何時であったか、写真雑誌に載った「ロシアの屍体工場」をみて驚いたことがある。広い部屋の隅に人の屍体が積み重ねてあった。それをどうするのか、記事にはあったと思うが、切り取って売るだったかなとボンヤリ覚えているだけで、写真そのものの衝撃に忘れてしまった。そのときの衝撃的な実感は、人も死ねば物扱い、ああ、日本の私たちとは違うというものだ。
今ごろその違いを考えている。
ロシア正教がカトリックやプロテスタントと同じなのかどうかは知らないが、人の実在を魂と肉体という二元的対比でみていて、死ねば魂が去り、屍体はモノそのものになると考えている。実は日本語の「ミ」も、『日葡辞書』によると「死体。時として生きた身体の意味にも用いられる」とあるから、屍体そのものと同じとみえる。
だが「ミ(身)」の古形「ム」は「むくろ(軀)」として「カミ(神)」や「カム」があると大野晋は記す。「カムイ」というとアイヌ語でいう神の意であるから、屍体というよりも霊魂を宿した人の軀(むくろ)というニュアンスがこもり、ロシアでいうモノとしての単なる屍体ではない。大野晋は後にこう続ける。
《……ミは前世からの運命、あるいは生まれてからそのときまでの状況をかかえて存在する人そのものをいう。その人がその人として生きている生命、境遇、社会的立場なども含めた個体としての人間全体である》(古典基礎語辞典)
そうだ、ここだ。
日本語の「身」には、生きていようと死んでいようと魂魄は離れず付き添っているという人の実存が込められている。前世とか来世とかを考えると、「ひと」の実存は現世の生き死にだけでなく引き継がれていくと考えていたのかも知れない。この痕跡が私の身の裡に残っているから、ロシアの屍体工場をみて、イヤだなあ、チガウなあと強い違和感を覚えるのだと思う。
そういう「身」が「せかい」を受け止める感官を、般若心経は「眼耳鼻舌心意」と表現した。「目耳鼻舌」は概ね生理的な機能として指摘される感官であるが、「心」は五感の触覚にあたる。
近年の生物研究では、その五感にも(生き物が)感知活用する優先順位があって、「触覚>聴覚>視覚>嗅覚>味覚」の順になっているそうだ。優位の感官が働いている間は下位の感官の活用感度は希薄になるという優劣の順位。そして触覚がもっとも原始的なものだと理研のサイトは記している(http://www.riken.jp/pr/press/2018/20181128_1/)。
だが理研がいうよりも意味するところを拡げて般若心経の「心」は触覚をとらえている。諸種の痛覚ばかりでない。触れるにも、触(さわ)る、撫でる、嘗める、叩く、圧す、解(ほぐ)すなど、生理的な触覚は「かんけい」を表す如くに多様であり、微細に渡る。それは、人や物や出来事、つまり「せかい」との「かんけい」を湛えて豊かなのだが、それは実は、「わたし」の実存を理知的に受け止めたり諒解したりする「意」よりももっと根柢的に「身」の裡に底流している。「心」は、そうした「かんけい」感知のセンサーであり、もちろん危険を察知し回避する、逆に拠り所の確かさを感知もする。これを日本的・アジア的と言っていいかどうかはわからないが、人の五感のもっとも原始的な形態に、「心」が組み込まれている自然観は、近代になって組み立てられたデカルト的身体観の自然観と際立つ違いを見せる。
「身」そのものを心身一如の実存とみることによって、「概念」を通した、必ずしも理知的な言語野「意」を経由しないで、「せかい」を受け止め、「せかい」と遣り取りする実存をかたちづくってきた。たとえば、オノマトペ、擬音語や擬態語。英語には3000語あるといわれるが、日本語には12000語と、格段に多い。それは「わたし」の実存がより自然存在に近いことを示している。あるいは、虫の音を愛ずるという日本の文化的な特徴など、自然存在としてのヒトの実存において、より原始的な形を遺し受け継いできているともいえる。
それをナイーブといって卑下したり誹しったりする必要はない。もちろん逆に、だから日本の方が優れていると誇ることでもない。そういう自然観の違いが、「身」にしっかりと備わり受け継がれていることを、確認しておきたい。
その特徴が、現代社会に現れてくると、戦略的思考に後れを取ったり、周りの様子を見て状況適応的であったり、国際関係において明確な軸を持った立ち回りをしない、弱点と評されることにもなっている。だがそれは、どの視点から、何を見ているかによるのであって、単純に弱さとみて放棄するのがいいとは限らない。むしろ、「身」に染みこんだクセとして、意識的に取り扱えるように、わが身を振り返って対象化してみるのがいいのではないか。
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