劉慈欣『三体』(早川書房、2019年)が届いた。いつ図書館に予約したかも忘れてしまっていた。刊行から3年待ったことになる。どうしてそれほど評判なのか,今は忘れてしまったが、読み始めて思ったのは、文化大革命のことが起点になっていること。でも私のはやとちり。文革は、この物語全体の展開のきっかけに過ぎない。
早川書房だからSFだとは思っていたが、基礎科学自体を疑わせる格好で物語が進行する。いわば壮大な陰謀論的な仕掛けが読み進める推力になる。
こう考えてみると、文化大革命は壮大な陰謀論、そのものであった。どこに帰着点をおいていたのか、毛沢東の心中はわからないが、ただひとつ言えることは、動態的陰謀論。行き着く先は、行ってみなければ分からない。ただ「現状ではだめだ」ということだけは分かっている。革命を指導してきた最高指導者の(こんなはずではなかった)という思いが、「近代」世界の大逆転イメージさせた。国家・社会の大逆転を図らねばならない、私利私欲ではなく民草が幸せに過ごすことができるような「共産社会」を再構築すること。それも「社会関係」を根こそぎ切り替えるには、人々の胸中の根柢から転換させねばならない。つまり「文化大革命」だと考え田ものであろう。
国家権力は握ったものの、膨大な人口を抱え、人々はそれぞれの身を置いている社会関係とそれぞれの欲望に遵って、懸命に生きようと振る舞う。社会の指導的な立場に立つ「前衛」をわずか7%とみても、1億人近い数になる。それだけの数の国家、社会の指導的立場に位置するものたちを、中国共産党が「統制・指導」できるのか。当時、対岸にいて「文化大革命」の狼煙火を見ていた私も、いよいよ中国も国家権力を握る「革命」から、もっと根っこからの「文化革命」に乗り出したと、毛沢東の「革命構想」の壮大さに驚いていたのであった。
それが単なる「権力闘争」にすぎないと分かるのは、社会の維持に欠かせない食料の確保にさえ頓着しない「革命」の進行であり、反科学、反近代の、打ち壊し運動に終始していたからであった。その結果、数え切れないほどの餓死者を出すことになり、中国社会そのものがすっかり原始社会に戻るような事態を招いたのであった。
この『三体』物語の起点にある「文化大革命」とは、その社会運動によって翻弄された物理学者の子どもが、絶望のあまり怨嗟を募らせて地球外の生命体に「力を借りようとする」こと。つまり「文革」と相似形の力の作用を期待して「三体」との関わりが始まるところに、この小説を読み進めるモチーフが形づくられる。
ひとつ印象深い場面の描き方をしている。文革の時に紅衛兵として物理学者の殺害に手を下した人たちが集められ、この物理学者の子どもから懺悔を求められる場面。「だれも懺悔しない」と題されたこの節の終わりの方で、「あの時代の一人の紅衛兵の墓の前に」たたずむ大人と子どもが交わす言葉がある。
「この人たちは英雄だったの?」と子どもが訊ねる。大人は
「いや、違う」と応える。
「敵だったの?」と子どもが訊ねると,大人はまた首を振る。
「だったら、この人たちはなんだったの?」と訊かれて、大人はこう答える。
「歴史だ」
そうなんだね。庶民は「懺悔」さえ価値を持たない。「英雄/敵」にすら値しない。単なる「歴史」として、生きて死ぬしかないのだね。そういう達観が本書を貫いているといえるかどうかわからないが、著者の劉慈欣は、それを大宇宙の中に地球をおくことによって人類というものを「達観」して「虫けら」と呼ばせている。陰謀論的な仕掛けは別として、その著者の心持ちだけは、読むに値すると思った。
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