2022年2月28日月曜日

身の微細

 リハビリに行くといつも「どうですか?」からはじまる。私の右肩の様子の変化を尋ねているのだ。一週間でどこがどう変わったか変わらないかを伝えようと思うが、私自身が、それをつかめない。身を動かす毎にどこに不都合が感じられるかをチェックする。ふだんの動かし方ではなんともないのに、少し変化を加えると右腕の重さと可動範囲が、左肩や腕に較べて違うことがわかる。

 その少しの変化は、朝のTV体操をしていて、わかる。僅か十分間の体操である。ラジオ体操の第一、第二に加えて「みんなの体操」とか、片足立ちでバランスをとったり、肩や腕の可動範囲のチェックが入る細かい体操が組み込まれて、なかなか変化に富んでいる。

 そのとき例えば、右腕を掌を前に向けて横に伸ばす。同じく伸ばす左腕と違った感触はない。ところが、掌を返して小指を上にしてあげると、途端に左右の腕の違いが際立つ。右腕が重く右肩と右上腕に痛身を伴ってくる。身体のつくりが微細にできていると思う。

 リハビリのはじめにそう話すと、その箇所の探りから入って、経絡を辿るように指で押さえ、もみほぐすように移っていく。その辿る先が時に腰の方にまで及ぶ。そして押さえられたポイントが間違いなく凝っているというか張っていたことがわかるように、軽く解(ほぐ)けていく感触を覚える。20分ほどのリハビリを終えると、確かに身軽になっている。ありがたい、これでまた、一週間は持つと思える。

 何かの事故があったからではないが、私の身体は強張り始めている。掌の強張りを医師は「デュピュイトラン拘縮」と、舌を噛みそうな名で呼んだ。この「拘縮」というのが、強張りを指しているのだが、これは、たとえば農婦の背が丸まっていたり、街を歩く年寄りの背骨が右へ大きく傾いているのにもいえるのだろうか。ふだんの暮らしの中で、遣わない身のこなしというのが、ずいぶんとあると、体操をしていると気づく。その遣わない部分が、長年掛けて(どのくらいだろうか?)固まってしまうというのだ。パソコンのキーボードを叩くのに小指も薬指も遣ってはいる。にもかかわらず、左の掌も右の掌も小指と薬指に拘縮がはじまっている。 

 子どもの頃には、そういう心配はしなかった。いや、20代や30代の頃も、そのような気遣いはしたことがない。だが、身体がほぼ出来上がった(20代半ば?)頃から、身の固まりははじまるのかも知れない。というよりも、気遣わなくても身体は、無意識にいろんな動きをしている。ことに寝ているときの寝相の悪さは(ことに深酒をした夜のそれは)、七転八倒の苦しみかと思うほどに暴れ回っていた。あれは結構、寝ながら身の不都合を調整する運動だったのかもしれない。

 ところが、年をとるに従って、身体が暮らしに必要な身のこなしを自ずと身につける。無意識の習性として身が馴染み、定着させることで楽になる。それが昂進すると、その(暮らしに必要な動きの)特性を保有して固まり始めるような気がする。そうならないためには、意識的に解してやらなければならない。それが、体操であったり、筋力保持の運動であったり、持久力を強めるためのランニングや水泳や登山だったりする。いろんなスポーツが広まることによって、背中の曲がった年寄りが少なくなっていることに、街を歩いていて気づく。

 年をとることと、暮らしの習性が昂じて身体に不都合が定着することとを意識的に調整して、ほぼ適当な身体性を保ち続けることが意志的にできる人にはできるようになってきていると言える。だが私は、それが苦手なのだ。長年の、自ずからなる流れに逆らわない気性が定着してしまっている。ちゃらんぽらんだし、努力が嫌いだ。なるようになる、なるようにしかならないという身についた習性が、ことのほかぐうたらな、行き当たりばったりの暮らしに向いている。

 その「ぐうたらの壁」にいま突き当たって、修正するかい? って、わが身の別人から声を掛けられている。でもなあ、いまさらなあ、と渋る声の方が強いのが、心地よく響く。これって、なんだろう?

2022年2月27日日曜日

回復力

 暖かくなってきた所為でしょうか、身体が軽くなっています。何より昨年4月の事故以来のリハビリが効いてきて、今月初めから通院が週一回になっています。(常連客の)私担当のリハビリ士も固定して、遣り取りしてから、微妙な変化を指先で探るのか、勘所をきっちりと押さえて、あっ、そこそこ、と声を上げたいくらいです。人のからだって、精細につながっているのだと感じるし、それを、外から押さえて探り当てるという精妙さにも感嘆します。マッサージというと、撫で摩るだけかと思っていましたが、そうじゃないのですね。でも、血流を良くしているのだろうか、それとも体液の流れとか神経の通流とかに作用しているのだろうか。身の内部で何が起こっているのか、何を起こしているのかわかりませんが、患者としては、結果良ければすべて良しです。

 身が軽くなると、長く放っておいたコトを、やっぱり仕上げようという思いが、緩やかに湧き起こってきました。他でもない、2012年から続けてきた山の会の山行記録をまとめることです。

 4月の事故当時既に8年分をひとまとめにして、自分で編輯デザインして、印刷製本だけをして貰おうかと考え、そういうことをしてくれるかと知り合いの出版社に相談していました。無論、快く諒解して、いろいろとアドバイスも貰える話が進んでいました。

 ところが2020年の1月末から突如現れた新型コロナウィルス禍。山歩きそのものが大きく制限され、4月からはしばらく休止状態になってしまった。公共交通機関を使わなければいいのだと気づいてから、車にテントを積んで行くことにしたり、登山口近くの鉄道駅まで来る人と合流して歩いたりして山行が再開した。そうなるとほとんど私の週1の山行トレーニングと重なってしまって、毎週私が行こうと思う山を案内し、声を上げた人とどこかで合流して一緒に行くという形になったわけです。

 いま思うと、それが、私の山行気分を昂進して、だいぶ無茶な歩き方を楽しむようになっていったのだと、反省も交えず解析しています。

 ともあれ、山行記録の方は、コロナになってからも綴っていますから、8年分が9年分になり、降る年だけを数えれば、もう間もなく十年になります。事故以来、身が思うようにならず、本にすることも忘れていました。思い出すことができるようになっても、果たして本にするってどういうことなのかと、余計なコトへ考えが進んでしまう。ますますやる気が削がれる。そうして、もういいやという気分で放りっぱなしにして年を越した次第。

 ところが2月になり、リハビリも週1回でいいとなってから、山行記録をまとめる気分が甦ってきました。無沙汰していた出版社に話を持ちかけると、そちらも少し様変わりしていて、紙媒体ではないが、本にしたものをネットで販売する事業に乗り出していて、私の本もそういうコンテンツの一つとして使わせてもらえればと、話が付け加わってきました。それはまたプランバシーの保護のこともあるから、そうすると書き方も若干変えなければなりません。それは相談しながらということにしたら気分が楽になったわけです。

 こうして、再び「素原稿」を読み直しながら、本にする準備を再開しています。先に何かを置いておかないと日々を過ごしていけないというのも、困った私の習性ですが、でもそれが私の回復力の証しだとすると、それはそれで大切にしなくてはなりませんね。

 今日は花粉が飛び交うほど温かくなるという。荒川沿いの彩湖にでも行って歩いてみようかな。

2022年2月26日土曜日

蟹の甲羅

 ロシアの侵攻を受けたウクライナの街の様子が画面に生々しい。日本語を話せるウクライナ人もいて、訥々とした語り口が痛ましく響く。安否を問う在日の娘のPC画面に向かって「なぜなの? なぜなのかわからない」と問いかけ応える母の声が悲痛である。

 TVのコメンテータは、チェルノブイリが占拠されたことに触れたり、NATOが加盟国を増やしてきたことがロシアを追い詰めていると解説したり、プーチンの思惑を推しはかったりするが、人々との乖離が大きい。

 ウクライナの人たちからすると、どうしてわたしたちがロシアと戦争しなくちゃならないの? と、わが日常を探ってみても腑に落ちない。国内東部での争いがキエフの日常に響くようなこととして届いていないのか。親ロシア派と親自由社会派(?)という対比が、いかにも政治的というか、ジャーナリスティックに腑分けされたカテゴリーなのか。クリミアがロシアに編入されたことも、政権上層部の権力闘争の結果であって、〈わしら知らんもんね〉と受け止めているのか。

 ウクライナのTV討論番組の中で、親ロシア派の国会議員に進行役が殴りかかる様子が映る。既に国内の分断が極限にまで来ていると思われる。だのに、市井の民の〈わしら知らんもんね〉というのは、どうしてなのか。ソビエト時代も含めて、市井の民が手の出しようもない政治世界のことには、知らぬが仏を決め込む習性が身にしみているのか。だとすると、「なぜなの? なぜなのかわからない」という声も、少しは解きほぐせる。政治の権力闘争は、周辺諸国との対立も含めて、雲の上の争い。昔風にいうと、神々の争いが突如、地上に降りてきて、その災厄に巻き込まれた人々の困惑なのかもしれない。とすると、たぶん日本の私らと似て(程度の差は大きくあるが)、政治に対する見切りが底流にあるのかもしれない。

 あるいは、また、家族をポーランド国境に送り届けた父が「キエフへ戻る」と話したり、弾薬や自動小銃が売り切れたと取材記者がレポートするのを聞くと、日本との積み重なった社会の径庭の違いが浮き彫りになって、わが身に問いかけてくるようだ。つまり、雲上人の争いであったコトが、わがコトと受けとられる端境の辺りに近づいてきていたのかも知れない。つまり国政が市民の暮らしの地平に近づいてきて、それを自由を護るという言葉で集約していく気風が醸成されてきているのかも知れない。

 かも知れない、かも知れないと積み重ねるのは、私がウクライナのことを何も知らないからだ。それは同時に、ウクライナと日本の経てきた歩みと日常の「混沌」が身に伝えてくる響きが異なるからでもある。ニュースを観ていると、その「異なり」が伝わってくる。それは戦火に直面しているウクライナの民とそうではない日本の私が、はじめて出会って「当事者」となる入口に立っている姿である。蟹の甲羅からちょっと顔を覗かせたような。日本にいる私にとって、では、ロシアのウクライナ侵攻の「当事者性」とはなんだろう。

 TV画面や新聞紙面に踊るウクライナの様子が、一つひとつわが身の日々の暮らしと対照した問いかけに思える。そうか、これが国際政治とか、国際社会の入口か。とすると、この問いかけに、一つひとつ丁寧に応えることが「当事者性」への入口に立つことであり、「当事者研究」ではないかと、日本の市井の民である老爺は考えている。その「研究」の応答舞台は、もはや国際政治も国際社会もみな、国内政治や日本社会と区分けできない人類史的文化の研究であり、そこに系統的な論脈とか文脈が備われば、学術研究になるのかも知れないと、入口とは別の出口へ向かっているように感じながら、考えるともなく思っている。

2022年2月25日金曜日

どこへ行けばいいの!

 ロシアがウクライナに侵攻した。やるな! 入るな! と警告してきたEUもアメリカも経済制裁という以外に手の施しようがない。なぜって? ロシアは核兵器を持っている。その上、それを使うかも知れないと匂わせて、持っているぞと高言している。核抑止力が、大国の侵略が世界大戦になる歯止めになっている。皮肉なことだ。チェルノブイリをまず制圧したというロシアの戦略が、ウクライナの持つ「原発という核の脅威」を抑えることへ向かわせたと考えられるからだ。しかも、戦後国際秩序の基本を無視して侵略に踏み切るロシアのこと、ひょっとすると核兵器を使うかも知れないと思うのは、ごく自然だ。

 もしヨーロッパやアメリカが軍事的に対応すると、第三次世界大戦になる。核を用いず、ウクライナ国内の戦闘支援となると、泥沼に陥るのではないかと心配する向きがある。多分そうはならない。なぜなら、ロシアはウクライナを廃墟にしてもいいとは考えていないし、ウクライナ国民の感情の底流に親ロシア感情があるからだ。ゲリラ戦になるほど、ロシアと決別しヨーロッパと手を結ぶ気風があったようには思えない。親露政権が確立してくれれば、それがベストと(ロシアは)思うに違いない。そんな事態をウクライナの人々が受け容れるかどうかは、わからないが、軍事力を背景にそれを押しつけられると、ま、それでも仕方ないかと我慢する程度にロシアとは親しみを身に刻んできている。

 ここがゴチャゴチャした場合、中国はロシア側について参戦するか? いやたぶん、しない。欧米露が第三次世界大戦となったら、中国はその結末を傍観して、アメリカが力を落とすのを待って台湾を併合する。それくらいの賢さを習近平は持っている。

 北朝鮮はどうするだろう? これもたぶん、参戦はしないが、独自に韓国へ軍事攻勢を掛けることは考え得る。北朝鮮国民の食料難を乗り切るには、韓国と統合するようにして危機突破を図る以外に脱出口が見えない。もちろん力尽くということもないわけではないが、こちらは文政権と共に国家統一を果たすという旗を掲げるのを得策と考えるに違いない。大統領選で負けるかも知れない現政権側にとって、この大義名分は、捨てがたい。当然、アメリカとは縁を切ることになる。だがこれくらいの不義理は、世界大戦下ともなれば、どうということはない。中国が後ろ盾になるかのようにみえていることも、虎の威に見えよう。

 などと私が世界地勢図の動きを推しはかるのは、全くの傍観者だからだ。TVの画面で「どこへ行けって言うの? 私ひとりで、どこへ行けばいいの?」と泣きながら街路を通り過ぎてゆく老婆をみると、世界地勢図なんかは吹っ飛んで、胸が痛む。街路を埋め尽くす車列をみると、逃げだそうとはするものの、逃げ場を失って立ち往生している庶民の姿は、ひとりかどうかではなく行き場のない老婆と同じだと思う。そしてそれは、私の姿と重なる。

 いつであったか、長年親しく言葉を交わしていた友人に「もし外国の攻撃にあったらどうする?」と歳をとってから聞かれたことがあった。私は即座に「逃げる算段をする」と応じたら、以来彼には愛想を尽かされた。彼がある種の愛国者であり、統治的に日本の政治を考えていることは承知していたから、彼からいつかそういう問いかけがあることは予想がついたし、正直私は「逃げる」以外に力が無いと思っていた。でも彼は、もう少し日本の社会や国家を算入した考えを聞かせてもらえると期待していたのだろう。心底がっかりしたようだった。

 友人をがっかりさせたのは悪いと思うが、「逃げる」以外、私に何ができるだろう。命が惜しいとは思わない。子や孫を護るという心持ちがないわけではない。だが一緒に逃げる以外に、何ができよう。ロシアは軍事施設を標的として攻撃し、制空権を掌握したといっている。つまり彼らの侵略は、市民を標的としているわけではない。国民国家的な領土領海という近代的線引きの次元で争っている。それは市井の民にとって、自分が護ろうと思っていることとずいぶんなズレがある。

 加えて近代の戦争は、私たち市井の民が手を出せる次元のものではない。せめて防衛に力を尽くしている武力や外交力の発揮の、邪魔をしないくらい。唯一つ、市井の庶民の間に流布される「情報」を見極め、それに踊ったり踊らされたりしないことを心得ることは重要だ。でもそれは、この事態から「逃げる」ことと矛盾しない。しかもその「情報」は、市井の民の気風を混ぜ返して、護るに値する文化をぶち壊してしまう恐れを多分に含んでいる。

 ウクライナの民がもし悔やむことがあるとすれば、もっと日頃から社会的な気風を、護るに値するコトへ磨きを掛けておくべきであったということではないか。おいおい、待て待て。まだそんな風に見限るなよ。ウクライナが自由な社会に踏みとどまるというのなら、親露派の人たちもそういう気風を守りたいというような、それなりの政権のつくりかたがあるのではないか。それがロシアの気に食わないということもあろうが、そこでこそ、ウクライナの道筋はウクライナ人が決めるという強さを、対外的にも提示してみせることができるのではなかろうか。

 あっ、いや、そういうのを政治過程に乗せて外交場面に生かして行くのは政治家や官僚たちがやってくれればいいこと。市井の民は、市井の気風を守るに値するものに仕立てていく。それは、日々の人と人との遣り取りで、日々、そこ場で繰り返し育てていくことだと思う。そうなってこそ、行く所はどこにもない! ここで死ぬ、と肚が据わる。

2022年2月24日木曜日

なぜ「奇蹟」が平凡に響くのか?

