2021年9月12日日曜日

仁慈の心と出撃拠点

 もう60年と半年も前のことになる。東京に出てきて、一人暮らしをする準備を、じつはことごとく長兄の世話になった。兄はその翌月から大阪の勤務になっていたから、彼の下宿をそのまま引き継ぐように私は移り住むことになった。下宿のあった北区西ヶ原四丁目へは、駒込の駅から染井通りを抜けて10分ちょっとだったろうか。東京外語大学の裏手に位置する住宅の立ち並ぶところにあった。下宿のおばさんは小学生の姪っ子の世話をしている気さくな方。兄は、部屋の掃除の仕方、水洗便所の使い方、食事のときの作法など、細々と教え、それらは私にとっては、岡山の片田舎と東京の文化の違いを乗り越えていかねばならないハードルのように感じられ、身が引き締まる思いがしたものであった。

 二階の隣部屋には(兄と顔見知りの)外語大の4年生が住んでいて、シューベルトの冬の旅が一番のお好み。バッハやモーツァルトの音盤を掛けて聴かせてくれて、これもまた、文化の大きな違いを感じさせた暮らしの出発地であった。

 いや思い出したのは、下宿に落ち着き、兄が赴任地へ赴く3月の下旬。駒込駅まで見送りに行ったときのこと。

「じゃあ、元気でな」

 と、兄が手を上げて改札口へ向かおうとしたとき、なぜか突然目から涙があふれ出した。行きかけた兄は、引き返してきて私の肩をたたき、

「大丈夫だよ。心配ない。やっていけるよ」

 と、言葉を足して、改札口を通って振り返り、ふたたび別れの手を上げた。

 あのときに溢れてきた涙は、生まれて初めて「独りぼっちになる」ことへの不安だったのだと、いま思い返している。

 考えてみると、生まれてそれまでの18年間、いつも兄弟に囲まれていた。それは同時に、兄から弟への慈愛に満たされて、何の不安を抱くこともなく世間と向き合うことのできる私の出撃拠点でもあった。しかも、一度も慈愛を受けているという風に、我が身を対象化することなく、ごくごく自然なことのようにもたれかかって生きてきた。そうした自分の立ち位置が、兄に「じゃあ、元気でな」という言葉を掛けられた瞬間に、分かったのであった。引き返してきたときの兄の言葉は、その私の胸中の揺らぎを瞬時に見て取ったものだったろうが、そうか、あれこそが「慈愛」であったと今朝方の夢で思い出されたのであった。

 あのときの出撃拠点とは、田舎と東京との文化の違いに向き合う拠点であり、これから独りで学生生活を送る自律の足がかりであり、「大丈夫」というのは、それだけの生育歴を身につけてきているはず、狼狽えずにちゃんと向き合って行けという激励であった。それこそが、兄が弟に向けた「慈愛」。

 三男坊の私は普段、すぐ上の次兄にくっついて遊んでいた。次兄はいろいろと工夫をして遊びをこしらえ、年上の仲間たちの間に私を入れて、面倒を見てくれていた。兄の情景にいつも浮かぶのは、次兄。長兄は、もう一段上の世界に位置して、三男坊の私からみると手の届かない文化世界を生きているエリートに見えた。ことに高松から海を渡った玉野に移ってきて、方言の違いもあって学校で孤立してからは、私の文化の吸収先は、もっぱら二人の兄に依存しっぱなしであった。と同時に後に、それが世間と向き合う根拠地となったと、いまならば言える。

 その長兄が生まれて、ちょうど今日で、84年目。すでに故人となって7年になろうとしている。夢枕に立ったのか。

 大丈夫だよ、まだ、やっていってるよ。

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