今日は九月九日、重陽の節句。なぜ奇数を陽数といい、偶数を陰数といったのか私は知らない。旧暦が月齢を基準としていたことからすると、目で見て判別できる月齢こそが、「とき」を知る手がかりだった、目で見えるものを陽、見えないものを陰と考えたとみてとれる。でも太陽も、日々見えていたではないか。単に目に見えるかどうかではない。「とき」を刻むとは、目に見えないことが(後付けになるが、文字通り時々刻々)変化していること。一日という「とき」は太陽で見極められるが、ひと月という「とき」は太陽で見極められるだろうか。一年という「とき」は何によって見極めることができるか。次元の違う「とき」の指標を組み合わせることによって目視化するということは、その指標となること自体に「違い」が見て取れる必要がある。だから、月齢となった、と「とき」の原点に興味がそそられる。言うまでもなくそこでいう「違い」とは暮らし方に由来するものでなくてはならない。
一日の「とき」は、太陽の動きが明白に示す。夜が来て、朝が来る。それを一日とするというのは、とらえやすい。同じ日々が経巡るなら、それだけで支障はないが、ひと月とか一年という、少し広い単位で「とき」の巡りをとらえようとすると、何を目に見える指標とするか。農業を生業とするか商業を営んで移動しているか、ノマドのように遊牧生活をしているかによって、目安にする事柄は違ってくる。
太陽暦発祥の地とされるエジプトでは、ナイル川の氾濫を目安にしたらしい。そして、1年を365日と定めたのだが、微妙にずれが生じることに気づいた。天体の明るい星シリウスに着目すると、ずれを生む端数が分かり、「閏年」を用いて補正をした。さらに補正を精確にした太陽暦をローマ法王グレゴリウスが定めたというのが、現在用いられている太陽暦だ。
他方、現在も太陰暦を用いているのは、サウジアラビア。これは、月の満ち欠けを目安としたことから、355日とされている。砂漠を旅するアラビアの商人たちは、灼熱の太陽よりも涼しい夜に移動する際に目にする月の満ち欠けを好ましく思っていたのかもしれない。太陽暦の365日+αと月齢の29.5日+βとのつじつまを合わせるというのは、地球の周りを公転する月と太陽の周りを公転する地球との、ずれを数値化して、計算式を考えていくことになる。世界がグローバル化したことによって、それが必要になった。その観察が目視によって行われていた人の力に、恐れを抱かないではいられない。
いま私たちが知る「旧暦」というのは、東アジアで用いていた太陰暦。いまは「太陰太陽暦」と呼ばれ、「月の変化」と農業に必要な太陽の動きとを両方取り入れ、「閏月」をいれて太陽の動きとの間に生じる差を埋め合わせるようにしていた。紀元前1300年頃の中国の殷代ですでに採用されていたというから、日本には、おそらく中国(あるいは朝鮮)を通じて入ってきたものであろう。
奇数を陽数といい、偶数を陰数と呼ぶのは陰陽五行説に由来すると思われる。なぜ、奇数が陽数で、偶数が陰数なのか。紀元前3000年頃に成立したとされる陰陽五行説に踏み込めば氷解するのかもしれないが、今私の関心の距離は、そこへ踏み込むまでには及ばない。
ただ、陰/陽に関する好悪の判断は、陰陽五行説には含まれていないと、私のか細い陰陽五行説知識は訴えている。陰と陽、闇と光なども、二項対立するというよりは、相補的に世界を構成しているとみていた。あるいは五行説の「木・火・土・金・水」も、ある種の生態系を構成するように、相互牽制的であると同時に相互依存的であり、善し悪しを超えてそれらの連関によって世界が構成されているとみていたという「自然観」だと受け止めていた。
だからそれらの二項が善悪二元論のように対立的に位置づけられた価値観は、ユダヤ教やキリスト教という絶対神に依る「自然観」が働き始めてからではないか。つまり、遙かに後世のもので、陰陽五行説のころには、今(日本の)私たちが抱いている、陽を良しとし、陰を悪しとする印象論的価値観はついていなかったのではないか。その片方(いまの時代に悪しとされることの実在)を視野に入れて受け入れる感性こそが、エコロジカルな視点を組み込んで原点に迫り、重陽の節句という移ろいに人生を重ねて言祝ぐ道筋をつけるように思うのだが、どうだろうか。
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