 図書館の書架に見掛けて、秋月達郎『奇蹟の村の奇蹟の響き』(PHP、2006年)を手に取った。タイトルの「奇蹟」って何だろうと思ったから。ストーリーは読み始めてすぐに見当がついた。ぽつりぽつりと、他の本の合間に読み進め、いま読み終わった。

 徳島県に収容された第一次大戦の山東半島青島の戦いで敗北したドイツ人俘虜。全国の何カ所かに分けられ、その一部、約一千名ほどが徳島の一番札所霊山寺に近い板東に収容された。日露戦争の時もそうだったと聞いたが、この頃の日本の俘虜に対する処遇は、とても丁寧だったらしい。そう言えば、ヴェルサイユ条約締結の折の「同盟および連合国」の会議に於いて日本は「人種差別撤廃」を盛り込むよう提議し、米英の反対に遭って取り上げられなかった。つまり、それほどに日本の外交官・軍人は国際的なセンスにおいて先端的であったとも聞いている。

 その俘虜たちと徳島の町の人々の期せずして起きた交流が、パンを焼く、チーズや乳製品をつくるにはじまり、ドイツ文化の伝承が行われ、音楽を聞くことから楽器を奏でることへと広まり、徳島の人たちがオーケストラをつくり、ベートーベンの第九やメンデルスゾーンの演奏をするまでに至る。おおよそ敵国人と対しているという風情ではなく、不意の外来客と収容所内外における交流の積み重ねが「奇蹟の響き」を湛えて受け継がれることになった顛末を物語る。メンデルスゾーンがいなければベートーベンの名が残ったかどうかもわからないと知るのは、驚きでもあった。

 でもどうしてなのだろう? 既視感がある。この話を人情ものと読んでいる自分に気づく。青島で敵として対峙した憎っくきドイツ人俘虜と偶然相まみえ、徳島の人を介在させてドイツ文化を受けとっていくというお話しは、主人公の俥曳きと地元篤志家のお嬢さんとの(身分的な軛に縛られた)悲恋物語として読めばありきたりの響きしか齎さない。あるいは、俘虜収容所の所長や副官の鷹揚な振る舞いも、いまの「敵基地攻撃能力」を俎上にあげる愛国者たちの言動をみていると「奇蹟」にも思えなくもないが、先の日露戦争の頃の軍人の振る舞いを知っていれば、言挙げするようなことではない。

 だがこの時既に耳が聞こえなかったベートーベンが自ら指揮して万雷の拍手を得てからほぼ百年徳島の田舎の村で、ドイツ人による第九の演奏が合唱付きで響き渡ったとなると、えっどうして? と奇蹟感が湧き起こる。さらにそれが、徳島の人たちに感動を呼び起こし、オーケストラが結成され、演奏してみせる。

 彼らに合奏を教えたドイツ人は、「……なんという稚拙な演奏だろう……」とつぶやき、さらにこう続けた。「だが……何というすばらしい演奏だろう……」。

《音と音の切れは悪い。調子は外れる。指揮には従わない。音程もずれる。ドイツならば、子どもでもこれほど下手には弾かないだろう。だが、彼らは、ベートーベンのこころに迫ろうとしている。第九の神髄に触れようとしている。合唱はないながらも、シラーの詩をありありと奏で上げようとしている。これが音楽だ……。》

「これこそが……歓喜の歌だ……」

 と、記している小説を、さらに百年ほど経った時点の私が読んでいる。そう思うと、ありきたりの人情話が、全く違った文化の伝承として響いてくる。ちょうどバルセロナのガウディが手がけて未だ完成していないバシリカ(聖家族教会)のように、ベートーベンという作曲家が二百年前の指揮したこの曲が、百年前に徳島にいたドイツ人俘虜たちによって演奏され、それが徳島にほとたちに受け継がれ、さらにそれを百年経っていま、ドキュメンタリーのように読んでいる。あの教会のように、ガウディの手法が受け継がれ、受け継いだものが自らのタッチを加えながら補修をし、さらに建築する。それを見ている傍観者の私も、そこに込められた「祈り」を感じて、しばらく立ち竦む。

 この文化の継承の偶然性が齎す「奇蹟」こそが、この小説のタイトルとなっている。そう思うと、平凡な人情話が、全く違った響きを湛える。

 と同時に、私の裡側に広がる波紋は、身を通すという当事者性の感触。俥曳きの、端から適わぬと世の習いから定められたような恋心が、これまた文化の香りを湛えて行間に漂う。人の出合い自体が偶然のことであり、それが齎す出来事もまた、ひょんなことからはじまり、思わぬ結果をもたらして、人の目に触れる。その痕跡を、ひとりの作家が目に留めて、調査に乗り出し、炙り出された記録の行間に見え隠れする人々の姿に思いを馳せ、まるで夢を見ているように動き始めて、物語を紡ぐ。この人と人との「かんけい」がもたらす痕跡こそ、「奇蹟」と呼べることなのかも知れない。

 つい先だって(2/20)の本欄で「応答と日常の成立をほとんど奇蹟のようなものとして捉え、それを獲得すべき状態と考える哲学」の系譜に属すると自称する国分功一郎の「日常」を、よくわからないと私が感じていたことが、この小説をこういう風に読み解くと、ピタリと当てはまって、腑に落ちる。それは、「文化の伝承が世代を超えて受け継がれていくのは、奇蹟のようなことだ」と示している。

 その「奇蹟」が平凡に響くのは、苦難辛苦があったにせよ、75年という年月を命を奪われることもなく生き続け、子をなし、また孫を得て、平々凡々と暮らし続けてきた繰り返される奇蹟の連続に身が慣れてしまったからであろうか。その「慣れ」が思考の枠組みにまで及んで、コトを概念化し、それに寄りかかって身を処しているからではないのか。

 もう一歩踏み込んでいえば、日常を身に刻むのに、触覚としての「心」を通さないコトは痕跡を遺さない。つまり、文化的な伝承としては意味を成さない。それどころか、「心」を通さなくても身過ぎ世過ぎができるという文化を、身に刻む結果になる。それって、ゲームの世界じゃない?

 そうか、理知的世界は、もうそこまできてしまっているのか。とすると、知的であることは少しも喜ばしいことではなく、むしろ、身を通す、まさしく「痴的」であることこそが、誇らしく語られるべき「痴性」ではないか。

 おやおや、また脱線して、混沌へ向かおうとしている。ま、これが、たのしいのだが……。

2022年2月23日水曜日

当事者カフェの開店

 一年前(2021-2-22)の記事「次元の違いを打ち出して論議を整えよう」を読んで、甘いなあと思った。TVの遣り取りを「論議」にしませんか? と問いかけようとしたのかな、一年前には。だがすぐに「そうだね、井戸端メディアだね」と、TVがとりもつ社会的事実へ立ち戻って、居直るように「わたし」の感懐に引きこもる気配を見せたのが、去年のこの記事でしたね。

 少し考えてみると、ここ何日か前から読んでいる熊谷晋一郎の「当事者研究」は、「井戸端会議」を「研究」にもっていく実践、と考えるとよくわかる。また、昨日取り上げたピアニスト・西川悟平の「強盗に誕生祝いをプレゼント」の話は、「当事者研究」ではないけれども、まさしくその「研究実例」の様相を呈している。

 TVメディアということにこだわらず、「次元の違いを打ち出して論議を整えよう」というのは、だれがそれをするのかわからない。MCと呼ばれる番組のリーダーにその役を務めることを期待するわけだが、そうなると、他の人は当事者にならない。「論議」というよりも「いま」「ここ」で向き合っている者たちが「いま・ここ・をめぐって言葉を交わす」ように切り替えていけば、「当事者研究」が緒に着く。「井戸端メディア」が消費的になるのは、そこで問題にしている「事象」の「当事者」として自らを組み込んで喋らないからだ。それは同時に、場を共にしている他の面々への問いかけにもならない。他の面々が応答することもない。これが、消費的というおしゃべりの実態。銘々が言いたいことを勝手勝手に言う。問いかけているわけでもなく、応答を望んでもいない。

「言葉を交わす」というとき、自分の言いたいことを言うというよりも、相手に伝えたいことを口にすると「問いかけ」になるか。いや、まず啓蒙的にものをいう問いかけは、応答に値しない。啓蒙家というのは、自らを当事者として提出していない。中空の高見から睥睨してコトを伝えようとする。それは押しつけである。さらに、受けとる側が応じる構えを持っていないと「応答」にならない。この微妙な立ち方の違いが、「言いっぱなし」になるか「遣り取り」になるかの境目。

 昔日の井戸端会議は演説会ではないから、その場に立ち会っていれば、黙っていても参加している。沈黙も一つの応答の形である。だがやはり「言葉」にしなければ、当事者としての存在が明かされない。つまり、井戸端会議にも、水先案内人が必要なのだ。それがありさえすれば、当事者研究の最適の場と言えるかも知れない。ピアニスト西川にとっては、強盗に襲われた自室が、その研究の場であった。水先案内人は西川自身。

 世間話が苦手な私は、そういう意味では、自問自答が似合っていて、井戸端会議は苦手。でも、国分功一郎と熊谷晋一郎という二人の達者がパイロットしてちょっと扉を見せてくれた。当事者カフェの開店ってワケ。そのおかげで、自問自答がそれなりに進んでいる。ありがたいことだ。こういうのを、待っていたって感じである。 

2022年2月22日火曜日

一期一会の当事者研究

 去年の2/21のこのブログ記事《やわらかい向き合い方が「かんけい」を蕩けさせる》は、昨日の「当事者研究」を、ピアニスト西川悟平が実践している。NYで修行中の西川悟平のアパートに二人組の強盗が入る。刃物を突きつけ部屋を物色している時に、西川は彼らに話しかける。そのうち「何でも持っていっていいよ」といい、強盗の一人が誕生日だと知ると、ハッピ^・バースデイ・ツユーとピアノを弾いて祝う。そうして朝が明けるまで過ごして彼らは引き上げていったという(西川の)「鉄板ネタ」。

 これこれ、一年前のこの記事にある、ピアニスト・西川悟平のふるまいこそ、まさしく「当事者研究」だ。こうした振る舞いが「かんけい」に染みこんで、人と人、社会の気風がつくられていく。一期一会でもある。つまりそうした気風を伝え遺そうという意図があるかないかに拘わらず、今「わたし」の立ち居振る舞いは、一匹の蝶の羽ばたきのように「世界」を震わせる。

 いうまでもないが、いいことばかりではない。「当事者」にとって抜き差しならない事情がそうさせる振る舞いも蝶の羽ばたきであって、世の中に震えをもたらして、それなりの気風を伝え遺す。良き気風を遺すとか悪しき気風を排除するという風に考えると、たぶん、道を踏み外す。いろんな感性と考えをもった多数の人々がさまざまに震えを受け止め、思い思いに自らのメトロノームを刻むから、思いもよらない震えを生み出してしまう。

 だから熊谷晋一郎は「当事者研究」といったのだと、改めて思う。つまり、表出した振る舞いがなぜ、誰にとって、何を意味しているか。それを社会の場に置いて意識的にとらえ直してみることを、関わる人たちで「研究」する。そこから、どの道筋を辿れば、社会にとって最良の道が拓けるかを考えながら進もうと言っているようである。

 ここからもうひとつ「論題」が浮かび上がる。一期一会ということは、そこで起きているコトは一回性ということ。簡単に一般化したり普遍化したりしては、最初の蝶の羽ばたきの意味をそぎ落としてしまうかも知れない。つまり、最初の蝶の羽ばたきを受け止める別の蝶は、自らの身を通して応答しなければならない。それが、ありきたりの慣用語を用いてありきたりの応答であった場合には、最初の蝶の羽ばたきを「責任」を以て受け止めているとはいえないと、今度は国分功一郎がいうのである。

 多様な多数の人が一つの(国民国家に囲われた)社会に出逢って、気儘に羽ばたき合っている。その一つひとつを「当事者研究」としてとらえようとすると、如何に情報化社会とは言え、「わたし」にはとてもとらえきれない。その「とらえきれない」ことを、情報化が今ほど進んでいなかった世の中では、「沈黙」と「推察」と「配慮」として気風として身に刻み遺し、伝えてきている。

 おしゃべりな「わたし」が、今更こんなことを言うと嗤われるが、わが身に刻まれた感性や感覚、思考やその方向きをしめす「ことば」を、あらためて吟味していくしかないようだ。 

2022年2月21日月曜日

当事者運動

 昨日の話に続ける。国分功一郎・熊谷晋一郎『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究』(新曜社、2020年)の序章は、副題にあるこの二人の著者の研究テーマがどう結びつくのかを、紹介しつつ概観している。それがまた、日頃私の考えてきたことと響き合って、いちいち刺激的である。

 本書の副題にある「当事者研究」というのは、熊谷晋一郎の研究テーマ。この方は小児科医。今年の誕生日で45歳になる若い方。「新生児仮死の後遺症で脳性麻痺に、以後車椅子生活となる」と著者紹介に記す。

「当事者研究」とは何かを語る熊谷の話は、このブログに日録的に記す、混沌のままの私の思いを見事に整理して提示して見せてくれるようである。なるほど「研究」というのはこうしてすすめるものかと、わくわくしながら読み進めている。

 まず、私も思い当たる時代の変化。「1980年代に医学モデルから社会モデルへと、コトをみる視線が変わった」という指摘。脳性麻痺の熊谷自身がそれによって救われたと記す。どういうことか。

 熊谷の障碍が医学モデルでは、熊谷自身の身の裡の異変であり、それを「スタンダード/健常者」に近づけることが治療と考える。それに対して社会モデルでは、脳性麻痺が社会的な事象として考察されるようになり、どう社会が受け容れているかとモンダイにする。医学モデルでいえば、脳性麻痺は熊谷自身のせいで起きているコトだから、彼を治療することから始まる。彼が社会に適応できなければ、それはそれで彼が引き受けなければならない問題という見方だ。それに対して、脳性麻痺の人が社会的活動をするのに何が不都合なのかを、社会の側の組み立て方として考えていくと、障害を持った人が自らの責任として引き受けることは極めて限られてきて、心持ちが楽になった。その変化が1980年代に起きた、と。

 これを「当事者主権」とはいわず「当事者研究」と呼ぶのは、「当事者主権」と名付けると「当事者」の正義が発生して、当事者と社会との「関係」が固定されるとみる。その動態的スタンスが好ましい。こうも言えようか。「**主権」というと、**の社会的な正当性が打ち立てられることになり、出来事に際しては、誰のどこに責任があるかを追求することに向かう。だが「**研究」と名付けると、**のモンダイに着目して、それが何であるか、どう対処することが社会的に好都合であるかを一緒に探求していく舞台に立つ。**な人と**でない人とが、社会の問題として話しの次元を共有する舞台が出来上がる。

 熊谷は、脳性麻痺は外形的に「障碍が目に見える」から、まだ「社会モデル」として考えるのが容易に受け容れられる。だが、傍目には通常と違って「見えない障碍」を持った人は、社会の側も特別の対応をしようとしない。そうしたことにどう対処していったらいいか、それが「当事者研究」というわけである。「見えない障碍」を「見える化する」ことも、プライバシーを含めてどうやったらいいか考えることになる。たしかにそうだ。私も学校現場にいたとき、ピアスや濃い化粧が校則違反だと指摘された生徒に対することがあった。「化粧をしないでは家を出られない子」と親の訴えを聞いた。そこで、「特例扱いをする」ことにして、そう伝えた。すると親も子もそれはイヤだという。「その子」を特例扱いするのでないとすると、「校則」を変えるしかない。あるいは彼女の「校則違反」を黙認するしかない。他の生徒達には「校則を守れ」とやっているわけだから、ただ黙ってやり過ごせるかと、教師たちは考えた。(もし誰か生徒から)問われたら説明しようということにしたが、それもいやだと言って、結局その生徒は学校を辞めていった。これも、当事者研究というスタンスで取り組んでいれば、「校則」に関する教師と生徒との話を交わすステージがつくられたと、今なら言える。

