身につけることは身につける、覚えなければ過ごせないことは何とか覚えるという為体。英語なども、学校の試験に必要だから覚えはしたが、普段遣う暮らしがなければとんと忘れて、おぼつかない。海外旅行も、中学英語で事足りると分かってからは、それ以上の精進を望まない。

 今でもそうだ。健康維持のために歩くということは、本末転倒ではないかと思うから、やらない。だが、リハビリに通うとなると、片道5㌔でも歩くのはいとわない。今もそうやって往復10㌔ほどを歩いてきたばかりだ。

 この私の自然観というのが、ケセラセラ。なるようになる、なるようにしかならない。「であることとすること」とかつて近代政治学者が日本社会の人の習性を無責任の体系と批判したが、意志的に「する」ことが、社会関係をぶち壊す大東亜戦争というのを目の当たりにしたせいか、嫌いであった。「なる」のは厭わない。では、どのような環境がもたらす「自然」を「なること」として受け入れるのか。どのような社会関係の要求する「ならい」を「なること」と認めるのかとなると、じつはなかなか煩わしい解析が必要になる。なにしろ、日本の社会そのものが、「じねん」ということを良しとして、意図的に人を操作するように動かすことを嫌うから、それって「なること」と同じじゃないかと,別の「わたし」が呟くからだ。「なる」という「じねん」も、仮令私ごととして考えても、社会関係との動態的な概念なのだ。

 そうなんだよね。結局、どこからが「私の自然/じねん」なのか、その都度吟味しなくちゃならない。それはそれでめんどくさい。ただひとつ、わが身を振り返るってことだけはさほどめんどくさいと思わない生活習慣を習いにしてきた。つまり「心の習慣」にしてきたから、自問自答の積み重ねは(多分、歳をとったせいだと思うけれども)、面白いと感じている。その一点で、近代政治学者のいう無責任の体系から外れていると思う。

 ものつくりということは、ものぐさの対極にある。習慣化すれば何ほどのこともないとは思うけれども、この年になって今更とも思うから、ものつくりに対する私の敬意は、いや増しに増す。

 断捨離とか、片付けということも、ものつくりに類する精神に起源を持つ。苦手も苦手、結局いろんな身辺の雑事を残したまんま、ケセラセラとなるような気がする。

《人とはぬ庭もわが身もコロナ禍にステイホームのものくさの今》

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