半世紀以上付き合いのあったYさんが亡くなったとご家族から知らせがあった。1月27日に逝去、31日に葬儀を家族葬として執り行ったと簡略に記してあった。私より7歳年上の方。Yさんとの時代を振り返り、お悔やみの言葉を送る。それをやっと書き上げた。
Y.H.さま
Y.M.さま
Y.T.さまのご逝去、お悔やみ申し上げます。たしか昭和10年生まれでしたから、86歳(行年87歳)だったでしょうか。
思えばYさんとのお付き合いが始まったのは1967年の半ば頃、頻繁にお逢いして言葉を交わし、一緒にパンフレットを発行していたのは1972年の第一四半期の頃まででした。
1971年から72年にかけて医学書院発行の月刊誌『看護学雑誌』に、Yさんを含め私の友人たちが1年間「本」欄を担当して、毎月2本ずつ原稿を送りました。そのうちのYさんが書いた「本」の批評を読みながら、意気盛んだった彼の気概と魂の在処を思い起こしています。
堀田善衛『橋上幻像』―人間存在の不可解な露呈(1971年4月号)
永山則夫『無知の涙』―凄まじい自己形成(1971年7月号)
井上光晴『辺境』―現実の荒廃を突きつける(1971年9月号)
林光『音楽の本』―「音楽の国」があるだけ(1971年10月号)
伊達得夫『詩人たち――ユリイカ抄』―詩と詩人を結ぶエセー(1971年11月号)
清岡卓行『海の瞳』―瞳はどんな廃墟をみたか(1972年1月号)エドゥアール・デュジャルダン『もう森へなんか行かない』――すべてを「ここ」と「いま」に(1972年2月号)
振り返ってみると、取り上げた「本」や作家と付けた見出しを見て頂くだけで、当時、Yさんとともに過ごした私たちの思いの移ろっていた魂の在処が浮かんできます。私たちというのは、YさんやSさん、故Iさん他のK高校定時制の教職員たち。埼玉県北部の定時制教職員として往き来をしていたわけです。
極端な差別と貧窮と抑圧、その虐げられた人々の苦しみが目にとまらぬかのように高度経済成長を遂げていく日本の社会への憤りが、Yさんと私の共有していたものでした。
1972年に私は南部の定時制高校に転勤しましたが、東京に近いこの学校は、新潟や福島、山形からやってきた中学を卒業したばかりの「金の卵」で溢れかえっていました。貧しいだけでなく、兄や姉を高校へ行かせてやれなかったという理由で地元の高校に行けない人たちが、都会で就職して、せめて夜間高校に行こうと集団就職の列車に乗ってやってきていたのです。私が行った当時の定時制高校には、4年間働いてお金を貯め大学を受験するという生徒が4割ほどいました。そういう生徒たちと日々接していましたから、不遇な彼らへの同情と彼らを弊履の如く扱っている社会に異議申し立てをしていたわけです。
Yさんの文学的視線がとても印象に残っています。文学的視線というのは、物事を容易に一般化したり普遍化したりしない気構えです。「すべてを「ここ」と「いま」に」と上記書評タイトルにもあるように、一つひとつの具体的なヒトとコトのありように目を留めて、その「ここ」と「いま」に向き合おうという(ヒトとコトに向き合う)態度です。
経済学を学んだ私は、個々の具体的な出来事を一般化し、経世済民という世の中全般のこととして考えていくことを、正しいと思っていました。でもそうすると、個々のヒトやコトがもっている具体的な些末な事情が、どんどんそぎ落とされてしまいます。些末な事情は、その人が親世代や社会から受け継いできた事々です。それは人が生きる原動力であり、また背負っている重荷です。それまで私は、些末な事情を捨象して向き合うことが(より多数の人に対して)正義だと考えていたと言えます。それは正義でもなんでもなくて、「いま」「ここ」に生きているヒトと起きているコトから目をそらすことに他ならないとYさんから教わったのでした。
Yさんは1972年以降もK高定時制にいました。私もその後16年間定時制高校にいて、昼間に転勤しましたが、北部時代の心持ちはずうっと持ち続けていました。Yさんはその後、松本鶴雄さんの主宰する文芸雑誌『修羅』の編輯に関わり、詩作を軸とする文学の道をもっぱらにしていましたから、「修羅」を通して音信は欠かさなかったのですが、日常的にはすっかりご無沙汰をして過ごしてきました。
こうしてYさんとの日々を思いやっていますと、未だ行田の町にいて「ふ、ふ、ふ、そりゃあないでしょう、***さん」と、やわらかく、だがちょっと皮肉を交えて重い響きで窘めるような口調が甦ってきます。
Yさんのご冥福を祈ります。合掌。
ご家族の皆さまも、お力落としなさいませぬよう、元気にお過ごし下さい。
2022年2月16日 ****拝
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