 1980年代に「医学モデル」から「社会モデル」に変わってきたという時代相の変化には、私にも心当たりがある。私はもっぱら学校の教師として生徒の変化に現れる時代の変わり様を考えていた。いつかも記したが、三一新書の『非行・暴力・登校拒否』(三一書房、1980年刊)は、その変わり様の走りを記している。豊かな社会になって「子どもがヘンだ」と感じていたのだが、世の中はそれを社会事象としてとらえるよりも、ヘンな子どもに誰がしたとばかり「責任追及」に乗り出していた。

 生徒の変化を道徳的に批判する親や教師が多数おり、他方で、マス・メディアは、親や学校教育の所為だと非難を強めていた。多くの知識人は、旧来の集団主義が、子どもたちを追い詰めていると、ある種ワンパターンの犯人追及をしていた。当時もっとも非難されたのは、学校の教師。だが学校というのは、時代文化の最後尾を引き受けて文化の伝承をしている場だ。時代の最先端をゆく親や知識人やメディアが、高度消費社会の風潮に乗って浮き上がらんばかりの子どもたちの「正義」を主張するのであれば、社会そのものが学校の組み立て方に自在な方法を採用することを容認しなければならない。ところが、学校の教師たちには、学習指導要領や教科書を始め、文科省が定めた手順で教えることを強要する方向へ舵を切った。国旗国歌法がそうだし、口パクでも歌っているかどうかをチェックするという漫画的な上意下達の管理主義もそうだ。

 そういうズレを、現場のモンダイは現場の教師にと主張することを容認しないで、生徒の変容という起きている事象の「責任」を問う。教師が管理主義的だ、教師がだらしない、教師の能力が落ちたから十年ごとに免許の更新制にしなくてはならないなどと。社会と文科省からの挟撃に遭ってきたのが、学校の教師たちであった。当事者研究を、ぜひともやらせてほしかったし、やって貰いたかったと、いま振り返って思う。

 文科省も学者知識人も基本的に、現場の教師を信用してなかった。彼ら教師は指図に従って為すべき事を為せばいいと尻を叩くことしか眼中になかった。その結果、学校の教師たちは、いわれたことはやるいわれなければやらないという癖を身につけたように、思う。責任回避の方法が上手くなり、生徒たちと衝突を避けるやわらかい人間関係の築き方が達者になった。

 いやはや話しが、脱線してしまった。でも起きている事象を、「中動態」的にとらえることが、実は事態の根源に触れるアプローチとなる。「責任追及」をすると、誰が悪い、犯人は誰それだと決まった時点で、モンダイの探求は終わりになる。まさしく当事者として、問題になっている事態にどう向き合うのかを、社会的に場を設定して探求するには、「当事者研究」という手法を採るのが一番だ。そう、仕事として続けてきた私の、アナルコ・サンディカリズムと評された「活動」を振り返っている。

2022年2月20日日曜日

応答と日常

 刺激的な本は、1行1行立ち止まっていて、手早く読み進められない。いま手に取った国分功一郎・熊谷晋一郎『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究』(新曜社、2020年)がそれだ。わずか7頁の「まえがき――生き延びた先にある日常」に、ふつふつと湧き起こる。用いている言葉には「それはそうだ」と同意しながら、「でも、なんだろうという」疑問。使っている場面が(私の想定と)違うのか、私の用い方がヘンなのか。

 2カ所、そう感じた。ひとつは、「応答と反応」。

《応答とは何だろうか。それは返事をすることだが、返事をするといっても応答において大切なのは、その人が、自分に向けられた行為や自分が向かい合った出来事に、自分なりの仕方で応ずることである。自分なりの仕方でというところが大切であって、決まり切った自動的な返事しかできていないのならば、その返事は応答ではなくて反応になってしまう。》

 これは、「それはそうだ」だ。「自分に向けられた行為や自分が向かい合った出来事」というのを、先日受けとった半世紀ほどの付き合いのあった友人の訃報とみると、それを知らせてくれたご遺族にどう「お悔やみ」を伝えるかが私の「応答」になる。

《ハンナ・アレントは……自分なりの仕方で応答する可能性を人間の「複数性」と呼び、人間の条件の一つに数えた》

 というのは、よくわかる。手際よく「お悔やみ申し上げます」と書いて、お線香を同封して送るのでは、わが心持ちが済まない。そう感じて、1日、その友人が雑誌に載せた書評を読み返し、彼の言葉がわが身の裡にどう残っているかと半世紀の往来に思いを馳せる。

《うまく応答できないままでいることは、人間の複数性にうまく参加できていないことを意味する》

 と国分はいうけれども、そうだろうかと、市井の庶民の「(世の)習い」が思い浮かぶ。ハンナ・アレントは、ユダヤ人虐殺をしたアイヒマンの裁判を手がかりに(ごく平凡な人間の)「反応」がホロコーストを(主体的に)行ったとみているが、では、日頃の積み重ねで身の習いとして作り上げてきた「暮らし」の立ち居振る舞いは「反応」なのだろうか。

 国分は、その「反応」を「責任」へと転轍して、こう言う。

《そのときそこに現れているのは、応答のない、ただの反応に満たされた空間であろう。自分以外の他なるものが自分のために責任を果たしてくれることも、自分が自分以外の他なるものに責任を果たすこともない。》

《「責任」はしばしば重苦しくて、できれば避けたい義務という語感を持っている。しかし、責任が消失した空間を想像してみると、それはなんとつらく苦しいものだろうか》

 ハンナ・アレントの(イメージする)「人間の条件」に引きずられている言葉なのか、暮らしにおける「身の習い」をも包摂している言葉なのか。繰り返される「暮らし」の負担を担う心持ちを軽くするために、習慣化して身の無意識的応答に持ち込む日常にしているのが、「身の習い」ではないか。これは身を以て受け渡しする文化の伝承でもある。

 ここで、もうひとつの疑問が湧いてくる。「日常のとらえ方」。

《日常の捉え方を一つの基準としてさまざまな哲学を二つに分類することができるかもしれない。……ハイデッガーの哲学は日常からの脱出を考えた哲学である。それに対し、日常の成立をほとんど奇蹟のようなものとして捉え、それを獲得すべき状態と考える哲学もある》

 と、「日常」に焦点を合わせ、「本書の議論は後者の系譜に位置づけられる」と国分は述べる。私の二つ目の疑問にも、しっかりと照準を合わせている。これは、読むのが楽しみであるが、どう楽しみなのか。「日常の成立をほとんど奇蹟のようなもの」として私はとらえていない。もちろん80年近く無事に過ごしてきたことは「奇蹟のようなもの」とは思うが、「身に刻んで受け継いできた日常」である「身の習い」は、ヒトの暮らしの自然だと思っている。国分のイメージする「日常」は、どこに次元からみていることなのだろうか。これも疑問だ。

 あっ、そうか。ハンナ・アレントはハイデッガーのお弟子さんだった。彼女も「日常からの脱出」を考えていたとすると、一つ、解が見つかる。これは自然観の違いだ。魂と肉体を二元的にとらえて、動物的自然である肉体を克服し脱出すべきモノとみる自然観ならば、「反応」と「応答」との境目の置き方も、理知的、理性的な方へ偏る。だが、心身一如として、身に刻んで受け継いでゆく文化伝承とみる見方からすると、境目はグンと「身」の方へ寄ってくる。

 そうか、動物的自然に「暮らし」をおいてみると、いまこのように暮らしている「わたし」は奇蹟そのもの。日常を獲得するべき状態として勤しんできたこととの結果だ。国分も、艘考えているのかも知れないと、我田引水して、この後を読み進める。

2022年2月19日土曜日

他人事ではなかった

 去年2/18のこのブログ記事、「遭難救助も思案して山行計画を立てるか」をいま読み返して、他人事ではなかったと、改めて去年4月の遭難のことを思う。同行する方がいたことが、何よりの命綱であった。単独行と道なき道を行く面白さが、この時期、私の中に膨らんできていた。それが危ういと予感していたのが、去年のこの記事。にもかかわらず、なるようにしかならなかった。それが「至福の滑落」と、事後に呼ばせるような結果になった。存在的にいえば、動物になった至福と感じていたわけである。この最後の感触は、未だに否定しようもない。


 いつであったか私の友人が、山へ向かう私の心持ちを「死ににいってるの?」と訊ねたことがあった。安全安心な日常に飽き足らず、死ぬかも知れないというスリリングな境地を求めているのではないかと憶測したものであった。そのときは「まさか」といってやり過ごしたが、そうであることを感じながら止めようもなくそこへ向かっていっている「わたし」を、この記事から感じている。


 スリリングな瀬戸際を歩くのなら、暮らしそのものを踏み外すような道もあったに違いないのに、そうはしなかった。つまり、基本的に安全圏を確保しながらスリリングを求めるという、なんともご都合主義的な道を選んでいたのであろう。これも、ひょっとすると、今風の市民社会の気風が反映しているのかも知れない。山岳救助隊に救出されるというのも、いかにも今風のシステム依存であった。もちろん文句を言っているのではない。有難いと思い、要するに私自身が、そういう卑小な存在であったという再確認である。


 それをこそ、他人事ではないと肝に銘じなければならない。

2022年2月18日金曜日

これも「心身一如」だ!

 昨日(2/17)の朝日新聞、鷲田清一の「折々のことば」に5歳の女児の言葉が採用されている。

《なんで、頭の中で「こう言おう」と思わなくても人はしゃべれるの?》

 この言葉を拾ったのは古田哲也『いつもの言葉を哲学する』から。鷲田はこうコメントする。

《「好きな食べ物は?」と聞かれて、「唐揚げです」と思わなくてもそう言えるのはなぜか、ということらしい。女児が発する問いは事の理にかないすぎていて、逆に哲学研究者である父を驚かせる。思いがあるから言葉になるのか、逆に言葉が思いを紡いでゆくのか。いや、少し大きくなれば心にもないことを口にできる。なぜか。》

 ここで鷲田は、頭と心をほぼ一緒とみなしている。だが般若心経のように「心」と「意」をわけていれば、「心」は触覚を含む「(自分と世界との)関係感知のセンサー」で、「意」は意思/意志という「意識的」に思うこと、つまり頭と区別される。頭で考えより先に触覚、つまり「心」が反応する。何かに触れて「熱い!」と手を引っ込めるのは、頭で「アツイ」と認知するより先だと脳科学においても実証されている。

 臨床哲学者である鷲田清一のこと、彼がこの脳科学の研究を知らないはずがない。「頭と心をほぼ一緒と見なす」鷲田の見立ては、市井の庶民の見方に寄り沿っている。と同時に、5歳女児の疑問を「少し大きくなれば」忘れてしまう人のツネも、記されている。これは、「頭で考える」という社会的常識が染みこんで、市井の庶民の共通観念として君臨していることを示している。

 ここから鷲田がさらに次の一歩をどう進めているのか、あるいはこの「ことば」の採取者である父・哲学者・古田哲也がどうそれを敷衍させているのか興味湧く。『いつもの言葉を哲学する』を読んでみなくちゃならない。

 そう思って図書館に予約をすると、2021年12月に朝日新聞出版から刊行されている。予約順番が22位、大体一年ほど待たなくてはならない。

 アタマで考えるのではなく触覚=「心」で感じて、コトを思う。そうか、そう考えると、音楽も空気の振動として触覚「心」に直に響く。というと、音も耳で聞く響きというよりも、身全体で感知する「振動」である。歌も、歌詞という言葉の持つ意味よりも音として身に響き伝わる。

 生物学でいうセンサー感度の優劣順位、「触覚>聴覚>視覚>嗅覚>味覚」は、単純に区分された感官の大小を示しているのではない。感官は、たとえば視覚は目を通して感知するだけのものではない。「目に痛い」とか「目にしみる」とか「目でものを喰う」といわれるように、五感の一つの感官がそれぞれに領域を囲っているわけではなく、相互に連携し合っている。それぞれの感覚野を通して「身」に入り込んだ「刺激」は、すべての感官に伝わり、それを総集するのが「心」。そのようにして状況を感知している。これは、誰がいつどこでそれを感じているかという「主体」を抜きにしては成り立たない。「心」が「わたし」と「せかい」との関係を察知するセンサーというわけである。

 鈴木正興の小説『郁之亮江戸遊学始末録』のいう「音学」が指し示しているのは、言語野といわれる感官の優越性を、頭脳、すなわち理性優先の論理と狭く限定する近代西欧の認識構造に対して、「身」全体が感じ取る感官の「生きている形」を押し出している。養老孟司の指摘するように、西欧的な理性による認識論は、身体をあたかも屍体と見なすかのようにして、精神と切り離してしまっている。だがヒトは動物である。頭脳が働くより先に五感と第六感を組み込んだ「身」が、総合的に周囲の状況を感知して捉え、それに対する身の処し方を総合的に執り行ってきた。それを忘れるなよという視線を、アジア的というか日本的というか、私たちの自然観は(未だ)もっている。

 それが目下、西欧においても先端の哲学において見直されはじめてきた。私たち市井の庶民が、いつ知らず身に刻んで受け継いできた感官の用い方にじつは、未来にというか、過去の人類史的失態を補正してゆくヒントが含まれているような気がして、私は嬉しい。

2022年2月17日木曜日

危うい「心身一如」、宇宙は大きい

 2/15のこのブログで「身とは何か?」を考えた。その結論的部分で、

《「身」そのものを心身一如の実存とみることによって、「概念」を通した、必ずしも理知的な言語野=「意」を経由しないで、「せかい」を受け止め、「せかい」と遣り取りする実存をかたちづくってきた。》

 と見て取り、心身一如の感覚感受の有り様を肯定的にとらえた。

 ところが、それ、ちょっと危ないんじゃない? と疑問を呈した本に出会った。梨木香歩『僕は、そして僕たちはどう生きるか』(理論社、2011年)。

 ここで「僕」という主人公は中学生。その同級生や一つ年上の従姉や知り合いの高校生年代の人たち。もちろんおじさんやオーストラリアから来た友人なども登場するが、迷ったりわからなかったりする心裡を明かしながら語り進めるのは、主人公の中学生。

 同級生やその従姉や知り合いの高校生年代の人たちは、学校や町や世の中とうまくいかなかったり、違和感を強烈に感じたり、ショッキングなことがあって(知らない人から見ると)引きこもりのように見えたりする。幼なじみで中学同級の男の子二人は、ともに親の事情で独り暮らし。そのうちの一人が学校に馴染めず、婆ちゃんの遺した広い森と植物と屋敷に暮らす。そこを舞台に、世の中に違和感を持つ子どもたちがそれぞれの縁と動機から集まり、ふとしたことから戦時中の徴兵忌避の人の暮らしを知って、世の中と自分との関係を考えるという物語り。登場人物に共通しているところは、みな自然やアウトドアに共感性を持っている。植物図鑑を持ち歩いたり、蟲好きであったり、幼い頃ボーイスカウトやガールスカウトの活動をしていたこともあったり。大人は草木染めをやっていたりとか。

 いつか記したが、生きるのは自己責任、だが生きる力は世の人々と共にという世の中を渡る基本を踏まえて話しは転がる。古民家風の、中学生が独り暮らしをする元婆ちゃん家の屋根裏から出てくる古文書に記された薬草や草木の料理法も現れて、暮らしの文化がどう伝承されているかも描き出される。その中に現れた兵役拒否もどき。

