2022年2月24日木曜日

なぜ「奇蹟」が平凡に響くのか?

 図書館の書架に見掛けて、秋月達郎『奇蹟の村の奇蹟の響き』(PHP、2006年)を手に取った。タイトルの「奇蹟」って何だろうと思ったから。ストーリーは読み始めてすぐに見当がついた。ぽつりぽつりと、他の本の合間に読み進め、いま読み終わった。

 徳島県に収容された第一次大戦の山東半島青島の戦いで敗北したドイツ人俘虜。全国の何カ所かに分けられ、その一部、約一千名ほどが徳島の一番札所霊山寺に近い板東に収容された。日露戦争の時もそうだったと聞いたが、この頃の日本の俘虜に対する処遇は、とても丁寧だったらしい。そう言えば、ヴェルサイユ条約締結の折の「同盟および連合国」の会議に於いて日本は「人種差別撤廃」を盛り込むよう提議し、米英の反対に遭って取り上げられなかった。つまり、それほどに日本の外交官・軍人は国際的なセンスにおいて先端的であったとも聞いている。

 その俘虜たちと徳島の町の人々の期せずして起きた交流が、パンを焼く、チーズや乳製品をつくるにはじまり、ドイツ文化の伝承が行われ、音楽を聞くことから楽器を奏でることへと広まり、徳島の人たちがオーケストラをつくり、ベートーベンの第九やメンデルスゾーンの演奏をするまでに至る。おおよそ敵国人と対しているという風情ではなく、不意の外来客と収容所内外における交流の積み重ねが「奇蹟の響き」を湛えて受け継がれることになった顛末を物語る。メンデルスゾーンがいなければベートーベンの名が残ったかどうかもわからないと知るのは、驚きでもあった。

 でもどうしてなのだろう? 既視感がある。この話を人情ものと読んでいる自分に気づく。青島で敵として対峙した憎っくきドイツ人俘虜と偶然相まみえ、徳島の人を介在させてドイツ文化を受けとっていくというお話しは、主人公の俥曳きと地元篤志家のお嬢さんとの(身分的な軛に縛られた)悲恋物語として読めばありきたりの響きしか齎さない。あるいは、俘虜収容所の所長や副官の鷹揚な振る舞いも、いまの「敵基地攻撃能力」を俎上にあげる愛国者たちの言動をみていると「奇蹟」にも思えなくもないが、先の日露戦争の頃の軍人の振る舞いを知っていれば、言挙げするようなことではない。

 だがこの時既に耳が聞こえなかったベートーベンが自ら指揮して万雷の拍手を得てからほぼ百年徳島の田舎の村で、ドイツ人による第九の演奏が合唱付きで響き渡ったとなると、えっどうして? と奇蹟感が湧き起こる。さらにそれが、徳島の人たちに感動を呼び起こし、オーケストラが結成され、演奏してみせる。

 彼らに合奏を教えたドイツ人は、「……なんという稚拙な演奏だろう……」とつぶやき、さらにこう続けた。「だが……何というすばらしい演奏だろう……」。

《音と音の切れは悪い。調子は外れる。指揮には従わない。音程もずれる。ドイツならば、子どもでもこれほど下手には弾かないだろう。だが、彼らは、ベートーベンのこころに迫ろうとしている。第九の神髄に触れようとしている。合唱はないながらも、シラーの詩をありありと奏で上げようとしている。これが音楽だ……。》

「これこそが……歓喜の歌だ……」

 と、記している小説を、さらに百年ほど経った時点の私が読んでいる。そう思うと、ありきたりの人情話が、全く違った文化の伝承として響いてくる。ちょうどバルセロナのガウディが手がけて未だ完成していないバシリカ(聖家族教会)のように、ベートーベンという作曲家が二百年前の指揮したこの曲が、百年前に徳島にいたドイツ人俘虜たちによって演奏され、それが徳島にほとたちに受け継がれ、さらにそれを百年経っていま、ドキュメンタリーのように読んでいる。あの教会のように、ガウディの手法が受け継がれ、受け継いだものが自らのタッチを加えながら補修をし、さらに建築する。それを見ている傍観者の私も、そこに込められた「祈り」を感じて、しばらく立ち竦む。

 この文化の継承の偶然性が齎す「奇蹟」こそが、この小説のタイトルとなっている。そう思うと、平凡な人情話が、全く違った響きを湛える。

 と同時に、私の裡側に広がる波紋は、身を通すという当事者性の感触。俥曳きの、端から適わぬと世の習いから定められたような恋心が、これまた文化の香りを湛えて行間に漂う。人の出合い自体が偶然のことであり、それが齎す出来事もまた、ひょんなことからはじまり、思わぬ結果をもたらして、人の目に触れる。その痕跡を、ひとりの作家が目に留めて、調査に乗り出し、炙り出された記録の行間に見え隠れする人々の姿に思いを馳せ、まるで夢を見ているように動き始めて、物語を紡ぐ。この人と人との「かんけい」がもたらす痕跡こそ、「奇蹟」と呼べることなのかも知れない。

 つい先だって(2/20)の本欄で「応答と日常の成立をほとんど奇蹟のようなものとして捉え、それを獲得すべき状態と考える哲学」の系譜に属すると自称する国分功一郎の「日常」を、よくわからないと私が感じていたことが、この小説をこういう風に読み解くと、ピタリと当てはまって、腑に落ちる。それは、「文化の伝承が世代を超えて受け継がれていくのは、奇蹟のようなことだ」と示している。

 その「奇蹟」が平凡に響くのは、苦難辛苦があったにせよ、75年という年月を命を奪われることもなく生き続け、子をなし、また孫を得て、平々凡々と暮らし続けてきた繰り返される奇蹟の連続に身が慣れてしまったからであろうか。その「慣れ」が思考の枠組みにまで及んで、コトを概念化し、それに寄りかかって身を処しているからではないのか。

 もう一歩踏み込んでいえば、日常を身に刻むのに、触覚としての「心」を通さないコトは痕跡を遺さない。つまり、文化的な伝承としては意味を成さない。それどころか、「心」を通さなくても身過ぎ世過ぎができるという文化を、身に刻む結果になる。それって、ゲームの世界じゃない?

 そうか、理知的世界は、もうそこまできてしまっているのか。とすると、知的であることは少しも喜ばしいことではなく、むしろ、身を通す、まさしく「痴的」であることこそが、誇らしく語られるべき「痴性」ではないか。

 おやおや、また脱線して、混沌へ向かおうとしている。ま、これが、たのしいのだが……。

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