昨日(2/17)の朝日新聞、鷲田清一の「折々のことば」に5歳の女児の言葉が採用されている。
《なんで、頭の中で「こう言おう」と思わなくても人はしゃべれるの?》
この言葉を拾ったのは古田哲也『いつもの言葉を哲学する』から。鷲田はこうコメントする。
《「好きな食べ物は?」と聞かれて、「唐揚げです」と思わなくてもそう言えるのはなぜか、ということらしい。女児が発する問いは事の理にかないすぎていて、逆に哲学研究者である父を驚かせる。思いがあるから言葉になるのか、逆に言葉が思いを紡いでゆくのか。いや、少し大きくなれば心にもないことを口にできる。なぜか。》
ここで鷲田は、頭と心をほぼ一緒とみなしている。だが般若心経のように「心」と「意」をわけていれば、「心」は触覚を含む「(自分と世界との)関係感知のセンサー」で、「意」は意思/意志という「意識的」に思うこと、つまり頭と区別される。頭で考えより先に触覚、つまり「心」が反応する。何かに触れて「熱い!」と手を引っ込めるのは、頭で「アツイ」と認知するより先だと脳科学においても実証されている。
臨床哲学者である鷲田清一のこと、彼がこの脳科学の研究を知らないはずがない。「頭と心をほぼ一緒と見なす」鷲田の見立ては、市井の庶民の見方に寄り沿っている。と同時に、5歳女児の疑問を「少し大きくなれば」忘れてしまう人のツネも、記されている。これは、「頭で考える」という社会的常識が染みこんで、市井の庶民の共通観念として君臨していることを示している。
ここから鷲田がさらに次の一歩をどう進めているのか、あるいはこの「ことば」の採取者である父・哲学者・古田哲也がどうそれを敷衍させているのか興味湧く。『いつもの言葉を哲学する』を読んでみなくちゃならない。
そう思って図書館に予約をすると、2021年12月に朝日新聞出版から刊行されている。予約順番が22位、大体一年ほど待たなくてはならない。
アタマで考えるのではなく触覚=「心」で感じて、コトを思う。そうか、そう考えると、音楽も空気の振動として触覚「心」に直に響く。というと、音も耳で聞く響きというよりも、身全体で感知する「振動」である。歌も、歌詞という言葉の持つ意味よりも音として身に響き伝わる。
生物学でいうセンサー感度の優劣順位、「触覚>聴覚>視覚>嗅覚>味覚」は、単純に区分された感官の大小を示しているのではない。感官は、たとえば視覚は目を通して感知するだけのものではない。「目に痛い」とか「目にしみる」とか「目でものを喰う」といわれるように、五感の一つの感官がそれぞれに領域を囲っているわけではなく、相互に連携し合っている。それぞれの感覚野を通して「身」に入り込んだ「刺激」は、すべての感官に伝わり、それを総集するのが「心」。そのようにして状況を感知している。これは、誰がいつどこでそれを感じているかという「主体」を抜きにしては成り立たない。「心」が「わたし」と「せかい」との関係を察知するセンサーというわけである。
鈴木正興の小説『郁之亮江戸遊学始末録』のいう「音学」が指し示しているのは、言語野といわれる感官の優越性を、頭脳、すなわち理性優先の論理と狭く限定する近代西欧の認識構造に対して、「身」全体が感じ取る感官の「生きている形」を押し出している。養老孟司の指摘するように、西欧的な理性による認識論は、身体をあたかも屍体と見なすかのようにして、精神と切り離してしまっている。だがヒトは動物である。頭脳が働くより先に五感と第六感を組み込んだ「身」が、総合的に周囲の状況を感知して捉え、それに対する身の処し方を総合的に執り行ってきた。それを忘れるなよという視線を、アジア的というか日本的というか、私たちの自然観は(未だ)もっている。
それが目下、西欧においても先端の哲学において見直されはじめてきた。私たち市井の庶民が、いつ知らず身に刻んで受け継いできた感官の用い方にじつは、未来にというか、過去の人類史的失態を補正してゆくヒントが含まれているような気がして、私は嬉しい。
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