 それによって、中学生(たち)が(学校や世の中に)感じている違和感を生きる場面でどう主張できるか、自分への問いとなってあれこれと考える。それがタイトルになっている。設えられた舞台が、湿地や小さな洞窟もある自然豊かな森だが、焚き火をするのに消防署に届けておかないと火事と間違えられるかも知れない町中とみえるから、現代社会への厳しい視線を、この作家は提示したいのであろう。

「身とは何か?」で私は、アタマで理知的に考えるよりももう一段原始感覚に近いココロで感知する「身」を肯定的に記したが、この梨木香歩の小説は、さらにもう一歩先へ進めて、そのココロのセンスが持つ危うさを、「(生きる力は)世の人々と共に」というコンセプトのなかに胚胎しているよと警鐘を鳴らしている。「群れは必要だ。だが・・・」と。その危うさを超えていくためには、日々出逢う一つひとつの出来事を、その都度、一つひとつ丁寧に(そうなのか? それでいいのか? いま感じている違和感を違和感のままにその場に差し出さなくていいのか?)、繰り返し問い続けていくしかないと言っているようであった。

 もうも言えようか。「心身一如」とお題目のように肯定的に受け止めるのではなく、それすらも疑ってかかる。それは自らを疑ってかかるということであり、つまりは、自分の判断は何を根拠にしているのかを、恒に常に対象化して見つめ考え続けるしかない。わが身が備えている感覚や思索、「心」や「意」をも、お題目化させないためには、自問自答するだけでなく、それを場面を共有する人たちに問いかけ、問いかけることによって自分の「心」「意」をその都度更新していくことが、生きているという営みであり、そうすることによってヒトは生きてきたという証しなのである。

 梨木香歩の小説の主人公も、己の卑小さを、幼なじみの子細を見て取るにつれて感じて、自問自答へ旅立っている。生きている証しというのは、わが実存をゴミのようなものと知覚したところから始まる、それくらい宇宙は大きいのだといっているようであった。

2022年2月16日水曜日

すべてを「ここ」と「いま」に

  半世紀以上付き合いのあったYさんが亡くなったとご家族から知らせがあった。1月27日に逝去、31日に葬儀を家族葬として執り行ったと簡略に記してあった。私より7歳年上の方。Yさんとの時代を振り返り、お悔やみの言葉を送る。それをやっと書き上げた。


Y.H.さま

Y.M.さま

 Y.T.さまのご逝去、お悔やみ申し上げます。たしか昭和10年生まれでしたから、86歳(行年87歳)だったでしょうか。

 思えばYさんとのお付き合いが始まったのは1967年の半ば頃、頻繁にお逢いして言葉を交わし、一緒にパンフレットを発行していたのは1972年の第一四半期の頃まででした。

 1971年から72年にかけて医学書院発行の月刊誌『看護学雑誌』に、Yさんを含め私の友人たちが1年間「本」欄を担当して、毎月2本ずつ原稿を送りました。そのうちのYさんが書いた「本」の批評を読みながら、意気盛んだった彼の気概と魂の在処を思い起こしています。

  堀田善衛『橋上幻像』―人間存在の不可解な露呈(1971年4月号)

  永山則夫『無知の涙』―凄まじい自己形成(1971年7月号)

  井上光晴『辺境』―現実の荒廃を突きつける(1971年9月号)

  林光『音楽の本』―「音楽の国」があるだけ(1971年10月号)

  伊達得夫『詩人たち――ユリイカ抄』―詩と詩人を結ぶエセー(1971年11月号)

  清岡卓行『海の瞳』―瞳はどんな廃墟をみたか(1972年1月号)エドゥアール・デュジャルダン『もう森へなんか行かない』――すべてを「ここ」と「いま」に(1972年2月号)

 振り返ってみると、取り上げた「本」や作家と付けた見出しを見て頂くだけで、当時、Yさんとともに過ごした私たちの思いの移ろっていた魂の在処が浮かんできます。私たちというのは、YさんやSさん、故Iさん他のK高校定時制の教職員たち。埼玉県北部の定時制教職員として往き来をしていたわけです。

 極端な差別と貧窮と抑圧、その虐げられた人々の苦しみが目にとまらぬかのように高度経済成長を遂げていく日本の社会への憤りが、Yさんと私の共有していたものでした。

 1972年に私は南部の定時制高校に転勤しましたが、東京に近いこの学校は、新潟や福島、山形からやってきた中学を卒業したばかりの「金の卵」で溢れかえっていました。貧しいだけでなく、兄や姉を高校へ行かせてやれなかったという理由で地元の高校に行けない人たちが、都会で就職して、せめて夜間高校に行こうと集団就職の列車に乗ってやってきていたのです。私が行った当時の定時制高校には、4年間働いてお金を貯め大学を受験するという生徒が4割ほどいました。そういう生徒たちと日々接していましたから、不遇な彼らへの同情と彼らを弊履の如く扱っている社会に異議申し立てをしていたわけです。

 Yさんの文学的視線がとても印象に残っています。文学的視線というのは、物事を容易に一般化したり普遍化したりしない気構えです。「すべてを「ここ」と「いま」に」と上記書評タイトルにもあるように、一つひとつの具体的なヒトとコトのありように目を留めて、その「ここ」と「いま」に向き合おうという(ヒトとコトに向き合う)態度です。

 経済学を学んだ私は、個々の具体的な出来事を一般化し、経世済民という世の中全般のこととして考えていくことを、正しいと思っていました。でもそうすると、個々のヒトやコトがもっている具体的な些末な事情が、どんどんそぎ落とされてしまいます。些末な事情は、その人が親世代や社会から受け継いできた事々です。それは人が生きる原動力であり、また背負っている重荷です。それまで私は、些末な事情を捨象して向き合うことが(より多数の人に対して)正義だと考えていたと言えます。それは正義でもなんでもなくて、「いま」「ここ」に生きているヒトと起きているコトから目をそらすことに他ならないとYさんから教わったのでした。

 Yさんは1972年以降もK高定時制にいました。私もその後16年間定時制高校にいて、昼間に転勤しましたが、北部時代の心持ちはずうっと持ち続けていました。Yさんはその後、松本鶴雄さんの主宰する文芸雑誌『修羅』の編輯に関わり、詩作を軸とする文学の道をもっぱらにしていましたから、「修羅」を通して音信は欠かさなかったのですが、日常的にはすっかりご無沙汰をして過ごしてきました。

 こうしてYさんとの日々を思いやっていますと、未だ行田の町にいて「ふ、ふ、ふ、そりゃあないでしょう、***さん」と、やわらかく、だがちょっと皮肉を交えて重い響きで窘めるような口調が甦ってきます。

 Yさんのご冥福を祈ります。合掌。

 ご家族の皆さまも、お力落としなさいませぬよう、元気にお過ごし下さい。

        2022年2月16日      ****拝

2022年2月15日火曜日

身とは何か?

 何時であったか、写真雑誌に載った「ロシアの屍体工場」をみて驚いたことがある。広い部屋の隅に人の屍体が積み重ねてあった。それをどうするのか、記事にはあったと思うが、切り取って売るだったかなとボンヤリ覚えているだけで、写真そのものの衝撃に忘れてしまった。そのときの衝撃的な実感は、人も死ねば物扱い、ああ、日本の私たちとは違うというものだ。

 今ごろその違いを考えている。

 ロシア正教がカトリックやプロテスタントと同じなのかどうかは知らないが、人の実在を魂と肉体という二元的対比でみていて、死ねば魂が去り、屍体はモノそのものになると考えている。実は日本語の「ミ」も、『日葡辞書』によると「死体。時として生きた身体の意味にも用いられる」とあるから、屍体そのものと同じとみえる。

 だが「ミ(身)」の古形「ム」は「むくろ(軀)」として「カミ(神)」や「カム」があると大野晋は記す。「カムイ」というとアイヌ語でいう神の意であるから、屍体というよりも霊魂を宿した人の軀(むくろ)というニュアンスがこもり、ロシアでいうモノとしての単なる屍体ではない。大野晋は後にこう続ける。

《……ミは前世からの運命、あるいは生まれてからそのときまでの状況をかかえて存在する人そのものをいう。その人がその人として生きている生命、境遇、社会的立場なども含めた個体としての人間全体である》(古典基礎語辞典)

 そうだ、ここだ。

 日本語の「身」には、生きていようと死んでいようと魂魄は離れず付き添っているという人の実存が込められている。前世とか来世とかを考えると、「ひと」の実存は現世の生き死にだけでなく引き継がれていくと考えていたのかも知れない。この痕跡が私の身の裡に残っているから、ロシアの屍体工場をみて、イヤだなあ、チガウなあと強い違和感を覚えるのだと思う。

 そういう「身」が「せかい」を受け止める感官を、般若心経は「眼耳鼻舌心意」と表現した。「目耳鼻舌」は概ね生理的な機能として指摘される感官であるが、「心」は五感の触覚にあたる。

 近年の生物研究では、その五感にも(生き物が)感知活用する優先順位があって、「触覚>聴覚>視覚>嗅覚>味覚」の順になっているそうだ。優位の感官が働いている間は下位の感官の活用感度は希薄になるという優劣の順位。そして触覚がもっとも原始的なものだと理研のサイトは記している(http://www.riken.jp/pr/press/2018/20181128_1/)。

 だが理研がいうよりも意味するところを拡げて般若心経の「心」は触覚をとらえている。諸種の痛覚ばかりでない。触れるにも、触(さわ)る、撫でる、嘗める、叩く、圧す、解(ほぐ)すなど、生理的な触覚は「かんけい」を表す如くに多様であり、微細に渡る。それは、人や物や出来事、つまり「せかい」との「かんけい」を湛えて豊かなのだが、それは実は、「わたし」の実存を理知的に受け止めたり諒解したりする「意」よりももっと根柢的に「身」の裡に底流している。「心」は、そうした「かんけい」感知のセンサーであり、もちろん危険を察知し回避する、逆に拠り所の確かさを感知もする。これを日本的・アジア的と言っていいかどうかはわからないが、人の五感のもっとも原始的な形態に、「心」が組み込まれている自然観は、近代になって組み立てられたデカルト的身体観の自然観と際立つ違いを見せる。

 「身」そのものを心身一如の実存とみることによって、「概念」を通した、必ずしも理知的な言語野「意」を経由しないで、「せかい」を受け止め、「せかい」と遣り取りする実存をかたちづくってきた。たとえば、オノマトペ、擬音語や擬態語。英語には3000語あるといわれるが、日本語には12000語と、格段に多い。それは「わたし」の実存がより自然存在に近いことを示している。あるいは、虫の音を愛ずるという日本の文化的な特徴など、自然存在としてのヒトの実存において、より原始的な形を遺し受け継いできているともいえる。

 それをナイーブといって卑下したり誹しったりする必要はない。もちろん逆に、だから日本の方が優れていると誇ることでもない。そういう自然観の違いが、「身」にしっかりと備わり受け継がれていることを、確認しておきたい。

 その特徴が、現代社会に現れてくると、戦略的思考に後れを取ったり、周りの様子を見て状況適応的であったり、国際関係において明確な軸を持った立ち回りをしない、弱点と評されることにもなっている。だがそれは、どの視点から、何を見ているかによるのであって、単純に弱さとみて放棄するのがいいとは限らない。むしろ、「身」に染みこんだクセとして、意識的に取り扱えるように、わが身を振り返って対象化してみるのがいいのではないか。

2022年2月14日月曜日

娘への誕生祝いのメッセージ

**さま

 誕生日おめでとうございます。49歳。いよいよ大台に迫りましたね。体調は順調でしょうか。

 次男坊も、この春から独り立ちすることになるでしょう。素直な子に育ち、良かったですね。私たちも爺婆として、彼のこれからの成長を楽しみにしています。

 でももうこれからは、親のいうことなどに構わず、自分の意思を通して生きていくことになります。寄り沿うことも無用となって、ま、黙ってみているしかありません。

 親も、子どもの世話から離れて、自律しなくてはならないってことですね。

 長女も、もう14歳。そうなると、もう親の言葉を聞き入れることもなくなります。寄り沿って傍らで見ているしかありません。

 これも、そろそろ親が自律しなさいよというサインを出しているようなものです。

 あなたたちもここまで、子ども3人を育て、よく頑張りました。そろそろ自分と連れ合いとの暮らしを考えながら、ゆっくりと準備をはじめていく時期になります。

 仕事の方も職場では、歳が歳だけに中堅の役割があるでしょう。あなたも一郎さんも、そう容易に、身軽には振る舞えないことと思います。

 ですが仕事を離れたとき、あるいは、仕事は仕事、それ以外に夢中になって日々を過ごしていける何かをもっていることが、人生には必要になります。何しろ(私たちの場合60歳の定年で)リタイアしてから今までで、すでに19年になります。あなたたちの人生は90歳から100歳と言われていますから、65歳で退職したら優に30年以上あります。

 昔、私が小学生の頃の日本人の平均寿命は五十歳でした。私は1942(昭和17)年生まれですので、21世紀はみられないと単純計算して思っていましたから、2001年を迎えたとき、ああ、この後は天から授かった「おまけ」、余生だと思ったものです。

 60歳の定年を迎えたとき、さて何をして生きていこうかと、ちょっとオロオロとしました。そのとき十歳年上の友人が「結局自分の得意技で生きていくしかないよ」といったのが、印象に残っています。私の得意技? 文章を書くというおしゃべりと山歩きでした。

 結局それで、それから19年という年月を過ごしてきたのです。

 あなたたちは昔風に数え年でいうと五十歳、満年齢でいったらあと一年で人生の半分が終わります。後の半分の、ことに仕事を終えて後の生きる得意技を準備するのが、始まるというわけですね。

 そういうときにコロナウィルスというとんでもない災厄が襲いかかっていて、息苦しい時代ではありますが、逆に言うと、これほど世界中の人たちが体験を共有することってのも、ないと思います。それは共に生きているという共通感覚に結びついています。ましてあなたは、医療の現場にいて、人々の生きようとする力をみているのですから、いわば人類史的な共通体験の中心軸を目の当たりにしているわけですね。

 ぜひ、人はウィルスとともに、決してめげずに新しい時代を切り拓くのだと考えて、頑張って百年人生を歩んでいって貰いたいと思います。

 連れ合いとともに、子どもたちとともに、いい時代をつくっていって下さい。

      2022年2月*日        父・母

2022年2月13日日曜日

「精神と肉体」と「身と心」

 鈴木正興『郁之亮御江戸遊学始末録』を読んでいて、一入面白かった箇所があります。「四十三 瀬戸際ぞ学士変じて策士たれ」。主人公・郁之亮が長崎へ旅立つ前に、思い人・おゆきの身の振り方を定めおこうと大身旗本の姫のお付きとして召し抱えられるかどうか、話が進行している瀬戸際の段。

 姫と旗本の家老とがおゆきをめぐって遣り取りするのと、郁之亮がおゆきと「火照る不忍」で密会し肌を合わせながら交わす会話の、二元同時生中継「重和(ハーモニー)」を試みているところです。

《まあいづれ自分の思い付きに任せて気儘に書き綴った単純読物と称すべく、世に問うもの、人に訴えるものはこれっぽっちもありません。自分は却ってその無近代的な所が取り柄とさえ思っています》

 と作者ご当人は、別紙「御挨拶」で記していますから、この作家の身の裡が心身一如となって文字となって現れたもの(そのままでお読み下さい)と受け止めていいのですが、同時に(だからこそ)この表現が、日本的なというか、東洋的なというか、(インドのヒンドゥまで含めた)アジア的な身体観と西欧的な身体観の落差を表していて、興味深く面白かったというわけです。私が長年抱いてきた(日本的・アジア的)「心身一如」と(西欧的)「精神と身体の二元論」の違いを、浮き彫りにしているように感じました。なおかつ、ヒンドゥ=仏教的な(たとえばカジュラホ寺院の性に肯定的な彫刻などに観る)「色即是空/空即是色」の「空無観」とキリスト教的禁欲主義との落差を感じながら読んだわけです。

