2021年9月23日木曜日

秋分の日

 今日は秋分の日。これから一日ごとに、夜時間が長くなる。近頃の気ままな祝日の変更を腹立たしく思っていたから、こういう自然時間の「祝日」が好ましい。暑さ寒さも彼岸までというのが嘘のように、今日も暑くなりそうな気配。だがもし、山でテントを張るような遊びをしているなら分かるが、確実に冷え込んでくる。テントに焚き火台をおいて木を燃やすのが、急に頼もしく感じられる季節の到来である。

 事故があってまもなく半年。山もテントも、まだちょっと先のことに思える日々を過ごしていると、遅々として進まない恢復に、気がもめる。あとしばらく。冬になる頃には、テント泊は無理としても、山歩きはできるかもしれないという感触を,リハビリに感じている。ま、半年はおとなしく医師の言うとおりに恢復努力を続けようと考えている次第。

 昨日は、北本自然観察公園を2時間ほど散歩した。気温も上がり、日差しに出ると汗ばむほどだが、公園内は樹陰が多く、風の快適さが感じられるほどであった。水彩画を描いているグループがあり、これはこれでいい楽しみですねと思う。でも、絵を描くという行為とグループというのが、どうもうまくマッチしない。絵が別件逮捕のように利用されているような気もするのだが、ま、いいか。他人様のことだ。

 じつは来週、この公園で「植物観察ガイド」をする師匠の下見に付き合った。むろん私は、師匠のチェックを聞くだけの受容装置。この装置はもう古びていて、右から左へ聞くそばから通り抜けていく。写真を撮って、あとで確認しようと心掛けは悪くないが、後処理がきちんとできない。原発を非難するなんてもんじゃないね。自分の後始末もできない。

 原発と違うのは、技術的な始末方法が分からないからではない。それは分かっているのだが、丹念にそれに取りかかる気性が培われなかった。ずぼらなのだ。でも原発も、安全措置を施す事を怠っていたなんて聞くと、案外、私のずぼらといい勝負。つまり、そもそもヒトが行うことに論理的な道が開けたからといって、それを鵜呑みにしてはいけないってことか。

 西欧発の概念導入と同じで、モノゴトを純粋化して受け取り、ヒトの粗忽さやズボラさを算入しないで、実行過程を設計してしまう。どうも、そういう悪いクセが私たちにはありそうな気がしている。

 欧米人は、どうこういっても,そう簡単にヒトの悪いクセを抜きにして社会設計をしない。というか、社会設計するときには、ヒトの悪いクセを取り込んだ設計をするという風に、設計思想の次元を編み上げる。それを日本では、性善説なのか性悪説なのかと二元論的に振り分けて、「問題点」をぼかしてしまう。

 じつはそうじゃない。欧米の社会論的展開は、そもそもヒトである自分を信用しないことから立案が始まる。性悪説というより、神ではないヒト=不完全な自分という哲学を組み込んでいるのだ。ところが性善説という「わたしたち」は、自身を大自然の子、即ち無垢に生まれ、邪悪な心持ちを外から持ち込まれなければ悪心を抱かないで育つと、信じている。現実はそうではなく、いつの間にやら,取り囲む親や世間の色に染められてこそ「育つ」。育ってみると、性善とか性悪と一筋縄でくくれるように分けられない。当の本人すら、何で己がこうなってこんなコトをしているのか、わからないことに取り囲まれている。自分の身につけてきた感性や感覚、言葉のことごとくが、出所も根拠も不明のことばかり。となると、まずわが身を疑うことから、世界と向き合うことがはじまる必要がある。

 ズボラな私が、何をきっかけに、自己吟味のようなことを身につけるに至ったのか。たぶん、一つ思い当たるのは、自分に自信がなかったからだ。周りに言説明晰、判断明快、行動果敢、自信過剰な人がたくさんいたのが、東京での大学生活であった。それに比して私は、思っていることが言葉にならない。でも口にすると、反射的に打ち据えられる。相手の言うことを聞いていると、なるほどそれもそうだと半分得心する。じゃあ残りの半分は違うと言えばいいようなものだが、その根拠が分からない。オレはこう思ってるんだと断言するような力強さが生まれてこない。結論先取り的に聞こえるかもしれないが、そこまでズボラなのだと我がことを感じてはいた。

 そんな私が、どうしてこの年までのほほんとやってくることができたのか。それはそれで考えて見ると紆余曲折のある面白いテーマにはなる。また、そのテーマを私の人生の浮き沈みに押し広げてみると、季節的な分岐点(つまり春分の日や秋分の日)がどのあたりにあったかも、わからないではない。人には言えないことも含めて、わが身の裡には心当たりもあるように感じる(どうして他人様に言えないのだろうと考えると、それがまたそれで、一つの論題となる)。

 いずれ機会があれば、わが身から引き剥がして、記すこともあろう。これから夜の長い日がやってくるから、焚き火を囲んで、思い出したことを書き止めていく。そう考えるだけでも、何かの転換点・メルクマールを得たような気がしている。

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