2021年9月28日火曜日

人と「情報」

 今日(9/28)の新聞を見て。容疑者となった時点で(昨日逮捕された)偽版画流通の元画商が「反省の弁は?」と(メディアに)聞かれて「ありません」と応えたと見出しが出ている。まるで「人非人」という扱いである。と、その下の広告欄に「小室圭さん会見拒否」と女性誌の見出しが躍っている。なんだ、これは! こちらもまるで(当然応答して然るべきなのに)「けしからん」という態度がむき出しである。

 容疑者がメディアに応じることを当然と考えている大新聞の態度が露骨である。小室圭さんという方は、皇女が結婚したいと考えている「一般人」。メディアは皇女に対しては慇懃無礼な言葉を使いながら、その婚約相手には容赦なく(おまえ何様だと思ってんのか!)と言わんばかりの「敵意」むき出し。

 果たして、メディアって、そんなに「公共」なの? って思った。「知る権利」ってメディアが代表してんのか? 「いつ、代表してくれって頼んだよ」っていうのは、素人も素人の一般人の言いそうな愚痴。頼もうと頼むまいと「立場」が「公共」なんですよって、(たぶん)答えが返ってくると思う。

 とすると、メディアの「問いかけ」自体が「公共性」を持っていなければならない。だが「問いかけ」は、取材記者や編集部員の下世話な「関心」が繰り出されているだけではないか。そもそも記者のどういう関心が土台にあって,そういう問いが繰り出されているのか、自問自答したことはあるのだろうか。

(たぶん)編集デスク辺りで、「バカめ、こんなことに(報道)価値があると思ってんのか!」と罵声が飛び交ってんじゃないか。「売れる記事を書け」とか「読者がこんなことに金を払うかよ」と叱りつけてんじゃないか。つまり、記者や編集者自体の「下世話な関心」を、(読者が読みたがる/知りたがっている)と勝手に忖名付けて、「問いかけ」「報道して」いるに過ぎないじゃないか。メディアの記者って、自分の言葉を使わないのよね。誰それがこう言ったと、他人様の言葉を勝手につぎはぎして「作文」している。それが彼らメディアの「正当性」の根拠になっている。これは、売れるのが正義という根拠である。「商業主義」と呼ばれてきた。

 だが同時に、取材したことが,ことごとく記事になるわけではない。そりゃあ紙面の制約があると、編集者はいうかもしれない。だったら、「知る権利」を代表しているような口を利くなと、一般人は思う。報道される事々に取捨選択が偏ると、まるで世の中がそれへの「関心」に満ち満ちていると思えるような事態が、生み出されるからである。

 たとえば、「小室圭さん」の場合、皇女は「公人」である。むろんその根拠は、憲法に規定された「国民の象徴」的存在に連なる暮らしをしてきたからに他ならない。ことに今回の皇女の場合、婚約者の母親の「借金」がモンダイとなった。それを皇女の「持参金」という名の税金が補填するのではないか(それはいくら何でもたまらないよね)と感じる「国民の関心」が、その後のあらゆる「報道」の(問いかけの正当性の)根拠になっている。だが私などは、母親の借金モンダイをどうして息子が応えなくちゃならないんだよと思う。そんなに(知りたければ)母親に訊けばいいじゃないか。だが、どっこい、母親は「一般人」だから、メディアが問い詰める根拠がない。だから息子に「攻撃」が差し向けられているってわけだ。

 放っといてやれよと、私は思う。そもそも論から説き立てると、30年ほどの間「象徴的存在の人質」として(当人の意思に関係なく)制約してきた。だから「持参金」でご苦労様って「解放」してやるんじゃないのと思う。「持参金」は「くに」からの慰謝料みたいなもんだ。1億5千万円ほどというが、毎年500万円とみて30年でその額になる。「くに」の人質の身代金としては、それほどべらぼうとは思わない。その「元皇女」の持参金が何にどのように使われようと、口出しする事柄ではない。金銭モンダイとしては、それで十分ではないか。

「持参金」は、結婚後も惨めな暮らしをしてたんじゃ「くに」の面目が立たない(からもたせる)とか言ってる「皇室報道記者」がいる。だが、結婚後一般人になるってことは、「くに」の面目の領域から外れるってことじゃないか。もし「くに」の面目を言うのなら、貧しくて餓死寸前になっている「民」のことを取り上げて、面目を語れよって、思うね。

 一般人になってしまえば、猥雑混沌の海に溶け込んで、忘れられるってのが、これまでの作法である。いやじつは、結婚後も「公務に類する」お役目を果たしていると「皇室報道」はいうが、伊勢神宮で果たしているお役目は天皇家の私事。あれこれ口出しすることじゃない。それをどこまでも(情報メディアが)追っかけて、月額いくらのマンションに住むとか、セキュアリティがどうなってるとかいちいち「報道」するものだから、「読者」はますます出歯亀のようになって私事に「関心」の刃を向ける。こういうのは、「公正」とはいわないんじゃないか。

 皇室だろうと一般人だろうと、慇懃無礼だけは堅持して容赦なく下世話な話に持ち込むってのは、江戸の頃からの(いや、浪速の時代からの)庶民の流儀。それを「報道」というのなら、そこにはそこの「公正」がある。文春砲のような、情報の刃は、「正義」を振りかざさない。こちらは、一つひとつ、ではこのメディアは何を根拠に「正当性」を主張してるのかと明らかにしなければならない。「世論」というわけの分からない雲霧のような下世話が背景にあると開き直る。だから、大目に見られているんだよ。

 つまり「人の下世話」が「情報」化社会というなら、「公共性」をかなぐり捨てなさいよと思う。「公共性」を被って「知りたい権利」を掲げるなら、取材したことを勝手に取捨選択しないで「報道網」に載っけなさいよ。なによりも、取材記者が,何を根拠に「情報」を追い回しているか、つねにつねに明らかにしておきなさいよと思ったね。

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