 日本語では「心身ともに健やかに」と慣用的にいいますが、これは近代西欧で用いる精神と身体という二元論とは異なります。近代西欧的というからにはデカルトの「我思う故に我あり」からはじまるでのすが、認識主体としての人間の実在「精神(アニマ)」即ち「魂」と認識の対象となる「肉体(コルプス)」という対比の如く、精神を上位におく二元論です。

 それに対して「心身一如」というのは、現世における人の立ち居振る舞いに現れる現し身を指していて、「認識」という次元が言葉のよって成し遂げられるわけではなく、修行という身の鍛錬によって(その身の根源において)一つになることを意味しています。こうも言い換えられましょうか。もし西欧風に分節していうならば、「心」はありとあらゆる人や自然や事象との関係を感知する能力のことであり、「身」は魂と肉体の統合された依代として現れる。これは、わが身の成り立ちを思い起こしてみると、生成的に実感できるものです。意思や情念の源泉としての魂は、(敢えて言えば)心と身との統合によって繰り出されてくる振る舞いに気配を窺うことができる実在感を持ったもの。形(色)はない。空なのです。

 アジア的な心身一如のどこに、(西欧的な)言葉で表現できる理性は入っているのか、と問う方がいるかも知れない。デカルトのいう「精神」を「魂」と同義として扱う哲学者もいるし「心」と一緒にしている方もいる。そもそもキリスト教起源の臍の緒をデカルトは切り離し切れていないとする論者もいるから、私などは一緒くたにとらえているのだが、アジア的には「魂魄」という「精神の根源」のようなニュアンスで心身の中に包摂して考えています。西欧とアジアとでは、人の内面のとらえ方の枠組みが違う。今風にいうと、パラダイムが違うとでもいいましょうか。

 鈴木正興の「小説」に話を戻しましょう。「おゆき」の旗本家腰元という就職先の、採用側の遣り取りはおゆきの人品骨柄に関して高い評価をした言葉が交わされている。

《控え目な趣ながら態度や言辞中に軽からぬ芯の如きものの是ある所》《ほう、そなたもあの娘の等並でない人性を見抜いて……遉がの眼力の持主じゃ》《問答せば豈図らんや見掛けに叛き簡にして要を得たる受け答え、無駄な身動ぎ一つせぬ精一さ、……外連味のなさ》

 ここには、江戸期の(実はこの作家の)人を見る目が奈辺にあるかを描き出しています。それは、西欧的な視線とは対称的です。西欧的からすると、控え目で言葉少なというのは、愚かの代名詞とアメリカ滞在の長かった人から聞いたことがある。これは単に、人物評価の力点の置き方が違うというのではなく、ひとの「かんけい」に於ける(社会全体の)目の付け所の違いを表しているのです。口にする言葉の軽さは、「(学校へやったというのに)口先ばっかし達者になりやがって」とか「屁理屈はいいから手を動かしな」という職人の親方の台詞のように、「ことば」に対する立ち居振る舞いの乖離を見て取る「人間への見立て方」があるのだと思います。

 それに対して求職側の「火照る不忍」ではあれやこれや弄することのできる策を思案する言葉が取り交わされる。後にこれらの「策」はことごとく愚策であると、当の姫によって退けられています。この作家がこの「かんけい」における「ハーモニー」を、不協和音として聞かせようとしているからですね。

 この「重和」のオチは、「四十四 えっまさか急転直下好結果」の節で証されます。親元では手に負えない我が儘な娘の振る舞いを直して貰おうと、旗本姫の元に従妹が腰元修行に来るのですが、その従妹に対して郁之亮の知恵をもとに姫が採った所作が、あっという間に我が儘を(従妹自らが)直し、おゆきの就職先に席が空くという展開をみせます。江戸の(実はこの作家の)人と人との関係における身と心の「関係的作用」がどう働くのかを示唆し醍醐味と読みました。

  それと同時に、旗本の姫と家老と対話を「火照る不忍」の男女の肌合わせと同時展開するという、この作家の心身一如における「快楽」のとらえ様は、キリスト教的な禁欲主義とすっかり様変わりした、現代の日本社会が今まさにさしかかっている人間の変わり様を俎上にあげていると思えました。いや、江戸期にもまだ、混浴とか浮世絵の枕絵とか、この「小説」のこの場面にふさわしい性の開放的気分が町人層にはあありましたね。そのモンダイにも踏み込む入口になるかと思ったりしたのです。まさしく、世界遺産カジュラホの寺院群の彫刻に迫る作品になっていると感嘆を交えて思ったのでありました。

2022年2月12日土曜日

実務処理の算段もできなくなっているのか?

 降った雪も雪かきするほどではなかった。でも早朝少し、うちの前の歩道の雪を片側へ寄せておいたから、日陰でも凍り付くこともなかった。日差しが指す。でもカミサンの予定していた公民館のリンパ体操は、昨日のうちに中止の連絡網が回り、それがどこかでつっかえているのか二度も掛かってきた、そちらの方が大変だったようだ。「大雪警報」とか「警報級の雪になる可能性」と報道は大げさだったが、カミサンは「大げさくらいがちょうどいい。後でそれほどではなかったと安堵するんだから」と大仰だ。

 午前中の時間が空いたので「買い物」に行くカミサンに付き合う。買ったものをリュックで運ぶというよりも、往復8km弱の軽い運動だ。歩いていて、日の丸が家の軒に掲げてあるので、そうか今日は祝日かと思う。路地の奥からガリガリと凍り付いた雪を書き崩すスコップの音がする。降ったばかりの早朝は簡単に片付いたが、時間が経って凍ると厄介だね。ことに日陰の坂道は危なくて通れない。お店に来ている人は多い。午後の私のストレッチは、もちろん実施。

 日本テレビを観ていて「感染者数、検査数の集約が追いつかない」というニュースを耳にする。保健所がまとめて厚生労働省へ報告が16時頃までに行くようにしているが、各地保健所のまとめがうまく進まない。神奈川県は、発表を取りやめたいと行っているという。何でも、数だけでなく、年齢別、症状別、基礎疾患の有無をはじめ、ずいぶんたくさんの書き込む項目が並んでいるペーパーを画面で見せている。その入力が進まないのだそうだ。これは、保健師でなくてもできるから(たぶん)一般職員を臨時に当てて処理してきているのであろう。ちょっと考えてみると、受付ける保健師も大変だ。神奈川県で約1万件近い感染者が出ている。と、そうした症状を聞き取るだけで一件につき10分掛かったとすると、単純計算で1時間で6件、7時間で42件を一人の保健師が処理することになる。これだけで1日240人ほどの人数が必要だ。保健師は、自宅療養者の症状などを聞き取ったり、適切な処方をサジェストしたりする自宅療養者も日々1万人以上いる。としたら、この受付は一般職員があたらねばならない。でも、240人という数を動員できるのだろうか。

 さらに受け付けながらペーパーに記載したものに、重傷者数、自宅療養者数、死者数など(新規でない感染者の状況)を加えて、別の職員が電算入力して報告すると考えると、これまた何十人かの職員が必要である。これが足りないのか。厚生労働省は「報告する事項を絞る対策を考えている」というから、現場実務の状況を考えずに「ほしい事項」の報告を要求していたのだろうか。

 検査数がカウントできないのはどうしてか。保健所がやっているだけではなく、医療機関も民間の検査機関も行っている。その数の報告が追いつかない。検査数の全量がつかめないで感染者数が増えるから、感染率が上がって、80%台の後半にのぼっている。そこへ加えて(検査をしなくても医師が症状から感染しているとみなしたものもカウントする)「見なし感染者」も可としたものだから、感染者数も摑めないし、検査数もわからなくなる。だから発表を止めようか考えているという神奈川県知事の意見もわからないでもないというのだ。つまり実務面がパニックになっている。

 いつだったかこの欄で、アメリカのように1日感染者が百万人となったら実務処理が破綻すると書いたことがある。何とその十分の一で(というか全国では8万人足らずで)破綻しそうなというわけだ。

 厚生労働省は、アメリカの各州がどのようなやり方で検査や感染者数をチェックしているか、全国集約しているか知らないわけはないだろう。どうしてそれが日本で、実施できないのか。もし地方行政組織に問題があるとしたら、それが何故かをもっと早くチェックして、財政的な手当もできたのではないか。コロナウィルスが日本に上陸してから早2年が過ぎている。こうしたことに対応できないで、何を「民度が高いから」と鼻高々だったのか、財務大臣のセンスを疑うね。いや、行政の実務処理の算段など地方政府がすること、中央政府は、思いが及ばなくなってんじゃないか。国民が文句を言い立てて騒がないのを「民度が高い」といっていたのだとしたら、こちらも馬鹿にされたものだ。

 感染者数の報道は、市井の庶民の緊張感に貢献していると私は実感している。もちろん下がり始めるとすぐに安心して緩んでしまう「危険」もある。近頃の埼玉県では「5000人」を切ったと言っては、少なくて良かったねと喜んでいるのだから、全く庶民の「相対感覚」はいい加減なものだと思う。それでも、近隣都県の状況や全国の感染者数をみては「まだまだ用心しなくちゃ」と心を引き締めている。「感染者数の報道」もそれなりの貢献をしている。まして、「高齢者の重症者、死者数は増えている」となると、ぴりぴりと身構えるのだから、情報化時代というのは、フェイクであれ、大雑把であれ、情報入力と身体の反応とが結構照応している。市井の庶民の情報リテラシーなどと知的な方々はいうかも知れないが、要は「わたし」に関係する情報処理をして、日頃の身のこなしに伝えている。

 お上の発表を有り難がっているんじゃない。そういう庶民の情報処理機能を考えて、大雑把なりともおおよその数値を日々知らせてほしい。民間のマス・メディアはそちらに目を向けて取材を頑張ってねと思った。

2022年2月11日金曜日

「研究」は何故統治的になるのか?

 健忘症というのは、忘れることが(歳をとることにおいて)自然ということであろうか。それくらい、物事をきちんと忘れる。はじめて仕事に就いた若い頃、同じ職場の人たちが去年の行事では何をしたかと、ああだこうだと遣り取りしているのをみて、とても不思議な気がしたことを思い出す。一年前のことなのにどうして忘れるんだよと思っていた。だが、私もその年になって、手帳を見るようになった。そうして今、何を書いていたかも、覚えているのはせいぜい3ヶ月、一年前、二年前となると、ほぼ完璧に忘れている。だから、今月に入って考えているのと同じテーマを、去年も一昨年も考えていたのだと、このブログの「1年前に書かれた記事」の送信サービスを目にして、改めて思っている。

 この先は2年前の記事(*1)と1年前の記事(*2)を再掲出しているから、それは面倒と思う方は、*3の部分から読み始めてもらえばいい。

                                      *1

 2年前、2020-02-10に「統治の歴史観と暮らしの歴史観」と題して、以下のようなことを記している。検索して貰うのは面倒でしょうから、全文、掲出する。


 断捨離の入口でうろうろしていたら、古い新聞の切り抜きに小浜逸郎がJICC出版から出ていた「ザ・中学教師」シリーズの変遷に触れて、私たちの活動を評している記事があった。当時の埼玉教育塾(のちのプロ教師の会)が「反動的」ともいえる言説を展開しているのは、世に蔓延るリベラルな人たちの「教育論」が「教育の核心」になることを欠いていることに苛立っているからだ、とみている。小浜自身も、埼玉教育塾の言いたいことには賛同するが、しかし彼らが現行システムを前提にしているスタンスが「反動的」だと言い、小浜自身はもっと改革をすすめる視点を組み入れると結論的に主張している。今から30年ほども前、1991年頃のことだ。

 これを読んで思い出したのは、現象学哲学者として当時知られていた竹田青嗣が、埼玉教育塾の諏訪哲二に「教育改革にそれほど提起したいことを持っているなら、どうして文部官僚にならなかったのか」と問うたことであった。やはりJICC宝島社の何周年かの記念行事に同席したときであったから、30年程前の話だ。そのとき私は、ああ、この人は統治的に社会をみているのだと思ったことを憶えている。

 だがいま振り返ってみると、国家社会を考えている知識人とかエリートというのは、統治的に社会をとらえるしかないのかもしれないと、思う。それに対比していうと私などは、社会を変えるということも「下々の方からどう変えるか」と考えていることが浮き彫りになる。

 つまり国家権力をつかって法国家の統治システムを変えるという発想を持っていないのだ。当然それは、竹田青嗣が考えるような「上からの改革」をする立場にないのだから当然である。だが、「上からの改革」「下からの改革」という違いの持つ意味は、立ち位置の違いだけなのであろうか。

 つまり社会改革をしようとするとき、「上からの改革」というのは法制度の変更であり、それによって人々がどう動くかを予測して立案される。そこには、人々の動きを想定したり、あるいは操作したりする意思が働く。ところが人々は、阿諛追従することもあれば、さぼり反抗することもある。「上からの改革」は、文化的な齟齬や落差や違いを想定することができないから、動きにばらつきが出てしまう。それを避けようとすると、たとえば国旗国歌法のように、起立斉唱を要求して、口パクも処分するなどという、おかしな子細処方を現場に提示し、職務命令で実施するような破目になる。これは「改革」といえるだろうか。

 「下からの改革」というのは、その「改革者」のいる現場だけで通用する「改革提案」である。いうまでもなく、その現場で起きている事態に対して、その現場に居合わせる者たちが、その現場に作用する「振る舞いの論理」にしたがって、行われたり、抵抗を受けたり、うまく運んだり、頓挫したりする。つまり全国区の普遍性は持たない。だが逆に、法で決まっているからやるんじゃない、この私たちの現場に必要なことだから行うのだという、切迫感を居合わせる人たちが共有する。それを実現するためには、居合わせる人々の了解が必要であり、合意とまではいかなくとも、せめて邪魔しないという遠慮を得る必要がある。

 そのベースになっているのが、日々の働き方であり、教師としての信頼を寄せられるに足る人柄や文化性や実行力量であり、それ以上に自分たちで決定して実行しているという独立不羈の自尊心である。つまり、「改革者」たる現場教師は、その全存在において、力を発揮していなければならないのだ。実効性をともなわない単なる「提案」は、簡単にすり抜けられて、棚晒しになってしまう。

  このような「現場における日々の実践」を行っていたから、私はときどき、お前のやっていることはアナルコ・サンジカリズムだと、政治活動の達者から批判されたこともある。あるいは、アナキズムと一緒だと非難を受けたこともある。だが、おまえのやり方は、この現場にしか通用しないサンジカリズムだと批判した人は、全国区に通用する普遍的な「改革」を夢見ていたのであろう。でも、一つひとつの「改革」は、そのひとつひとつが大切なものであって、それがほかで通用するかどうかが評価の尺度になるのはオカシイと居直ってきた。

 また、アナキズムだという非難には、レッテルはなんと貼られても構わない。もしそれが混沌を導くものであったら、混沌こそが、いまここに必要なことだったに違いないと、腰を据えた。

 そんなことを、古い「記事」を読みながら思い、そうか「上からの改革」というのは統治的歴史観と同じで、人びとが「暮らし」を紡いできたフィールドとは次元の違うものなんだと思い当たった。国家の正史なのだ。

 翻って私は、「暮らしの歴史観」とでもいうような、人々が紡いでいた「暮らし」をしようとしていたのだと思った。それが国家統治者の目から見て、ふさわしくないというのなら、勝手に言うがいいさ。統治目線に屈せず、独立不羈の旗を掲げて面白く突っ走ってきたわが前半生も、面白かったなあと、いまや無責任に世の中を眺めている。

                                      *2

 そうして去年、2021-02-10「うるさい! お前ら、邪魔をしないでくれ」と題して、2年前の記事に関連して、以下のようなコメントを書いた。これも掲出する。


 アナーキーということを、私は肯定的に使っている。現場主義ということも、普遍的とか一般的に「かくあるべし」という考え方に対比させて肯定的に使っている。

 つまり、こういえようか。普遍化するとか一般化するというのは、次元が違うことなんだ。今、ここに生きているものにとって、そんな言説や解釈は、どうでもいいこと。こちらに介入しないところでやっておくれと考えているのだ。

