去年の2/21のこのブログ記事《やわらかい向き合い方が「かんけい」を蕩けさせる》は、昨日の「当事者研究」を、ピアニスト西川悟平が実践している。NYで修行中の西川悟平のアパートに二人組の強盗が入る。刃物を突きつけ部屋を物色している時に、西川は彼らに話しかける。そのうち「何でも持っていっていいよ」といい、強盗の一人が誕生日だと知ると、ハッピ^・バースデイ・ツユーとピアノを弾いて祝う。そうして朝が明けるまで過ごして彼らは引き上げていったという(西川の)「鉄板ネタ」。
これこれ、一年前のこの記事にある、ピアニスト・西川悟平のふるまいこそ、まさしく「当事者研究」だ。こうした振る舞いが「かんけい」に染みこんで、人と人、社会の気風がつくられていく。一期一会でもある。つまりそうした気風を伝え遺そうという意図があるかないかに拘わらず、今「わたし」の立ち居振る舞いは、一匹の蝶の羽ばたきのように「世界」を震わせる。
いうまでもないが、いいことばかりではない。「当事者」にとって抜き差しならない事情がそうさせる振る舞いも蝶の羽ばたきであって、世の中に震えをもたらして、それなりの気風を伝え遺す。良き気風を遺すとか悪しき気風を排除するという風に考えると、たぶん、道を踏み外す。いろんな感性と考えをもった多数の人々がさまざまに震えを受け止め、思い思いに自らのメトロノームを刻むから、思いもよらない震えを生み出してしまう。
だから熊谷晋一郎は「当事者研究」といったのだと、改めて思う。つまり、表出した振る舞いがなぜ、誰にとって、何を意味しているか。それを社会の場に置いて意識的にとらえ直してみることを、関わる人たちで「研究」する。そこから、どの道筋を辿れば、社会にとって最良の道が拓けるかを考えながら進もうと言っているようである。
ここからもうひとつ「論題」が浮かび上がる。一期一会ということは、そこで起きているコトは一回性ということ。簡単に一般化したり普遍化したりしては、最初の蝶の羽ばたきの意味をそぎ落としてしまうかも知れない。つまり、最初の蝶の羽ばたきを受け止める別の蝶は、自らの身を通して応答しなければならない。それが、ありきたりの慣用語を用いてありきたりの応答であった場合には、最初の蝶の羽ばたきを「責任」を以て受け止めているとはいえないと、今度は国分功一郎がいうのである。
多様な多数の人が一つの(国民国家に囲われた)社会に出逢って、気儘に羽ばたき合っている。その一つひとつを「当事者研究」としてとらえようとすると、如何に情報化社会とは言え、「わたし」にはとてもとらえきれない。その「とらえきれない」ことを、情報化が今ほど進んでいなかった世の中では、「沈黙」と「推察」と「配慮」として気風として身に刻み遺し、伝えてきている。
おしゃべりな「わたし」が、今更こんなことを言うと嗤われるが、わが身に刻まれた感性や感覚、思考やその方向きをしめす「ことば」を、あらためて吟味していくしかないようだ。
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