一年前(2021-2-22)の記事「次元の違いを打ち出して論議を整えよう」を読んで、甘いなあと思った。TVの遣り取りを「論議」にしませんか? と問いかけようとしたのかな、一年前には。だがすぐに「そうだね、井戸端メディアだね」と、TVがとりもつ社会的事実へ立ち戻って、居直るように「わたし」の感懐に引きこもる気配を見せたのが、去年のこの記事でしたね。
少し考えてみると、ここ何日か前から読んでいる熊谷晋一郎の「当事者研究」は、「井戸端会議」を「研究」にもっていく実践、と考えるとよくわかる。また、昨日取り上げたピアニスト・西川悟平の「強盗に誕生祝いをプレゼント」の話は、「当事者研究」ではないけれども、まさしくその「研究実例」の様相を呈している。
TVメディアということにこだわらず、「次元の違いを打ち出して論議を整えよう」というのは、だれがそれをするのかわからない。MCと呼ばれる番組のリーダーにその役を務めることを期待するわけだが、そうなると、他の人は当事者にならない。「論議」というよりも「いま」「ここ」で向き合っている者たちが「いま・ここ・をめぐって言葉を交わす」ように切り替えていけば、「当事者研究」が緒に着く。「井戸端メディア」が消費的になるのは、そこで問題にしている「事象」の「当事者」として自らを組み込んで喋らないからだ。それは同時に、場を共にしている他の面々への問いかけにもならない。他の面々が応答することもない。これが、消費的というおしゃべりの実態。銘々が言いたいことを勝手勝手に言う。問いかけているわけでもなく、応答を望んでもいない。
「言葉を交わす」というとき、自分の言いたいことを言うというよりも、相手に伝えたいことを口にすると「問いかけ」になるか。いや、まず啓蒙的にものをいう問いかけは、応答に値しない。啓蒙家というのは、自らを当事者として提出していない。中空の高見から睥睨してコトを伝えようとする。それは押しつけである。さらに、受けとる側が応じる構えを持っていないと「応答」にならない。この微妙な立ち方の違いが、「言いっぱなし」になるか「遣り取り」になるかの境目。
昔日の井戸端会議は演説会ではないから、その場に立ち会っていれば、黙っていても参加している。沈黙も一つの応答の形である。だがやはり「言葉」にしなければ、当事者としての存在が明かされない。つまり、井戸端会議にも、水先案内人が必要なのだ。それがありさえすれば、当事者研究の最適の場と言えるかも知れない。ピアニスト西川にとっては、強盗に襲われた自室が、その研究の場であった。水先案内人は西川自身。
世間話が苦手な私は、そういう意味では、自問自答が似合っていて、井戸端会議は苦手。でも、国分功一郎と熊谷晋一郎という二人の達者がパイロットしてちょっと扉を見せてくれた。当事者カフェの開店ってワケ。そのおかげで、自問自答がそれなりに進んでいる。ありがたいことだ。こういうのを、待っていたって感じである。
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