 庶民の生き方とか、考え方というのは、アナルコサンジカリズム、そのものだと、いま改めて思う。なぜって? それは、原初の発生的な由来を持っており、現場のモンダイであり、現場での解決を望んでおり、それが全体や全国や世界にどのような意味を持つかなどということは、どうでもいいのだ。

 だが、「論者」は、そうはいかない。その場、そのときの、そこでしか通用しないことというのを、全国区や世界に適用したがる。だがそのとき、現場の切実なモンダイは、どこかへ押しやられて、平準化され、平均化され、どうでもいいことに力が注がれて、揮発してしまっている。学者や、政治家や、エリートと呼ばれる官僚たちがやっていることって、そういうことじゃないのか。

 だったら、庶民にとって、彼らは、いらない。最悪のウィルス禍が襲ってきたとしても、そういうエライさんたちに何かやってもらおうという「期待」を持つことをしないで、うるさい! お前ら、邪魔をしないでくれ、って叫び出したいよね。

                                      *3

 上記二つの記事は、つい昨日まで取り上げていた「研究」と「暮らし」の違いをはっきりと指摘している。「研究」というのは、一般化するとか普遍性を求めるとか体系化するということからして、混沌とした世界の諸事象の、猥雑な夾雑物を捨象し、できるだけ単純な法則性を探り当てて整理し、全体を論理的に統括する体系を打ち立てることを目指す。荒木優太いうところの、まさしくテクストがテクストとして評価される次元だ。これは、じつは統治的センスと相似である。

 むろん「研究」として取り組んでいる対象やテーマは世界の断片。全体の統括・統治そのものではない。だから「統治的センスと相似形」と言われると不本意と感じる研究者もいるに違いない。

 だが、「暮らし」には、世界がまるのまま現れてくる。しかも「暮らし」の主体は「わたし」である。「研究」からすると夾雑物と考えられる諸々のことを、まるでモクズガニのように身につけて身過ぎ世過ぎをこなしている。つまり「暮らし」は、混沌そのものの渦中にあって、それぞれ主体の猥雑さを存分に発揮して渡っていっているのである。この混沌の世界から、きっちり整序された統治された世界がどう感じられるか。それを対象化しようとしているのが、私のブログ記事だと言える。

 そういう意味で「研究」は、統治的センスに寄り沿う蓋然性を備えている。ああ、そう考えると、安倍政権時に日本学術会議の委員選任に際して、政権寄りにふさわしくない委員を選任しなかった政府為政者の思惑が、勘違いもいいところ、わが身を削って痩せ細る道を採っていると非難を受けたのも、得心がいく。長い目で見たら間違いなく味方である学術という「研究」分野の専門家を、当座の政権に沿わないからといって切り捨てたのだから、何故そうしたかも説明できないし、その理由を口にするとあまりの狭量さに嗤われてしまう。

 それをさらに先までみると、国家百年の大計とか民度を高めるとかいうことも、教育とか学術ばかりではない。遊びもお笑いも、猥雑な賭け事や遊興場もお酒を提供するとかしないとか、日常ふだんの振る舞いも、統治しなければならない事柄として、為政者の視界には入っている。何しろ国家統治から社会の気風がズレてしまうことはよくある話し。資本家社会の市場経済にしたって、お金儲けの流儀という、グローバル化の目下の流行に目を眩まされて右往左往しているじゃないか。その現下の流儀が、統治的センスに合致するとは必ずしも言えないから、「暮らし」の平穏を求めている民の方も、ただ単に統治されることを排斥しているわけじゃない。でも、混沌を生きるというのは、いずれのものとも知れないのに身に備わってしまっている夾雑物とともに、生きていかねばならないのだから、そう簡単に役に立つとか役立たないと切り捨てて貰っては、困る。コロナウィルスだって、そういう夾雑物の一つ。そう考えると、「研究」はもっと猥雑な夾雑物を大事にしなよと、「暮らし」の方からは声を掛けたいくらいだ。

 夾雑物と共に混沌を生き抜くという「暮らし」は、そもそもの出立点がアナーキーなもの。それを統治的センスでまとめていこうとする為政者の視線が、公助を頼りにしたい気分と掣肘されたくない心持ちの鬩ぎ合いの渦中に身を置く生活者の振る舞いとぶつかるのは致し方ない。「研究」をする人が在野であることへの「期待」というのには、ある意味、「暮らし」のアナーキーな要素を組み込んでくれるかなという期待がこもっているのかも知れない。

2022年2月10日木曜日

蝶の羽ばたき――成り行きが道を拓く

 荒木優太の『在野研究ビギナーズ』に書かれてあったことで、印象的だったことがある。書いた人やタイトルなどはすっかり忘れてしまっている。大学で生物学を勉強しているときに目にしたハエがエメラルド色できれいだったことを覚えていて、どこかでそのハエの種名を耳にし、世界に何千種(何万種?)とあり今でも新種の発見が続いていると知って、仕事の合間にそのハエの研究を始めたという方の「在野研究」の話し。

 ネットを通じて見つけたハエの同定をする。その過程で、同行者のネットサークルが形づくられ、遣り取りをし、関係論文の要約を(英文にして)紹介したり、自ら論文を書いたりしているうちに、それがロシアの(大学の)研究者の目にとまり、誘いを受け共同研究となっていく。研究者の発表の場として「WEB雑誌」を発行し、それが軸になって「研究活動」の場が出来上がっていくという話しであった。ああ、ここに在野研究者の真骨頂があると思わせるほど。サーフィンに乗っているように、面白い。

 自分の眼前の波に乗るしかないのだが、見よう見まねで乗っているうちに波の起源や構造、海の全体とそこに遊ぶ人たちとの関係が見えてくる。成り行きなのだが、そこに遊ぶことができるように道を探る。講じた手立てが功をなすと、そこへ身を任せ、次のステップが見えてくるという流れは、自分の立てた軸が見えてくるとともに世界の広さがうかがえ、その向こうに広がる果てしなさが、また意欲をかき立てる。そんな感触が、「研究」の楽しさを表していると感じた。

 こうなると、「研究」というのは、それが「名を遺す」とか「テクストがそれとして評価される」とかいうのとは関係なく、その世界の広がりと自分の関心との強い関わりが感じられて、わが実存の実感をしっかりと身にもたらす。まさしく生きているのは、このためだと思えるほどの力強さを感じる。「研究」が在野であろうとなかろうと面白いのは、根柢的には、この一点にある。

 となると、じつは「研究」と呼べるかどうかはわからないにしても、人の「活動」それ自体が「在野研究」と同じように、私には感じられる。ただ異なるのは、ヒトの暮らしという営みも活動ではあるが、それ自体は意識的な「活動」ではない。つまり暮らしの営みが、どう行われているか、何故、いつからそう行われているのか、そういう考察対象として意識的に行われるとき、それを「活動」と呼んでいる。それは「研究」と等価である。

 等価といっても、価値的に高いかどうかを指しているのではない。人の文化的な営みとして対象化しているという意味で、その「活動」は実存を証すものとしての人類史的資料となる。

 では、ヒトの暮らしそのものは「実存の証」とならないのか。残念ながら、ならない。対象化するというのは、意識的な振る舞いである。それが記録にとどめられるかどうかは、また別次元の問題だ。たとえ記録にとどめられなくても、意識的な「活動」が湛えていた「波」は(価値的な善し悪しは別として)、世界に波紋を及ぼしていく。ヒトの暮らしそのものは、まるで「物自体」のように「コト自体」として、投げ出されているだけで、目にとまらない。だが、それが人の目にとまるとき、出来事として記憶にとどめられ、あるいは画像として、文章による記録として残す・残ることによって、対象化される。記憶者や記録者の意識的な「活動」を介して、「コト自体」が「実存の証」となるのである。

 その「研究」「活動」の記憶や記録がどれほどの広がりを持つかは、これまた、別の問題。人類史的には、たとえそれが身内の僅かの人たちに受け継がれていたとしても、人類史の文化の片鱗として、germ(黴菌かつ萌芽)として、一匹の蝶の羽ばたきがカオスをもたらすコトにつながっているかも知れない。そう思うからこそ、「クソみたいな人生」も生きていけるのだと数え傘寿の歳になって、改めて思うのである。

2022年2月9日水曜日

クソみたいな人生とgermとしての人類史の資料

 一昨日の「研究ってなんだろう?」に続ける。

 荒木優太が「テクストにしたものがテクストだけで判断されるときがきっとくる」、それを「いいものを書いたなあ」と自賛する一方で、「クソみたいな人生にちょっとくらいあってもいいじゃないか」と韜晦気味に述べているのは、何を表しているか。

 彼の「専門は有島武郎」だそうだから、人の生き様に引っかからないわけはない。にもかかわらず、属人的な要素(癇癪持ちとか、意固地とか、偏屈とか、人間嫌い)には関心はないといいきる。荒木優太の評論を読んだことがないので、門前の小僧としての感想を述べるが、これは「純文学作家」の評論をする人たちの論展開の次元を非難しているのではないか。つまり、作家の属人的な要素(癇癪持ちとか、意固地とか、偏屈とか、人間嫌い)を喋喋して作品の意味を述べ、評価をしたつもりになっている文芸評論をこけにしていると考えられる。とすると、荒木が考える文芸評論というのは、その作品がどれほど人間存在の本質に迫り、人間の生きた時代を照射して表しているかで評価されるべきだ。それこそが荒木の関心事ということになる。テクストにしたものがテクストだけで判断される次元として探求することを、「研究」の価値として取り出していると見える。

 だが私は、文字として表現されていないことが人の生きた形跡として遺され、受け継がれ、今に至っていると考えている。テクストとして遺されているものが「研究対象」としての確かさを持って眼前に残ることは間違いないが、身に刻むように残り受け継がれてきたことが、テクストの前に、まず、わが身に堆積している。そのわが人生を振り返ると、癇癪持ちとか、意固地とか、偏屈とか、人間嫌いという性格というか、心理的なところでの「属人的な要素」とばかりは言えないが、人間に固有のクセとか傾きが(例えば言葉として)血脈を超え、時代を超えて、継承されていることを感じている。それは何故かと考えていくと、(癇癪持ちとか、意固地とか、偏屈とか、人間嫌い)ということも含めて、それがなぜ、その時代のその人にクセのように張り付いたのかも、考察探求の素材になる。それを荒木優太は、「クソみたいな」とけなしているのだろうか。

 彼の書いた「貧しい出版私史」を読むと、アルバイトをし、ときどき文筆で収入を得て実家暮らしをしているようだ。そうしてこんなことを書いている。

《ちなみに、家族の悪感情を手当てするには生活費を定期的に手渡すとよい。一気にではなく定期で、あと、少しずつ増額していくのがミソだ。意外と社会人やってるんだぞ、という暗黙のメッセージである》

 若いなあと、私は笑う。荒木優太は、ひょっとすると「暮らし」というか、「身過ぎ世過ぎ」を「クソみたい」と思っているんじゃないか。そうして、「クソみたいな」日常に埋没してしまう自分を感じ取って、苛立っている。ニーチェもそうだったようだが、そんなつまんないことを繰り返してどうすんだよと問われたら、そう応えるに違いない。それとの対比で、「テクスト」がおかれて、輝いて見えているように思っている。だがそうか。

 文化の創出と継承は文字や画像や音声録音という以前の、人の身体を通してつくられ、受け継がれ、それによって身体自体を変容させ、文化として現在に至っている。「研究」というのは、後付けであれ、それがどのようにつくられ受け継がれてきたかを明らかにし、あるいは、外部の自然をどう身の裡に組み込んで、自然それ自体をも変化させてきたかを外部的な自然に人間活動を位置づける恰好で、極めていくことではないか。とすると、ありとあらゆることが(つまり「わかっていない」という発見も含めて)、考察の次元を設定することによって「研究」の対象なる。

 若いなあというのは、「身過ぎ世過ぎ」を「クソみたい」と思っていたことが私の若い頃にあったからだ。だが歳を重ね、いろんな生き方をみてくるうちに、テクストや絵図や音として受け継がれているもののうち、身体に刻まれるように継承されている文化こそが、源になっているという確信であった。逆に自分に何が欠けているかって考えてみると、みに受け継がれている暮らしの文化に頓着していないという「発見」であった。

 その地平から世の中やエクリチュールや人の有り様を眺めてみると、欧米文化を追いかける形で起ち上げられた「研究」の多くが、理知主義的な傾きを意識せず(それどころか純化するような形で)もちきたり、論議の次元を狭隘にしていると感じることが多くなった。と同時に、自然との位置関係をどう捉えるかと考えてみると、人の営みは、塵埃よりもさらに小さいgerm(黴菌)のようなものだと感じている。

 だから意味がないとかあるとかいうのではない。意味のあるなしは、その論じる次元によって論じる人が付け加えること。生きている私たちは、「研究」的立場からすると、第一次資料として存在している。それが「暮らし」であり、「継承している人類史的文化」の現在形、恰度私が言う「germ」なのだ。

 何かに関心を持ち、「研究」的な立場を抱懐することは、「クソみたいな人生」を対象化してみることだ。私にとっての第一歩が、「わが身に継承されている人類史的文化」という見立て。何故このように感じるのか、何時何を根拠にそう考えるようになったのか。そうした日常の一つひとつを、わが身を通り過ぎる世のあれやこれやを対象にして吟味しつつ探求する、それがわが身に刻んだ人類史のクセだ。そう、ひとまず記しおいて、いずれ機会があれば、それを対象にまとめ上げてみようと思わないでもない。寿命と体力と根気が何処まで続くかではあるが。

2022年2月8日火曜日

いまでも「村八分」にするか?

 1年半ほど前の、田舎に住む同級生との電話のおしゃべり。

 大学を卒業して実家に帰った学生が新型コロナを発症した。卒業祝いのヨーロッパ旅行でウィルスを持ち帰って、そこから感染。当時はクラスター追跡に力を尽くしていた。県内4人目とあって、その家族もそいつの立ち寄り先もどこの病院に収容されたかも衆目の的。学生の名前もわかってしまう。その集落が騒ぐだけではない。家族の勤め先にも緊張が走る。ほかの郡市から仕事に来ている人もいるから、人口6万ほどの町だけでなく県全体の話題になった。とうとう実家の人たちはいたたまれなくなって、何処やらへ引っ越していってしまった。こわいねえ、村八分やね、と電話の主は口にする。

 人口6万、地方都市としては平均的な大きさの町。農漁業だけでなく、いくつかの鉱工業も抱える。産業面でも平均的な日本の地方都市。どう対応するか。医療制度やご近所付き合いも、それなりに近代的な市民社会になってると私は思っていた。それも、「ふるさと」を離れて遠くから見ているゆえの幻覚だったのか。コロナウィルス禍によって、グローバリズムや中央集権的なシステムが対応できず、アフターコロナの社会は地方分権で小規模のサプライチェーンが必要と私は考えてきた。だがまさか、村八分までさかのぼるとは思わなかった。コミュニティの気風が不安定になっているからなのか。

 たしかに感染・発症者の発生、クラスターがどこかは、地域保健状況の管理当局が把握するだけでなく、ある程度情報公開をして市民に注意を呼び掛ける必要がある。感染経路がはっきりしているのであれば、個人名を特定することもなく、GPSで「感染可能性」の警告を発することもできる。COCOAというインターネットアプリが開発されたときは、そうだこれだ、とすぐに登録したものだった。

 少しクールに考えてみると、その大学生のうかつさを責めることはできない。大学生が卒業祝賀会をするとか、ヨーロッパ旅行するというのは非難されるようなことではない。旅行の予約をしたのはコロナウィルスの名も聞いていないころ。ヨーロッパの流行が報じられるときにはすでに「キャンセル」することができなくなっていたという事情も考えてみれば(裕福でもない学生の懐を考えてみると)同情に値する。「自粛勧告」が出ていたとはいえ、仲間内の「祝賀会」がまさかこんなことになるとは。軽率さを後悔するというのも、いかにも学生時代にありそうなことと。私などは共感・同情してしまう。

 そう思いやる気風も失せてしまうほど「不安定な気分」が町全体を覆っているのか。「不要不急の外出自粛」とか「営業自粛」などで、全国的というか世界的に不安に満ち満ちている。感染がわかれば、「不安」の八つ当たりを受ける。アインシュタインは「人間定数」と謂うかもしれない。人の性が絡み合って(自分の身の裡の安定を求めて)外へ攻撃的に「当たってしまう」。噂話も根拠のない流言飛語も好奇心も、ことごとく内省的に検証すれば「わが身」に覚えがあること。「わがせかい」のことにほかならない。

 つまり(ある出来事に対して感じている)好奇心も不安も腹立ちも、「わが身」の輪郭を描いていると内省的にみることができれば、コロナウィルスの感染がどのように広がるかを合理的にみてとって、それに対応する手立てを講じることへ考えすすめる道が開ける。ほとんど不安にはならない。だが、保健行政当局への不信とか、地方行政そのものへの底流する信頼の欠如があると、市民は自分の暮らしは自ら守るしかないと肚を決める。そうすると、近代合理主義的な行政処理の論理が通用しなくなる。危機に直面したときに、日常的に底流しているその社会の気風が表面に現れてくる。それが「村八分」に現れているような気がする。

 そうして1年半経った今、ご近所の誰かが感染したら「お気の毒に」といって済ませることはできているだろうか。著名人が、あの人もこの人も感染したと公表され、症状とか回復度合いも報道される。こうして徐々に市井の庶民も、感染と自己防衛との市民的な有り様を考えたら、「村八分」が見当違いだと思わないだろうか。

 この点を超えないと、もの・ひと・ことが世界規模で行き交うこれからの時代を、私たちは生きていくことができないのではないか。

2022年2月7日月曜日

研究ってなんだろう?

