2/15のこのブログで「身とは何か?」を考えた。その結論的部分で、
《「身」そのものを心身一如の実存とみることによって、「概念」を通した、必ずしも理知的な言語野=「意」を経由しないで、「せかい」を受け止め、「せかい」と遣り取りする実存をかたちづくってきた。》
と見て取り、心身一如の感覚感受の有り様を肯定的にとらえた。
ところが、それ、ちょっと危ないんじゃない? と疑問を呈した本に出会った。梨木香歩『僕は、そして僕たちはどう生きるか』(理論社、2011年)。
ここで「僕」という主人公は中学生。その同級生や一つ年上の従姉や知り合いの高校生年代の人たち。もちろんおじさんやオーストラリアから来た友人なども登場するが、迷ったりわからなかったりする心裡を明かしながら語り進めるのは、主人公の中学生。
同級生やその従姉や知り合いの高校生年代の人たちは、学校や町や世の中とうまくいかなかったり、違和感を強烈に感じたり、ショッキングなことがあって(知らない人から見ると)引きこもりのように見えたりする。幼なじみで中学同級の男の子二人は、ともに親の事情で独り暮らし。そのうちの一人が学校に馴染めず、婆ちゃんの遺した広い森と植物と屋敷に暮らす。そこを舞台に、世の中に違和感を持つ子どもたちがそれぞれの縁と動機から集まり、ふとしたことから戦時中の徴兵忌避の人の暮らしを知って、世の中と自分との関係を考えるという物語り。登場人物に共通しているところは、みな自然やアウトドアに共感性を持っている。植物図鑑を持ち歩いたり、蟲好きであったり、幼い頃ボーイスカウトやガールスカウトの活動をしていたこともあったり。大人は草木染めをやっていたりとか。
いつか記したが、生きるのは自己責任、だが生きる力は世の人々と共にという世の中を渡る基本を踏まえて話しは転がる。古民家風の、中学生が独り暮らしをする元婆ちゃん家の屋根裏から出てくる古文書に記された薬草や草木の料理法も現れて、暮らしの文化がどう伝承されているかも描き出される。その中に現れた兵役拒否もどき。
それによって、中学生(たち)が(学校や世の中に)感じている違和感を生きる場面でどう主張できるか、自分への問いとなってあれこれと考える。それがタイトルになっている。設えられた舞台が、湿地や小さな洞窟もある自然豊かな森だが、焚き火をするのに消防署に届けておかないと火事と間違えられるかも知れない町中とみえるから、現代社会への厳しい視線を、この作家は提示したいのであろう。
「身とは何か?」で私は、アタマで理知的に考えるよりももう一段原始感覚に近いココロで感知する「身」を肯定的に記したが、この梨木香歩の小説は、さらにもう一歩先へ進めて、そのココロのセンスが持つ危うさを、「(生きる力は)世の人々と共に」というコンセプトのなかに胚胎しているよと警鐘を鳴らしている。「群れは必要だ。だが・・・」と。その危うさを超えていくためには、日々出逢う一つひとつの出来事を、その都度、一つひとつ丁寧に(そうなのか? それでいいのか? いま感じている違和感を違和感のままにその場に差し出さなくていいのか?)、繰り返し問い続けていくしかないと言っているようであった。
もうも言えようか。「心身一如」とお題目のように肯定的に受け止めるのではなく、それすらも疑ってかかる。それは自らを疑ってかかるということであり、つまりは、自分の判断は何を根拠にしているのかを、恒に常に対象化して見つめ考え続けるしかない。わが身が備えている感覚や思索、「心」や「意」をも、お題目化させないためには、自問自答するだけでなく、それを場面を共有する人たちに問いかけ、問いかけることによって自分の「心」「意」をその都度更新していくことが、生きているという営みであり、そうすることによってヒトは生きてきたという証しなのである。
梨木香歩の小説の主人公も、己の卑小さを、幼なじみの子細を見て取るにつれて感じて、自問自答へ旅立っている。生きている証しというのは、わが実存をゴミのようなものと知覚したところから始まる、それくらい宇宙は大きいのだといっているようであった。
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