オミクロン株の感染がピークへ向かって拡大している。その拡大割合が少し緩やかになってきたかなという感触と、専門家による3ヶ月前の予知、「第六波のピークが2月初旬にやってくる」とが符節を合わせて、やっと峠を越すかと安堵の思いも湧いている。
重症化しないといわれているオミクロン株の感染症状も、素人が遣う「軽症」というのとニュアンスが違うらしい。発熱も喉の痛みも、その継続期間も所謂風邪やインフルエンザとは違ってきついという。また高齢者の重症化や死者は、オミクロン株になっても決して侮れないというし、週刊文春の中刷り広告によるとインフルエンザの8倍もあるそうだ。「蔓延防止措置」とか「緊急事態宣言」という政府の掛け声は、何にどう対処しようとしているのかわからないから、それが出るか出ないかを少しも当てにはしていないが、コロナウィルスの「恐さ」の度合いが測りかねて、困っている。
TVではもう、「エンデミックはいつか」と遣り取りしている。パンデミックの逆、つまり収束をエンデミックというのかと思って辞書を引いた。そうではない。endemic desease は風土病とある。つまりインフルエンザと同じ、普通の感染症というな扱いになることを指しているようだ。
そうかい? もうそんな話題を取り沙汰するほど、この感染拡大は山を越したのか?
WHOの事務局長は、途上国の状況を見て、まだまだ警戒を怠ることはできない、ワクチン接種さえ2割に達していないのだからと声を大きくしている。だが、先進国は、もう我慢ができないとばかりマスクも外し、「社会的距離」もあったものかは。ほぼコロナ前の状態に復していると、オランダやイギリスの様子が画面に映されている。感染症の流行も、ある程度の犠牲者が出るのは仕方ないよねと見切ったような気配。見切られているのは、私たち高齢者というわけ。
TVの専門家もまだどちらがどちらと決められないようで、両説が混在して交わされている。自己判断で自助ですよと言われている市井の庶民が、どうしたらいいか困惑しているという図である。
まだしばらく世の形勢を見計らい、どう振る舞うか思案しなければならない。まるで戦場になりそうな幕末の京都や江戸の民の困惑と同じなのかも知れない。コロナウィルスの襲来に、あれこれと利害の絡まる力のある人たちがいろんな言説を振りまいて、さまざまな対処をする。その火の粉がこちらに及ぶか及ばぬか、力のある人たちはこちとらのことは、たぶん眼中にないから、勝手に自分で見極めなければならない。
ちょっと一歩ステップアウトして眺めると、クールに自体が見えるかも知れない。
こんなスリリングな気分を世の中全体が共有しながら体験していくって、第二次世界大戦以来じゃないか。世代間の受け止め方の差異も、戦争体験と同じ。ただひとつ、敗戦の時まだ幼かった私が、いまは後期高齢者という世の中の慮外の人になっている。ともに「弱者」という括りにすれば一緒かも知れないが、スリリングを意識的に味わえるという意味では、今の方が分がある。そう思って、何処に感染の境界線があるか、リミットの壁の上を歩いている。
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