 荒木優太編著『在野研究ビギナーズ――勝手に始める研究生活』(明石書店、2019年)を手に取った。いや、面白い。研究ということのいろんな側面が浮かび上がる。15人の在野研究者による14章の、自己紹介的な記述。何故、在野なのか、何をしているのか、どう取り組んでいるのか、何が暮らしの現実を支えているのかなどなど、たぶん気儘に書いて貰ったところが、「研究」ということに関する「在野」ならぬ「在朝」の、つまり職業として研究活動を続けている側も、あぶり出されてくる。加えて、3人の、国会図書館員、教育を論じてきた専門職の研究者、フリーランスの翻訳家へのインタビューを挟んで、「在野研究者」と呼ぶかどうかは別として、まさしく自分のもっぱらの関心を探求していきたいという人たちに、お役立ちの(狭い分野の)術も添付されている。

 自己の関心事を探求していくことを「研究」と呼ぶと、このブログのように「よしなしごとをとりとめもなく綴る」ことも「研究」なのかと笑いたくなる。あっ、そんなことはない。これは、断片。日常の平面に散らかっている。探求なんかしてないぜ。単なる随想、エッセイ。

 これを研究的観点からみるならば、市井の老人の日常性を表現した「第一次資料」というわけだ。研究者の中には、老人の聞き取りをしたり、被災者の話を収集したり、関係者の陳述を書き取ったりする活動も含まれる。それはそれで、「証言」として意味を持つから、このブログなどは市井の年寄りが生きた形跡の断片、自分で記述する「第一次資料」だ。そういう生きた形跡としての第一次資料は、市井の人の数ほどあるといえる。しかし文字として遺されるものは、必ずしも多くない。だが、それだけのものだ。

 それがどういう文脈においてどう読み取るかを施してこそ、「研究」と呼べる、第三者による社会的位置づけを得られる。世の人の目に触れるには、それだけの手間と(社会的意味の)価値を付与されなくてはならない。

「論文」は、取り上げているテーマを普遍性を持つ次元にまで高めて論じるという必要があり、その作法がある。記述者の個人的感懐を盛り込んで、それが論旨をゆがめていくことを良しとしない。私の記述する「エッセイ」は寧ろ、体験的な出来事から「論題」を拾い出して、そこにみられる時代的な特徴や移り変わりをどう読み取っているのかを、俎上にあげる。

 論理的に記述したときに捨象されてこぼれ落ちるのは、何故それを取り上げるのかという動機である。その筋の研究者が読むときには、その論題がどういう文脈のどういうところに位置して読み取るものか十分にわかっているから、戸惑いなく本文に入って行けるであろう。だが私のような素人は、なぜそういう論の立て方をするのかもわからないから、最初の五十頁ほどは五里霧中の行ったり来たりをする。本は、読み進める早さも勝手であるし、こうした行き来が自在で読み返せるから、ネットの画面よりはいいのだが、それでも我慢ができなくなって遂に投げ出してしまう本も出てくる。

 いや、こう言った方がいいか。論文に取り上げられる「論題設定の動機」は、長年多くの研究者によって積み上げられてきた研究の形跡にどうつながるかを記述するのが恒である。論者の個人的な体験は記述の枠外におかれる。それは「論題」が個人的な関心事ではなく、社会的時代的研究世界的な共通の関心事だと提示するものだ。だから「論述の作法」が発生する。だが素人の私には、論者の個人的体験から発せられた言葉の方が、はるかにモチーフが伝わる。またそれがあるから、ことさら市井の老人にこだわり続けているとも言える。

 荒木は「研究」というのを、次のように限定する。

《研究的テクストが素晴らしいのは属人性を超えていけるからだ。純文学の小説家はそういった自由をもたない。いつも深遠な思想やエキセントリックな性格やスキャンダラスな私生活を勘ぐられたり、期待されたりする。テキストと人間が固く結ばれているからだ。が、研究者の書くものはそうではない。三好行雄や浦西和彦や亀井秀雄が……どんな人だったったのか。癇癪持ちだったのか、意固地だったのか、偏屈だったのか、人間嫌いだったのか、私は知らない。そして興味もない。彼らが一生懸命書いた(だろう)テクストだけが残っている。それでよい。》

 この荒木の記述からいうと、(例えば市井の老人の暮らしという)第一次資料の読み方が思い浮かぶ。つまり語り手の属人的な要素(癇癪持ちとか、意固地とか、偏屈とか、人間嫌い)を捨象して、世相や時代を映しているテクストに読み替えていく文脈が構成されると研究的テクストになる。だが私は、属人的な要素(癇癪持ちとか、意固地とか、偏屈とか、人間嫌い)に目を留め、それがなぜここの文脈に意味を持つかと考えて組み替えてまた、異なった読み取り方が生まれ、新鮮な切り取り方として世相や時代の変遷を取り上げることができるように思うのだ。

 じゃあ、それを自分でやればいいではないかと、人はいうかも知れない。確かにそうだね。関心があれば誰でも取り組めるというのが、在野研究ビギナーズの真骨頂だ。でもねえ、自分でやれればいいが、それほどの執着力も、集中心も、何より体力がもはや及ばない。もう二十年若ければねと、思わないでもない。それにもうひとつ、違いがある。

 今私がやっているような第一次資料として生きることと、(在野であれ)「テーマ」を定めて研究者として取り組むこととの間には、大きなギャップがある。日々私が記す記事は、germである。germというのは「黴菌」と訳されるが、元々は「萌芽」とか「(植物などの)幼胚/芽」である。出来事の断片ともいえる。それを文章にするということは(たとえ属人的であるとしても)、「わたし」を通過する(私という体を媒体として憑依した)人類史の現在(の痕跡)を、対象としてとらえてみる試みの欠片である。それを「研究」に高めていくためには、暮らしの本体から一歩ステップアウトして眺める視線が欠かせない。

 市井の老人というのは、そういう意味では世相からも時代からも取り残されて「埒外の人」、ステップアウトしている。だから、わが身に堆積した痕跡も含めて、対象として眺めるのに(わりと)適切な場所に立っていると思う。にも拘わらず難しいと思うのは、「正義」を切り出すのに「無知のヴェール」を被るどころか、市井の老人は「無知」そのものだからなのだ。ジョン・ロールズは「無知のヴェールを被る」といったが、それは知者が被るものであって、「無知であること」を指してはいない。

 在野の研究者が興味深いのは、どうステップアウトした地歩を築いているかである。荒木は本書の「貧しい出版私史」のなかで、「私を他人にする方法」と章を設け、二ヶ月に一回必ず書き下ろしの論考をアップロードすることによって「私」を切り離すという。そうして、その根柢に、「クソみたいな人生、というよりも、人生というクソを押しつけられたこの最悪の災厄の中で、ほんの少しの間幸せを感じたって、そうそう罰は当たらないだろう」という、ちょっと韜晦気味の自己省察をおいて、こう言う。

《テクストにしたものがテクストだけで判断されるときがきっとくる。……よく自分が書いたものを読み直す。読み直してつくづく「いいものを書いたな」と思う。内容を大体忘れているので、はじめて読んだような感動を味わえる。ありがとう、わがボンクラ!》

 そうなのだ。この自己を見つめる視線に、私は共感する。この34歳の若者が、すでに老成した視線を獲得する時代なんて、スゴイと思う。

 荒木の在野研究ビギナーズの話題を読んでいると、ひとつひとつが興味深いテーマを掠っている。論文の作法、データ検証の厳しさ、肩書きが舞台を決める、テーマが学者ギルドに規制される、ネットワークという新しい手法とアカデミズムの制約、アカデミズムと在野の交通の硬軟、仕事とテーマの乖離、研究の時間と暮らしという人の生活の一般型、関心領域への気儘さ、自在さと自分を振り返る契機など、その周縁だけを経巡ったわが人生であったが、関心の尽きないことだけが、軽く飲んだ釣り針のように引っかかって、面白かった。

2022年2月6日日曜日

早春の気配

 久しぶりに坂戸市の浅羽ビオトープへ行った。高麗川の広い三角州を利用した自然保護区。駐車場には車が20台ほども止まっている。風もなく天気もほどほど。ここの静かなルートは恰好の探鳥や散策路だ。

 枯れ木が多い。冬場は川の水も少ないから、蛇行が途切れて水溜まりになっている。今年はその水も、うんと少なくポツポツと散在している。10時というのに表面は凍っている。鳥が困るだろうと思う。コゲラが姿を見せる。メジロが飛ぶ。ベンチを跨いで二人の男が向き合って腰を掛け、将棋をしているようだ。近頃は夏でも、縁台将棋を見かけなくなった。

 ツグミがいると、カミサンが指さす。河原に降りてぴょんぴょんと歩いて行く。何羽かの小鳥がツグミに驚いて小さい水溜まりから飛び立つ。アオジだと私がいうと、カミサンはカワラヒワだという。双眼鏡で覗いてみると、なるほどカワラヒワだ。その先へ行くとセキレイがいる。尾をピンピンと跳ね上げるように動かす。どっちだろうと双眼鏡を覗く。セグロセキレイだ。シメがいる。いつもならイカルがいるはずなのにとカミサンはいう。このビオトープはカミサンの馴染みの場所。日曜日は車でアプローチするのも楽だろうからと、私を案内してくれる。ま、山へ行けない私のリハビリのひとつというわけだ。

 枯れ木を抜け、川筋の方へ向かう。風が強く、高麗川の本流の流れが風で波打っている。対岸の草叢を歩く人がいる。こっちから向こうへ渡ったのだろうか。カメラを構えた人が川中の何かを写そうとシャッターを切っている。カメラの方向を双眼鏡で追うが、何かわからない。カミサンが、川の対岸の手前をジェスチャーで示す。双眼鏡を覗くが、わからない。「ん?」と目で言うと、キセキレイと口を動かす。そう言われてみると、水と川縁の石の間にキセキレイを尾を振って歩いている。カメラマンは、まだカシャカシャとシャッターを押している。

 さらに西の方へ向かう。高麗川がどっちへ向けて流れているか、風の所為もあってわからない。おおっ、畑がある。「不法耕作よ」とカミサンの声は少し尖る。「でも耕作放棄よりいいよ」と返す。植え付けた葱は小さいのが、水が足りないのか、消え入りそうに土から背を伸ばしている。白菜だろうか、身を寄せ合ってつぼまるどころか、ペロンと力なく開いて、とても食べたい気配を見せていない。キャベツが大きく丸まって様になっている。不法だろうと何だろうと、これなら食べることができる。

 ダイサギが対岸の木の中段に止まっている。それが飛び立つ。曇り空に白い羽ばたき生映えて美しい。その後、ダイサギが右へ、左へと飛ぶ。何だろう。これほどのサギが飛び交うのは、渡りの時以外は、珍しい。

 最西端にはグランドがある。野球チームだろう、トンボを使って整備をしている。その外野を辿って下へ戻る道へ向かう。おっ、スズメガいるとカミサンが言うので双眼鏡を覗く。わからない。と、カミサンがあれはカシラダカ、と訂正する。みていると6羽いる。いや、7羽だ、いや9羽だ、といっているうちに、左から飛び込みもあって10羽になる。と、右から人がやってきてパッと飛び立つ。十羽以上が群れになっている。やってきた人は鳥は眼中になく、カシラダカがいた辺りをずいずいと歩いて通り過ぎる。

 再び岸部に出て、しばらく歩く。シジュウカラがいる。シメもいる。エナガが何羽か出入りする。ホオジロがペアリングしているのか、2羽で止まっている。

 こうして1時間半ばかり歩いて、ベンチに座りお昼にする。ジョウビタキが目の前に姿を現し、萱に止まって大きく折れ曲がり元へ復する揺れ動きを楽しんでいる。今日観たジョウビタキは、しかし、みな雄ばかりであった。どうしてだろう。見沼田んぼでみるときは大抵がメス。そんなに地域差があっていいのだろうか。

 2時間半ほどを過ごして帰途についた。鳥はそう多くはなかったが、気持ちがいい散歩であった。早春の気配を感じてきたようであった。

2022年2月5日土曜日

ゴチャゴチャとスッキリ

 北京五輪が始まった。私は東京五輪にも関心がなく、北京五輪も、人権問題とか専制政治とか関係なく、スルーしている。羽生弓弦ファンでもあるカミサンは「開会式」をみて、「ずいぶんスッキリしていたよ」と東京との対比をする。

 勢い余って「東京の時は、演出者の交代とか、バタバタしてたし」と付け加えたから、「そりゃあ違うだろ。情報公開が自在だから、ああいうスキャンダラスな話しも騒ぎになる。それがない方がいいというのなら、専制政治がいいって言うようなもんだ」と返して、でもそれだけじゃないよなと胸中に余剰が残る。

 映像は、ニュースやヴァラエティ番組でみただけだから、印象批評的になるが、東京の場合、いろいろと天こ盛りで、まるで高校の文化祭のようにゴチャゴチャしていた感じだった。だが北京の場合、スッキリとしている。この両者の違いは、爛熟した文化と成熟期に到達した文化の違いなんではなかろうか。別様に言うと、北京の場合、近代化を図るというテーマが北京五輪の演出者に肌で共有されていて、そのスマートさが現れていた。それに対して東京の場合、ポストモダンというか、共有されていたスマートさが野暮となり、その後の文化的な散乱が、あるいは伝統的な古典回帰だったり、あるいはスマートさを崩してアヴァンギャルドな混沌だったりするという不統一の表現となるから、全体的な印象としてはゴチャゴチャして見える。

 いうまでもなくみている私たちは近代化を経済の成長期を通じて推進してきた側だから、身に染みこんだ感覚はスマートさを良しとする。つまり北京風の開会式の演出が好ましく思われるのではないか。そもそも東京風の演出を批評するほど俯瞰的な立ち位置を持っているわけじゃない。だからせいぜい、受け止める感触としてスッキリかゴチャゴチャかという印象批評しかできない。当事者には迷惑であろうが、世代的な文化の差異は、それほどに落差が大きい。テンポも違う。リズムも速すぎて、ついて行けないどころではない。耳に馴染まない。ドラマの台詞も早口すぎて、何を言っているかわからないことが多くなった。

