コロナウィルスの感染拡大が高止まりとはいえ落ち着いているのに、重症者数は増え、自宅療養者数が相変わらずなのはどういうことか。「事態」は混沌としているように見える。今月のseminarを開催するかどうかを見極めようと、探っている。一つ、腑に落ちる解説をみつけた。
PCR検査が追いつかないか、クラスターをチェックすることに熱心でなくなったというのである。つまり、保健所や行政機関を通じて検査されていた「上からのPCR検査」が消極的になり、発熱や呼吸困難など症状が出た人が診療所(クリニック)で診てもらって感染していることがわかる「下からのPCR検査」の数値がもっぱら公表されているのではないか、という。すなわち(検査をしない)、無症状の感染は拡大している。実態がつかめない。TVのコメンテータを務める専門家は、したがって、感染者数は減っているように見えるが、ほんの一週間後には再び増加に転じる可能性があるから、ワクチン接種を終えていても感染防止は怠りなくと呼びかける。
そう受け止めていて、感じたこと。
(1)PCR検査が追いつかないということは、どこの報道機関も報じていない。クラスターが発生したかどうかは、ときどきニュースになるが、去年のようにそれを追いかけているのかそうではなくなったのかも、わからない。上からのPCR検査が減っているかどうかは不明だが、保健所の手が回らないということなら知っているから、腑に落ちる。
(2)下からのPCR検査によって判明した感染者かどうかは発表されないから、その数値が出ているのかどうかも、わからない。だが、無症状が多いとは聞いているから、症状が出た人がPCR検査を受けていて、そちらの数値が落ち着いてきているというのは、腑に落ちる。そう考えると、自宅療養者数がおおいのも、重症者数が増えているというのも得心がいく。
(3)上記のPCR検査や症状発生などの推移を専門家はつかんでいるだろうか。報道機関は、チェックしているだろうかと思う。専門家はそれを知っているから、公表数値が減っているからといって(感染拡大への)警戒を怠るなというのだろう。要は、行政機関を含めて、その数値を公表していれば、「事態」は判明する。それなのに、「ワクチン接種すれば感染拡大は防げる」という政府の考え方に反する数値が出るから、発表しないのか。そういうことは、これまでもそうだった。大いにありうると思う。
(4)コロナウィルスに対応するのに「自助」を組み込んでいるのであれば、庶民が自ら判断するに足る「情報の公開」が欠かせない。そういうことに対する「お上」の体制ができていない。それなのに「自助」を算入して「事態」収集に対応するのは、「寄らしむべし、知らしむべからず」体質が染みついているということだ。つまり「事態」の明晰でないところには、目に見えない(あるいは語られていない)要素が隠されている。そこへ踏み込まないでは、自助が起動しない。
(5)コロナウィルスの感染に対応する「事態」が明晰になるとは、私たちの暮らしのすべてが明らかになることだ。「自助」ばかりでなく、「共助」や「公助」がどの部分に担われて日々の暮らしが成り立っているか、普段は、漠然と思い描くだけでやり過ごしているが、感染を防ぐという非常事態となると、きっちりと明晰に判明させる必要が出てくる。そのときに、「自」と「共」と「公」がそれぞれに感知しなかったことも明らかにして「共有」する必要があるということだ。自宅療養というとき、一人暮らしか、連れ合いは病んでいないか、緊急時の連絡先はどこかなど、プライバシーに関わることも、「共」や「公」に通じておかねばならない。「共」や「公」の方も、持っている情報・方針などを「自」に周知する必要がある。それぞれの領域が、ある意味融通無碍に作動するには、情報の共有を通して「関係」を動態的につかんでいることが不可欠である。
もう一つ付け加えておきたい。
明晰であることを求めるのは、ヒトのクセだ。常にモノゴトが明晰になるわけではない。むしろ分かれば分かるほど、その先が混沌であることがはっきりしてきたりする。だから、「明晰」と腑に落ちた瞬間から、「混沌」が顔を出し、次の「明晰」へ向けて歩き始めなければならない。正体不明のコロナウィルスに立ち向かうには、こういう覚悟さえ共有する必要がある。その「共有」の動態的な社会・政治システムが民主主義だと思った。
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