2021年9月11日土曜日

二十年という歳月と身の記憶

 ニューヨークの貿易センタービルに飛行機が突入し崩落するのを観てから20年。あのとき私は「あ、これは戦争だ」と思った。どういうところに身を置いて、そう思っていたのかと、今振り返っている。

 印象的だったのは、団塊世代の数学教師が特撮映画でも観たように、大声ではしゃいでしゃべり回っていたことだ。そりゃあ、ちょっと違うだろうと私は、出来事の象徴性に身を寄せて白い目を剝いていた。出来事の象徴性というのは、上り調子のアメリカ経済の突出した象徴である貿易センタービルに、同様にアメリカのそれを象徴的するジャンボジェット機が二機も突入する。ハイジャック犯が自爆するというよりも、アメリカの誇る物的隆盛が自爆するという構図。

 その出来事の動的誘因となったテロリストたちが起点とした鬱屈は、見えていない。でも私はそれを感じていたと、今でも思う。なぜか。多分私の身の底に、1945年の空襲におびえながら逃げ惑う気分が刷り込まれているからだと、そのときよりさらに半世紀以上前の幼い我が身の体感を振り返っている。はしゃいでおしゃべりする数学教師と私とは、その身に刻んだ記憶が違う。私は、バブル時代の暮らしそのものになじめなかった。経済的な贅沢に、つねに居心地の悪さを感じ続けていた。

 こう言い換えることができようか。

 そこまで怨恨を募らせたテロリストたちのみている現実世界。そういうことを別世界の出来事としてのほほんと暮らしている私たちの日常との象徴的衝突。それでいいのかと我が身が我が身に反省を迫っている、と。その自問自答の視覚化されたのが、貿易センタービルの崩落ではないか。これは戦争だ、という直感は自分が自らの60年近い径庭(のもたらしたこと)へ仕掛けた戦争ではなかったか。

 二十年たった今、アフガンからの米軍の撤退という出来事を目にしている。アフガンにアメリカが介入するコトの始まりは、ソ連のアフガン侵攻にあった。そのソ連軍に抵抗する勢力の一つがタリバンであり、ロケット砲などの装備を(裏から手を回して)提供していたのがアメリカだったことは周知のことであった。そしてソ連が撤退し、アメリカの援助装備で力をつけたタリバンがアフガニスタンの主導権を握り、テロリストの巣窟となった。そして、アメリカへの攻撃である。まさしく、アメリカの所業がアメリカに戦争を仕掛ける象徴的な出来事となった。

 もちろんそれは単純に、アメリカの自業自得よと言って済ますことのできるモンダイではない。アメリカの暴力装置が全世界に配置されていることによって保たれてきた「平穏」というものに、全世界が依存してきた。世界はそのように絡み合っている。だから、イスラムのテロリストたちが考えるほど「敵/味方」が截然と分かたれているわけではなく、彼らの存在が抑圧し募らせている怨恨があることを、かれらもまた現実世界のこととして受け入れなくてはならないのだと思う。因果はめぐる風車、である。

 二十年経って振り返ってみると、物はすっかり復元している。記念碑的に置かれていても、それはコトを忘れてしまうヒトのクセに対する警告、あるいは忘れていいよという代替。めぐる因果の先に、逃げ惑うアフガンの人たち、飛び立つ米軍の輸送機にしがみついて振り落とされる姿が見える。貿易センタービルの中にいた人たち、ジャンボジェットの乗客であった人たちと重なっている。それこそを、忘れては困るよ。そう感じる。それを忘れると「戦争」さえなかったことになってしまう。私の人生の起点となった身の記憶が、違った意味で「戦争」を呼び起こしている。

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