2021年9月6日月曜日

もしアフガンに暮らしていたら

 アフガニスタンのカブールで女性たちのデモがあったと、TVで画像が流れている。ちょっとホッとする。米軍の輸送機にしがみついて振り落とされて何人かが死亡したとき、ああ、蜘蛛の糸だと思った。ひとつの世界ががらりと転換して様相を変えるときの庶民の姿が象徴的に現れているようで、胸が塞がれた。

 もしアフガンに暮らしていたらと、このときに思った。ぱっと思い浮かんだのは、場所は違うが、タリバンに襲われて瀕死の重傷を負った少女、マララ・ユスフザイさん。私のぼけ頭でもすぐに名前が出てくるくらい著名になった。そのときに、女は学校に行くな、一人で家から出るなと、イスラムの戒律にあるとタリバンがいっていると知った。

 いつであったかもう十数年前、イランに行ったとき、厳しい戒律の下に置かれている女たちを見た。入り口のドアにはノッカーが二つついていて、訪問客が女の場合と男の場合とで使い分ける。それに応じて出迎える側の性も変えていくという。イスラム寺院を訪問したとき、女性たちには全身を覆う黒いチャドルが用意されていて、身を覆わなければ入らせないと入口でやはり黒い衣で身を覆った女性がチェックしていた。しかし、町中で見かける女性たちは概して明るく、テヘランなどの都会の商業地では、ヒジャブと呼ばれるスカーフだが、彩色の際立つのを巻いて闊歩している姿も見かけた。また、日本人が珍しいのか、女子高校生たちが固まって私たちを指さすようにしてキャアキャアと声を立てているのも見かけたから、変わりつつあるイランのイスラムと希望を感じていた。

 イスラムの戒律にある女性への規制は、父権主義的な、つまり女性を保護することを趣旨とする男性側から仕掛けた解釈の適用と受け止めていた。だが、学校にも行かせない、単独の外出も認めないというタリバンの解釈は、時代を飛び越えて7世紀のムハンマドの時代が顔を覗かせた気配であった。そのタリバンが国家を掌握した。米軍が駐留している間の二十年間に政権が保持してきた自由な(しかし混沌の)空間が消える恐怖が、重く感じられたのであった。

 そんなときに、横山秀夫『出口のない海』(講談社、2004年)を手に取った。これは、2008年に一度読んでいる。太平洋戦争中に応召された大学生が、敗戦を見通しながら軍務につき、自爆兵器「回天」の搭乗員としてどう死ぬかを自問自答する物語である。2008年には、一人の野球青年の人生として、背景の戦局と空襲に追い回される人々の暮らしへ思いをいたしながら、読み進めた。『半落ち』でデビューした横山が、こんな作品を書くのかと思いつつ読んでいる。

 今回は、もしこれがアフガンに身を置く一人の若い女性だとしたらと思いつつ読み進めた。そうか、彼女たちは、この主人公のように自問自答しながら生き、そして死んでいくのかもしれないと、自作自演の感銘を受けつつ読み進めた。

 軍国主義が圧倒的に制圧している日本。軍務につくのは、当然とする社会的風潮。外国勢力に支配され、戦場であったアフガンも好ましくはないけれども、タリバンの支配は、まるで軍務についた主人公が、どんどん回天搭乗員としての訓練を受け、逃げ場をなくして攻撃に向かう。だが、回天自体が想定されたように不具合を起こして起動せず、生き残って帰還する。再び訓練生活に戻るが、死を約束された立場が変わるわけではない。その間の、周囲との関係から行きつ戻りつする自問自答が、まさしくタリバン政権下の女性の立場を象徴していると思えた。

 7世紀初めにムハンマドがアッラーの天啓を受けた頃には、父権主義的な観念、女性を絶対的に保護すべき内属的存在として規定し、いわば暮らしの土台として位置づけていた。しかしその後、世界の交通は圧倒的に頻繁、煩雑になり、人の暮らしも大きく様変わりした。世界がどのようにつくられ、他の世界の人々がどのように生きているかを知った人たちにとっては、1400年前の世界は窮屈な牢獄に見える。イスラムという社会環境の中に閉じ込め、浮かび上がることを絶対的に拒絶された世界である。まさしく、回天である。

 保護なんか、いらない。放っておいて! と叫ぶ女性の声が聞こえる。その場に生まれ、そこの空気を吸って生きていかざるを得ない(しかし、別の世界があることを知った)青年が、ではそのとき、どのように自らの人生の意味を思い定め、日々を送り、ある諦念に到達して回天に搭乗するか。

 カブールの女性たちのデモ行進。アフガンの女性は、この青年にくらべたら、まだ自在であるようにも感じる。どう牢獄を打ち破るか。他人事ながら、幼い頃の我がこととしてみている。

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