 そういうことでは、文化も後を追って成長期を通過している中国の気風の方が、私たちの体験したことでもあって馴染みが深い。別に専制政治がいいとか悪いとかではなく、わが身の感じる親密性に遠いか近いかであろうと、私はみている。

 ともあれ、コロナウィルスの感染拡大については、ゼロコロナになるかどうかは看板ほどではないけれども、専制体制の方がきっちりと狙い通りに運べる。為政者は、どんな政治体制の下にあっても、ピープルが従順に遵ってコトが専制的に進行する方を好ましいと思うに違いない。民主制というのは、コトの進行にチェック(横槍)が入るから、話しがゴチャゴチャしてしまう。だが西欧発の近代政治体制においてもゴチャゴチャしては困るものがある。

 例えば「法治主義」。法の体系や解釈がゴチャゴチャするのは困るから、近代政治の司法は、「専門家」が担当するようにしている。立法は、それこそゴチャゴチャしているピープルの思惑や考え方や感覚を取り込んで、整理して、最終的に決定して法にするわけだから、プロセス自体がゴチャゴチャするのは民主制の必然というわけ。ですが、出来上がった法は、思惑などを超えてクールに固定しておかねば、法を勝手に解釈して行政を行ってしまうことも起こりかねない。そうなると「法」に対するピープルの信頼が失せてしまう。経験主義のイギリスですら、下院の立法の適正かどうかを判断する、ある種、司法的な役割をする上院の法律貴族は、選挙で選ばれるわけではなく、任期も終身となっている。

 だから、日本の司法のように(選挙で選ばれたりしていないお前達裁判官が偉そうに違憲判決などと勝手に振る舞うなと非難されて)立法府に頭が上がらなかったり、行政府の思惑を忖度したり、あるいは法務大臣が法解釈を勝手に変えたりするようなことは、それ自体が民主制の軸を揺るがす行為なのだが、「選挙で選ばれた」という錦旗を掲げて、立法や行政が振る舞い始めて、ゴチャゴチャしている日本の民主制は、ゴチャゴチャを取り違えていると言っていいのではなかろうか。

 おやおや、ゴチャゴチャとスッキリとが、民主制と専制政治の選択の話になっちゃって混戦してきた。ま、私たちの身が思えている感触まで取り替えることはできない。中国の人たちの身に刻んでいる「近代化の感触」は、1980年代の私たちとそう変わらないのかしら。そんな疑問が、ふと浮かんだ。

2022年2月4日金曜日

交錯するオミクロン情報

 オミクロン株の感染がピークへ向かって拡大している。その拡大割合が少し緩やかになってきたかなという感触と、専門家による3ヶ月前の予知、「第六波のピークが2月初旬にやってくる」とが符節を合わせて、やっと峠を越すかと安堵の思いも湧いている。

 重症化しないといわれているオミクロン株の感染症状も、素人が遣う「軽症」というのとニュアンスが違うらしい。発熱も喉の痛みも、その継続期間も所謂風邪やインフルエンザとは違ってきついという。また高齢者の重症化や死者は、オミクロン株になっても決して侮れないというし、週刊文春の中刷り広告によるとインフルエンザの8倍もあるそうだ。「蔓延防止措置」とか「緊急事態宣言」という政府の掛け声は、何にどう対処しようとしているのかわからないから、それが出るか出ないかを少しも当てにはしていないが、コロナウィルスの「恐さ」の度合いが測りかねて、困っている。

 TVではもう、「エンデミックはいつか」と遣り取りしている。パンデミックの逆、つまり収束をエンデミックというのかと思って辞書を引いた。そうではない。endemic desease は風土病とある。つまりインフルエンザと同じ、普通の感染症というな扱いになることを指しているようだ。

 そうかい? もうそんな話題を取り沙汰するほど、この感染拡大は山を越したのか? 

 WHOの事務局長は、途上国の状況を見て、まだまだ警戒を怠ることはできない、ワクチン接種さえ2割に達していないのだからと声を大きくしている。だが、先進国は、もう我慢ができないとばかりマスクも外し、「社会的距離」もあったものかは。ほぼコロナ前の状態に復していると、オランダやイギリスの様子が画面に映されている。感染症の流行も、ある程度の犠牲者が出るのは仕方ないよねと見切ったような気配。見切られているのは、私たち高齢者というわけ。

 TVの専門家もまだどちらがどちらと決められないようで、両説が混在して交わされている。自己判断で自助ですよと言われている市井の庶民が、どうしたらいいか困惑しているという図である。

 まだしばらく世の形勢を見計らい、どう振る舞うか思案しなければならない。まるで戦場になりそうな幕末の京都や江戸の民の困惑と同じなのかも知れない。コロナウィルスの襲来に、あれこれと利害の絡まる力のある人たちがいろんな言説を振りまいて、さまざまな対処をする。その火の粉がこちらに及ぶか及ばぬか、力のある人たちはこちとらのことは、たぶん眼中にないから、勝手に自分で見極めなければならない。

 ちょっと一歩ステップアウトして眺めると、クールに自体が見えるかも知れない。

 こんなスリリングな気分を世の中全体が共有しながら体験していくって、第二次世界大戦以来じゃないか。世代間の受け止め方の差異も、戦争体験と同じ。ただひとつ、敗戦の時まだ幼かった私が、いまは後期高齢者という世の中の慮外の人になっている。ともに「弱者」という括りにすれば一緒かも知れないが、スリリングを意識的に味わえるという意味では、今の方が分がある。そう思って、何処に感染の境界線があるか、リミットの壁の上を歩いている。

2022年2月3日木曜日

物語はリアルに敵わない

 北里紗月『連鎖感染』(講談社、2020年)を手に取った。表題が、目下のコロナウィルスを連想させる。しかも出版年月が2020年12月21日となると、まさしく新型コロナウィルスを体験して一年近くなる。どう書いているのだろうと読み始めた。

 正体不明の感染症が始まった病院の様相は、まさしく新型コロナウィルスの広がりが医療現場にもたらした騒乱に酷似していた。飛び込みで活躍することになるウィルス培養を手がける大学院生が、下町の姉御の風な伝法な口調で顰蹙を買いつつも、着実に正体の解析に近づいていく。他方で、患者の容態が何とか安定を得たと思った状態から、なぜか急変、苦しみ始めて死に至る。その場に臨場している病院の医師や看護師の、使命感と脅えと何が起こっているのかわからないが間違いなく緊急事態だという切迫感に苛まれる。

 その中にいて、ウィルスを解析する大学院生の手際が良い。手順や収集資料、扱う機器の描写も緻密。よく調べているなあと思い、読んでいて「ん?」と思ったので、奥書の著者略歴をみる。大学の「理学研究科の生物学専攻の理学修士。日本卵子学会認定胚培養士」とある。なるほど然るべくってワケだ。

 だが、ウィルスの発祥起源に迫ると、旧ソ連の細菌兵器研究機関から持ち出されたバイオテロ。関係者がアメリカで発症し、その関連を突き止めて最初の病院に戻ってくるのだが、そうやって物語りに人為の「仕掛け」が解き明かされてくると、途端に緊迫感が冷めて、話しがつまらなくなってしまった。

 むしろ、新型コロナウィルスのように、誰がどうしたものか正体不明のまま、天からの啓示の如くヒトに襲いかかり、世界を我が物の如くに振る舞っている人類への啓示として、不安を負い被せたまま進行していく「現在」の方が、遙かに示唆的であり、ただ単なる「連鎖感染」という病理的事象にとどまらない、人類の実存そのものの危うさと描き出せたのではないかと、オミクロンの感染拡大の発表を聞きながら思っている。

 起承転結をつけようとすると、どうしても人の振る舞いや意志が加わる。うっかりしたミスでウィルスが広がることもある。意図的な悪意がそうさせることもあろう。だが、一度発動された「人の振る舞いや意志」が、その意図を超えて人類を滅ぼしてしまう(かもしれない)展開こそが、人の自省を促し、自然への畏敬に結びつくと思える。結論づけなければならないという物語りこそ、卑小な思惑なのかも知れないと思った。

2022年2月2日水曜日

有効期限切れのワクチン

 昨日(2/1)、3回目のワクチンを接種した。2回目を打ったのが6/30だから、7ヶ月経った翌日。つまり正確に8ヶ月目の初日であった。1回目、2回目と同じように接種の10分前にクリニックに行き、順番に接種して、15分経過観察をして帰宅した。

 2回目までと違って、「(接種当日)風呂に入っても構わない」という。2回目の時は6月の暑い日であったから、シャワーで済ませた。今回もシャワーだとしたら、ちょっと冷えると思い、風呂は入らないでもいいかと思っていたから、湯船につかってゆっくり体を温めることができた。食べ物の制約もない。でも、晩酌はせず、副反応を懸念して温和しくしていたってワケ。

 今朝になって、左腕の注射した辺りに痛みがある。そうだ、2回目の時もこんな軽い痛みがあった。同じタイミングで接種したカミサンは、加えて腕がヒヤヒヤする、微熱でもあるのかなとぼやいている。今日は外の予定がなかったから、植物の観察に出向こうかと話していたのを中止して、静養することにした。

 そういうわけで、近所のスーパーの安売り品を私が買いに行った。朝から取り組んだ週一便の定例ハガキを作成し、併せて期限の来ている図書館の本を返却するべく、郵便局と図書館に向かう。ついでに、書き損じの年賀葉書を通常葉書に交換。さらに、思いついたのでついでになったが、お年玉葉書の当選を調べて取り替えてもらいに行った。いつもの年なら数枚はあるのに、今年は1枚しかない。百何十枚きて1枚というのは、ついてない訳だが、までも、1枚あったのがラッキーってことだろう。

 図書館は、そこそこ人は来ているがいつもながら静かであった。30分ほど雑誌に目を通し、予約していた本を受けとり、さらにカミサンのために小説を2冊借り受けてかえってきた。風が強いと聞いていたのだが、さして吹かず、日差しを辿って歩いている分には、カラダも冷えず心地よい。

 お昼を済ませてから、フランス映画「天井桟敷の人々」の録画を観た。1945年制作というのにちょっと驚いたが、面白かった。フランス社会の文化的な階級差を、劇場の客席の位置と演目への反応とで示して、展開するのはなかなか興味深かった。

 そうそう、ワクチン接種後の待機時間に、看護師がきて、打ったワクチンがファイザー社製のものと示した上で、その隅の方の「有効期限2022年1月31日」とあるのを指し示す。打ったものは有効期限を過ぎたものだという。そして別のプリントを一枚取り出す。この期限が「2022年4月30日」まで「接種に活用して差し支えない期限」として、3ヶ月延長された日付を記載している。延長を記したプリントは「有効期限の取り扱いの情報については、以下の厚生労働省HPにも掲載することとしていますので、ご参照下さい」と、断り書きがある。印刷物の発行元は記載されていないが、厚生労働省だろうと推察できる。何故かは、説明もない。この期限延長のプリントには「2021年9月30日」から始まっていて、2022/2/28分までのワクチンがそれぞれ3ヶ月延長と記している。昨日、今日、始まったことではないのだ。

 ま、私が接種したのは「有効期限」の翌日だから、一日くらいいいかと思って済ませることができたが、3ヶ月後の方は「う~ん」と呻ってしまうんじゃないか。でもどうして、こんな期限オーバーが生じているのだろう。

 高齢者の接種が8割を超えたとどこかで報道していたから、打ちたい人が打てないってことはなかったのかも知れない。3回目接種を早くしたらということはずいぶん前から言われていて、でもそれが8ヶ月経たないと打てないというのは、すっかりワクチンが足りないからだと思っていた。だのに、この「有効期限切れ」というのは、どういうワケだ?

 推測するに、「3回目接種は8ヶ月後から」と最初に期限を設けたのが何処なのか知らないが、それが全国津々浦々に「お布令」として通達せられた結果、期限まで打てないで有効期限を過ぎてしまうことになったのではないか。しかも9月分からの一覧があるということは、自民党の総裁戦後の政府首脳の交代と衆院選挙に掛かりきりで、ワクチンのことなど行政府は忘れていたんじゃないのか。思えばちょうど第五波が(なぜかわからないが)減少し、(今振り返ると)感染拡大が底を打ったのが11月初めであったか。政府もメディアも、ワクチンが余っていても、しかも世界の多の国ではブースター接種がどんどん進んでいたというのに、それに注意を払わないで、「(接種を)早めます」というリップサービスばかりを首相は記者会見で発表していた。なんだ、これは!

 メディアでは、2回目接種の抗体が有効なのは5ヶ月などと報道されていたから、6ヶ月というのは妥当な所。なのに、捨て置かれて、第六波が驚くほどの勢いで伸びているときにやっと高齢者の3回目接種が始まった。日本の行政組織は、本当に硬直しているんだね。そう感じる。

2022年2月1日火曜日

2月になった

 2月になった。明後日が節分。暦では4日から三寒四温の春へ向かう。歩いている身も浮き立つ。木立を飛び交うシジュウカラもはしゃいでいるよう。池へと下る斜面の草地にジョウビタキの雌がいる。見るともなくて見ていると左の方にも同じように草地から首を上げたジョウビタキがいる。これも雌だ。ジョウビタキはまだ、ペアリングのシーズンを迎えていないのかな。

 調節池のカモは、ずうっと遠方の浅瀬に固まっている。双眼鏡では見分けが付かない。中洲の茅場に大きな白い姿が五つ見える。コハクチョウらしい。五十メートルほど先の土手に4人の男が屯して、三脚に大きな望遠レンズを据えて池の方を眺めている。何を見ているんだろう。通りかかりに彼らの視線を追ってみれば何かいるかも知れないと思って近寄った。4人とも何かおしゃべりに興じていて、見ているものがあるようではない。そこを離れていつもカメラマンがいるのに今日は誰もいない土手の広くなったところで池を覗くと、コハクチョウがずいぶん近く見える。5羽のうち4羽は首を羽に埋めて寝入っている。1羽だけが首をもたげて周りを警戒しているようだ。

 あ、そうだ、こういうのを「奴雁」といったけ。福沢諭吉が『学問のすゝめ』で用いたとどこかで耳にしたことがある。群れの中で頭をもたげて警戒を怠らず、いち早く天敵を見つけて仲間に警声を発するのを奴雁といったものらしい。学問を積んでいく知識人は、奴雁たれといったのか。そうか、ミネルバのフクロウと同じだね。

 あっ、思い出した。1966年だったか、同じ学校の昼間の先輩同業者に「ミネルバのフクロウって誰が言ったんだっけ」と問われて、「ヘーゲルじゃないかと思っているが、わかりません」と応えたことがあった。あれは、夜の職場にやってきた(生意気だと昼間の教師達に評判の悪かった)新来の私を試したのだろう。そう言えば私も当時は、我がことを知識人と思っていた。福沢も、明治政府の為政者や当時の庶民に対して知識人が領導しなくてはならないという視線を持っていたのかも知れない。私はあまり啓蒙的ではなかったが、でも、教師をやっていたということでは、自ずと啓蒙的な視線は欠かせなかったろう。啓蒙家の下士官ってところだったかと、振り返って、いま思う。

 コハクチョウの奴雁は、しかし、群れの中の己のお役目を引き受ける胸中に何が思い浮かんでいるのだろうか。彼らが何も考えていないというのは、ひょっとすると、ヒトの傲慢な規定なのかも知れない。知識人の下士官のようであった私も、今は市井の老人としてモノを考える立ち位置を見つけた。それは、つねになにがしかの天敵に脅かされている市井の民の警戒心を自らのモノとして持つという自律の精神。それが共助というネットワークによって支えられているという洞察とその準備への怠りなさといおうか。

 ま、言葉ではそう口にするが実は、のほほんと運を天に任せてなるようになる、なるようにしかならないと思って日々を過ごしているというワケ。それでも、暖かい日々に向かうという節季は、心も浮き立つ。2月になった。