鈴木正興『郁之亮御江戸遊学始末録』を読んでいて、一入面白かった箇所があります。「四十三 瀬戸際ぞ学士変じて策士たれ」。主人公・郁之亮が長崎へ旅立つ前に、思い人・おゆきの身の振り方を定めおこうと大身旗本の姫のお付きとして召し抱えられるかどうか、話が進行している瀬戸際の段。
姫と旗本の家老とがおゆきをめぐって遣り取りするのと、郁之亮がおゆきと「火照る不忍」で密会し肌を合わせながら交わす会話の、二元同時生中継「重和(ハーモニー)」を試みているところです。
《まあいづれ自分の思い付きに任せて気儘に書き綴った単純読物と称すべく、世に問うもの、人に訴えるものはこれっぽっちもありません。自分は却ってその無近代的な所が取り柄とさえ思っています》
と作者ご当人は、別紙「御挨拶」で記していますから、この作家の身の裡が心身一如となって文字となって現れたもの(そのままでお読み下さい)と受け止めていいのですが、同時に(だからこそ)この表現が、日本的なというか、東洋的なというか、(インドのヒンドゥまで含めた)アジア的な身体観と西欧的な身体観の落差を表していて、興味深く面白かったというわけです。私が長年抱いてきた(日本的・アジア的)「心身一如」と(西欧的)「精神と身体の二元論」の違いを、浮き彫りにしているように感じました。なおかつ、ヒンドゥ=仏教的な(たとえばカジュラホ寺院の性に肯定的な彫刻などに観る)「色即是空/空即是色」の「空無観」とキリスト教的禁欲主義との落差を感じながら読んだわけです。
日本語では「心身ともに健やかに」と慣用的にいいますが、これは近代西欧で用いる精神と身体という二元論とは異なります。近代西欧的というからにはデカルトの「我思う故に我あり」からはじまるでのすが、認識主体としての人間の実在「精神(アニマ)」即ち「魂」と認識の対象となる「肉体(コルプス)」という対比の如く、精神を上位におく二元論です。
それに対して「心身一如」というのは、現世における人の立ち居振る舞いに現れる現し身を指していて、「認識」という次元が言葉のよって成し遂げられるわけではなく、修行という身の鍛錬によって(その身の根源において)一つになることを意味しています。こうも言い換えられましょうか。もし西欧風に分節していうならば、「心」はありとあらゆる人や自然や事象との関係を感知する能力のことであり、「身」は魂と肉体の統合された依代として現れる。これは、わが身の成り立ちを思い起こしてみると、生成的に実感できるものです。意思や情念の源泉としての魂は、(敢えて言えば)心と身との統合によって繰り出されてくる振る舞いに気配を窺うことができる実在感を持ったもの。形(色)はない。空なのです。
アジア的な心身一如のどこに、(西欧的な)言葉で表現できる理性は入っているのか、と問う方がいるかも知れない。デカルトのいう「精神」を「魂」と同義として扱う哲学者もいるし「心」と一緒にしている方もいる。そもそもキリスト教起源の臍の緒をデカルトは切り離し切れていないとする論者もいるから、私などは一緒くたにとらえているのだが、アジア的には「魂魄」という「精神の根源」のようなニュアンスで心身の中に包摂して考えています。西欧とアジアとでは、人の内面のとらえ方の枠組みが違う。今風にいうと、パラダイムが違うとでもいいましょうか。
鈴木正興の「小説」に話を戻しましょう。「おゆき」の旗本家腰元という就職先の、採用側の遣り取りはおゆきの人品骨柄に関して高い評価をした言葉が交わされている。
《控え目な趣ながら態度や言辞中に軽からぬ芯の如きものの是ある所》《ほう、そなたもあの娘の等並でない人性を見抜いて……遉がの眼力の持主じゃ》《問答せば豈図らんや見掛けに叛き簡にして要を得たる受け答え、無駄な身動ぎ一つせぬ精一さ、……外連味のなさ》
ここには、江戸期の(実はこの作家の)人を見る目が奈辺にあるかを描き出しています。それは、西欧的な視線とは対称的です。西欧的からすると、控え目で言葉少なというのは、愚かの代名詞とアメリカ滞在の長かった人から聞いたことがある。これは単に、人物評価の力点の置き方が違うというのではなく、ひとの「かんけい」に於ける(社会全体の)目の付け所の違いを表しているのです。口にする言葉の軽さは、「(学校へやったというのに)口先ばっかし達者になりやがって」とか「屁理屈はいいから手を動かしな」という職人の親方の台詞のように、「ことば」に対する立ち居振る舞いの乖離を見て取る「人間への見立て方」があるのだと思います。
それに対して求職側の「火照る不忍」ではあれやこれや弄することのできる策を思案する言葉が取り交わされる。後にこれらの「策」はことごとく愚策であると、当の姫によって退けられています。この作家がこの「かんけい」における「ハーモニー」を、不協和音として聞かせようとしているからですね。
この「重和」のオチは、「四十四 えっまさか急転直下好結果」の節で証されます。親元では手に負えない我が儘な娘の振る舞いを直して貰おうと、旗本姫の元に従妹が腰元修行に来るのですが、その従妹に対して郁之亮の知恵をもとに姫が採った所作が、あっという間に我が儘を(従妹自らが)直し、おゆきの就職先に席が空くという展開をみせます。江戸の(実はこの作家の)人と人との関係における身と心の「関係的作用」がどう働くのかを示唆し醍醐味と読みました。
それと同時に、旗本の姫と家老と対話を「火照る不忍」の男女の肌合わせと同時展開するという、この作家の心身一如における「快楽」のとらえ様は、キリスト教的な禁欲主義とすっかり様変わりした、現代の日本社会が今まさにさしかかっている人間の変わり様を俎上にあげていると思えました。いや、江戸期にもまだ、混浴とか浮世絵の枕絵とか、この「小説」のこの場面にふさわしい性の開放的気分が町人層にはあありましたね。そのモンダイにも踏み込む入口になるかと思ったりしたのです。まさしく、世界遺産カジュラホの寺院群の彫刻に迫る作品になっていると感嘆を交えて思ったのでありました。
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