2022年2月9日水曜日

クソみたいな人生とgermとしての人類史の資料

 一昨日の「研究ってなんだろう?」に続ける。

 荒木優太が「テクストにしたものがテクストだけで判断されるときがきっとくる」、それを「いいものを書いたなあ」と自賛する一方で、「クソみたいな人生にちょっとくらいあってもいいじゃないか」と韜晦気味に述べているのは、何を表しているか。

 彼の「専門は有島武郎」だそうだから、人の生き様に引っかからないわけはない。にもかかわらず、属人的な要素(癇癪持ちとか、意固地とか、偏屈とか、人間嫌い)には関心はないといいきる。荒木優太の評論を読んだことがないので、門前の小僧としての感想を述べるが、これは「純文学作家」の評論をする人たちの論展開の次元を非難しているのではないか。つまり、作家の属人的な要素(癇癪持ちとか、意固地とか、偏屈とか、人間嫌い)を喋喋して作品の意味を述べ、評価をしたつもりになっている文芸評論をこけにしていると考えられる。とすると、荒木が考える文芸評論というのは、その作品がどれほど人間存在の本質に迫り、人間の生きた時代を照射して表しているかで評価されるべきだ。それこそが荒木の関心事ということになる。テクストにしたものがテクストだけで判断される次元として探求することを、「研究」の価値として取り出していると見える。

 だが私は、文字として表現されていないことが人の生きた形跡として遺され、受け継がれ、今に至っていると考えている。テクストとして遺されているものが「研究対象」としての確かさを持って眼前に残ることは間違いないが、身に刻むように残り受け継がれてきたことが、テクストの前に、まず、わが身に堆積している。そのわが人生を振り返ると、癇癪持ちとか、意固地とか、偏屈とか、人間嫌いという性格というか、心理的なところでの「属人的な要素」とばかりは言えないが、人間に固有のクセとか傾きが(例えば言葉として)血脈を超え、時代を超えて、継承されていることを感じている。それは何故かと考えていくと、(癇癪持ちとか、意固地とか、偏屈とか、人間嫌い)ということも含めて、それがなぜ、その時代のその人にクセのように張り付いたのかも、考察探求の素材になる。それを荒木優太は、「クソみたいな」とけなしているのだろうか。

 彼の書いた「貧しい出版私史」を読むと、アルバイトをし、ときどき文筆で収入を得て実家暮らしをしているようだ。そうしてこんなことを書いている。

《ちなみに、家族の悪感情を手当てするには生活費を定期的に手渡すとよい。一気にではなく定期で、あと、少しずつ増額していくのがミソだ。意外と社会人やってるんだぞ、という暗黙のメッセージである》

 若いなあと、私は笑う。荒木優太は、ひょっとすると「暮らし」というか、「身過ぎ世過ぎ」を「クソみたい」と思っているんじゃないか。そうして、「クソみたいな」日常に埋没してしまう自分を感じ取って、苛立っている。ニーチェもそうだったようだが、そんなつまんないことを繰り返してどうすんだよと問われたら、そう応えるに違いない。それとの対比で、「テクスト」がおかれて、輝いて見えているように思っている。だがそうか。

 文化の創出と継承は文字や画像や音声録音という以前の、人の身体を通してつくられ、受け継がれ、それによって身体自体を変容させ、文化として現在に至っている。「研究」というのは、後付けであれ、それがどのようにつくられ受け継がれてきたかを明らかにし、あるいは、外部の自然をどう身の裡に組み込んで、自然それ自体をも変化させてきたかを外部的な自然に人間活動を位置づける恰好で、極めていくことではないか。とすると、ありとあらゆることが(つまり「わかっていない」という発見も含めて)、考察の次元を設定することによって「研究」の対象なる。

 若いなあというのは、「身過ぎ世過ぎ」を「クソみたい」と思っていたことが私の若い頃にあったからだ。だが歳を重ね、いろんな生き方をみてくるうちに、テクストや絵図や音として受け継がれているもののうち、身体に刻まれるように継承されている文化こそが、源になっているという確信であった。逆に自分に何が欠けているかって考えてみると、みに受け継がれている暮らしの文化に頓着していないという「発見」であった。

 その地平から世の中やエクリチュールや人の有り様を眺めてみると、欧米文化を追いかける形で起ち上げられた「研究」の多くが、理知主義的な傾きを意識せず(それどころか純化するような形で)もちきたり、論議の次元を狭隘にしていると感じることが多くなった。と同時に、自然との位置関係をどう捉えるかと考えてみると、人の営みは、塵埃よりもさらに小さいgerm(黴菌)のようなものだと感じている。

 だから意味がないとかあるとかいうのではない。意味のあるなしは、その論じる次元によって論じる人が付け加えること。生きている私たちは、「研究」的立場からすると、第一次資料として存在している。それが「暮らし」であり、「継承している人類史的文化」の現在形、恰度私が言う「germ」なのだ。

 何かに関心を持ち、「研究」的な立場を抱懐することは、「クソみたいな人生」を対象化してみることだ。私にとっての第一歩が、「わが身に継承されている人類史的文化」という見立て。何故このように感じるのか、何時何を根拠にそう考えるようになったのか。そうした日常の一つひとつを、わが身を通り過ぎる世のあれやこれやを対象にして吟味しつつ探求する、それがわが身に刻んだ人類史のクセだ。そう、ひとまず記しおいて、いずれ機会があれば、それを対象にまとめ上げてみようと思わないでもない。寿命と体力と根気が何処まで続くかではあるが。

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