2022年2月21日月曜日

当事者運動

 昨日の話に続ける。国分功一郎・熊谷晋一郎『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究』(新曜社、2020年)の序章は、副題にあるこの二人の著者の研究テーマがどう結びつくのかを、紹介しつつ概観している。それがまた、日頃私の考えてきたことと響き合って、いちいち刺激的である。

 本書の副題にある「当事者研究」というのは、熊谷晋一郎の研究テーマ。この方は小児科医。今年の誕生日で45歳になる若い方。「新生児仮死の後遺症で脳性麻痺に、以後車椅子生活となる」と著者紹介に記す。

「当事者研究」とは何かを語る熊谷の話は、このブログに日録的に記す、混沌のままの私の思いを見事に整理して提示して見せてくれるようである。なるほど「研究」というのはこうしてすすめるものかと、わくわくしながら読み進めている。

 まず、私も思い当たる時代の変化。「1980年代に医学モデルから社会モデルへと、コトをみる視線が変わった」という指摘。脳性麻痺の熊谷自身がそれによって救われたと記す。どういうことか。

 熊谷の障碍が医学モデルでは、熊谷自身の身の裡の異変であり、それを「スタンダード/健常者」に近づけることが治療と考える。それに対して社会モデルでは、脳性麻痺が社会的な事象として考察されるようになり、どう社会が受け容れているかとモンダイにする。医学モデルでいえば、脳性麻痺は熊谷自身のせいで起きているコトだから、彼を治療することから始まる。彼が社会に適応できなければ、それはそれで彼が引き受けなければならない問題という見方だ。それに対して、脳性麻痺の人が社会的活動をするのに何が不都合なのかを、社会の側の組み立て方として考えていくと、障害を持った人が自らの責任として引き受けることは極めて限られてきて、心持ちが楽になった。その変化が1980年代に起きた、と。

 これを「当事者主権」とはいわず「当事者研究」と呼ぶのは、「当事者主権」と名付けると「当事者」の正義が発生して、当事者と社会との「関係」が固定されるとみる。その動態的スタンスが好ましい。こうも言えようか。「**主権」というと、**の社会的な正当性が打ち立てられることになり、出来事に際しては、誰のどこに責任があるかを追求することに向かう。だが「**研究」と名付けると、**のモンダイに着目して、それが何であるか、どう対処することが社会的に好都合であるかを一緒に探求していく舞台に立つ。**な人と**でない人とが、社会の問題として話しの次元を共有する舞台が出来上がる。

 熊谷は、脳性麻痺は外形的に「障碍が目に見える」から、まだ「社会モデル」として考えるのが容易に受け容れられる。だが、傍目には通常と違って「見えない障碍」を持った人は、社会の側も特別の対応をしようとしない。そうしたことにどう対処していったらいいか、それが「当事者研究」というわけである。「見えない障碍」を「見える化する」ことも、プライバシーを含めてどうやったらいいか考えることになる。たしかにそうだ。私も学校現場にいたとき、ピアスや濃い化粧が校則違反だと指摘された生徒に対することがあった。「化粧をしないでは家を出られない子」と親の訴えを聞いた。そこで、「特例扱いをする」ことにして、そう伝えた。すると親も子もそれはイヤだという。「その子」を特例扱いするのでないとすると、「校則」を変えるしかない。あるいは彼女の「校則違反」を黙認するしかない。他の生徒達には「校則を守れ」とやっているわけだから、ただ黙ってやり過ごせるかと、教師たちは考えた。(もし誰か生徒から)問われたら説明しようということにしたが、それもいやだと言って、結局その生徒は学校を辞めていった。これも、当事者研究というスタンスで取り組んでいれば、「校則」に関する教師と生徒との話を交わすステージがつくられたと、今なら言える。

 1980年代に「医学モデル」から「社会モデル」に変わってきたという時代相の変化には、私にも心当たりがある。私はもっぱら学校の教師として生徒の変化に現れる時代の変わり様を考えていた。いつかも記したが、三一新書の『非行・暴力・登校拒否』(三一書房、1980年刊)は、その変わり様の走りを記している。豊かな社会になって「子どもがヘンだ」と感じていたのだが、世の中はそれを社会事象としてとらえるよりも、ヘンな子どもに誰がしたとばかり「責任追及」に乗り出していた。

 生徒の変化を道徳的に批判する親や教師が多数おり、他方で、マス・メディアは、親や学校教育の所為だと非難を強めていた。多くの知識人は、旧来の集団主義が、子どもたちを追い詰めていると、ある種ワンパターンの犯人追及をしていた。当時もっとも非難されたのは、学校の教師。だが学校というのは、時代文化の最後尾を引き受けて文化の伝承をしている場だ。時代の最先端をゆく親や知識人やメディアが、高度消費社会の風潮に乗って浮き上がらんばかりの子どもたちの「正義」を主張するのであれば、社会そのものが学校の組み立て方に自在な方法を採用することを容認しなければならない。ところが、学校の教師たちには、学習指導要領や教科書を始め、文科省が定めた手順で教えることを強要する方向へ舵を切った。国旗国歌法がそうだし、口パクでも歌っているかどうかをチェックするという漫画的な上意下達の管理主義もそうだ。

 そういうズレを、現場のモンダイは現場の教師にと主張することを容認しないで、生徒の変容という起きている事象の「責任」を問う。教師が管理主義的だ、教師がだらしない、教師の能力が落ちたから十年ごとに免許の更新制にしなくてはならないなどと。社会と文科省からの挟撃に遭ってきたのが、学校の教師たちであった。当事者研究を、ぜひともやらせてほしかったし、やって貰いたかったと、いま振り返って思う。

 文科省も学者知識人も基本的に、現場の教師を信用してなかった。彼ら教師は指図に従って為すべき事を為せばいいと尻を叩くことしか眼中になかった。その結果、学校の教師たちは、いわれたことはやるいわれなければやらないという癖を身につけたように、思う。責任回避の方法が上手くなり、生徒たちと衝突を避けるやわらかい人間関係の築き方が達者になった。

 いやはや話しが、脱線してしまった。でも起きている事象を、「中動態」的にとらえることが、実は事態の根源に触れるアプローチとなる。「責任追及」をすると、誰が悪い、犯人は誰それだと決まった時点で、モンダイの探求は終わりになる。まさしく当事者として、問題になっている事態にどう向き合うのかを、社会的に場を設定して探求するには、「当事者研究」という手法を採るのが一番だ。そう、仕事として続けてきた私の、アナルコ・サンディカリズムと評された「活動」を振り返っている。

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