大学の同期、だが年齢は上ということは、よくある話だ。私の世代では、同期でも、年齢が上とわかってからは敬称を用いた。長幼の序という序列意識が、社会的にも一般的であったし、長じている方が、知的にも生活的にも、しっかりしたものを持っていると感じてもいたからだ。
仕事に就いてから、そのあたりの序列が、多様化してきた。知的に優れているかどうかということとまた別に、仕事に長けているかどうかが目につくようになる。人柄も、その時々のこちらの都合も織り込まれて、その長短や善し悪しをみるようになる。私の場合、長幼の序ばかりは変わらなかったから、それはきっと、「(生きてきた)時間」に対する感覚だけは、私の実存とは別の理由によって存在している外部的な尺度と考えていたのかもしれない。そのほかの、人と向き合ったときの感懐や振る舞いは、ことごとく私自身の内面の鏡のように思えたから、相手の言動によって腹を立てたり、すぐに攻撃的に反発したりすることをしなくなった。一度、己の腑に落として、咀嚼吟味して後に吐き出すようであった。
そういうことを思い出したのは、都内のエスカレータで昔の(大学時代の)同期生に硫酸を掛けて捕まった男の鬱憤のワケを聞いたからだ。同期とはいえ年齢が上の私を呼び捨てにした(敬語敬称を使わなかった)と、溜まった鬱憤の説明をしたと報道していた。そうか、捕まった男は「長幼の序」感覚が私(世代)に近い。
呼び捨てにするというのも、今時の若い人たちの文化なのだろうと思う。知り合いの間での私たち世代は、本当に親しい間柄か、明らかに社会的な序列が明確な下僚に対してでない限り、呼び捨てにすることはしない。学校などの同世代が言葉を交わしている時に呼び捨てにする人物というのは、対象として(客観的に突き放して)みているときの表現であった。それに敬称をつけて、「マルクスさんは……」という先輩が一人いたが、ほとんどユーモアと受け止めていた。
だが若い人たちの世代は、親しいかどうかだけでなく同輩であれば、男女の間でも、呼び捨てにしても違和感がないように振る舞っている。欧米文化の影響とも思うが、敬称が変化していると、感じてきた。
いや何もそれほど世代を隔てていなくても、長幼の序が崩れていると感じたことは、一度や二度ではない。ほんの十歳若い世代が、職場秩序があるから敬称は省かないが、明らかに「年齢に関係ないよ」という言動をとることに出くわしたことが多々あった。慇懃無礼というやつである。イケイケドンドンという社会的風潮もあったろう。新しい技術が社会を切り開くという生産主義的傾向も後押しをしたのであろう。年寄りは迷惑というホンネを隠さなくなったともいえるかもしれない。文化は急激に変容していた。
そういう意味で硫酸男は、古い世代に属する文化を身につけてきていた。それに対して、掛けられた男は(掛けた男の話が事実だとすれば)、若い学生の同輩に対するごく普通の文化を吸収していたのかもしれない。そのずれが、硫酸男が身に抱えた鬱屈によって増幅され、噴き出したのだろうと思った。
文化の潮流は行く川の流れ同様に、絶えずしてとどまりたるためしなし、なのだ。だが、淀むところもあれば、急流となって急ぎ足で流れ下るところもある。川床の凹凸や川筋の屈曲が流れの様を変えているのかもしれない。その屈曲や凹凸が、一人一人の抱える鬱屈となって身のなじみ方を変えていっている。そうした文化の変化に、身が慣れるのか、あるいは馴れるのか。ひょっとしたら、狎れてしまうのか。そういったことをふりかえってみると、私たちの受け継ぎ、手渡している文化も、一筋縄で語ることはできない。
まして、海外からの文化の流れ込みもある。海外への流出が向こうの文化と融合してハイブリッドとして流れ戻ってくることも多くなった。「日本人」とか「日本文化」を固定的にみてとるわけにはいかない。ヒト・モノ・カネの流れとエコノミストはいうが、ことごとくを文化の流れとその変容とみると、ただ単に生産主義的にみるのではなく、暮らしや生活関係のすべてを視野に収めて、多面的にも多様にもみることができる。
文化の変化に身を馴染ませ、自らのそれと外からのそれとのずれを一つ一つ意識しつつ、受け入れていくことが、これからの日本の姿と思われる。古い規範にとらわれた鬱屈をぶちまけていては、自らのアイデンティティすらわからなくなる。そんな時代を歩いている。
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