荒木優太編著『在野研究ビギナーズ――勝手に始める研究生活』(明石書店、2019年)を手に取った。いや、面白い。研究ということのいろんな側面が浮かび上がる。15人の在野研究者による14章の、自己紹介的な記述。何故、在野なのか、何をしているのか、どう取り組んでいるのか、何が暮らしの現実を支えているのかなどなど、たぶん気儘に書いて貰ったところが、「研究」ということに関する「在野」ならぬ「在朝」の、つまり職業として研究活動を続けている側も、あぶり出されてくる。加えて、3人の、国会図書館員、教育を論じてきた専門職の研究者、フリーランスの翻訳家へのインタビューを挟んで、「在野研究者」と呼ぶかどうかは別として、まさしく自分のもっぱらの関心を探求していきたいという人たちに、お役立ちの(狭い分野の)術も添付されている。
自己の関心事を探求していくことを「研究」と呼ぶと、このブログのように「よしなしごとをとりとめもなく綴る」ことも「研究」なのかと笑いたくなる。あっ、そんなことはない。これは、断片。日常の平面に散らかっている。探求なんかしてないぜ。単なる随想、エッセイ。
これを研究的観点からみるならば、市井の老人の日常性を表現した「第一次資料」というわけだ。研究者の中には、老人の聞き取りをしたり、被災者の話を収集したり、関係者の陳述を書き取ったりする活動も含まれる。それはそれで、「証言」として意味を持つから、このブログなどは市井の年寄りが生きた形跡の断片、自分で記述する「第一次資料」だ。そういう生きた形跡としての第一次資料は、市井の人の数ほどあるといえる。しかし文字として遺されるものは、必ずしも多くない。だが、それだけのものだ。
それがどういう文脈においてどう読み取るかを施してこそ、「研究」と呼べる、第三者による社会的位置づけを得られる。世の人の目に触れるには、それだけの手間と(社会的意味の)価値を付与されなくてはならない。
「論文」は、取り上げているテーマを普遍性を持つ次元にまで高めて論じるという必要があり、その作法がある。記述者の個人的感懐を盛り込んで、それが論旨をゆがめていくことを良しとしない。私の記述する「エッセイ」は寧ろ、体験的な出来事から「論題」を拾い出して、そこにみられる時代的な特徴や移り変わりをどう読み取っているのかを、俎上にあげる。
論理的に記述したときに捨象されてこぼれ落ちるのは、何故それを取り上げるのかという動機である。その筋の研究者が読むときには、その論題がどういう文脈のどういうところに位置して読み取るものか十分にわかっているから、戸惑いなく本文に入って行けるであろう。だが私のような素人は、なぜそういう論の立て方をするのかもわからないから、最初の五十頁ほどは五里霧中の行ったり来たりをする。本は、読み進める早さも勝手であるし、こうした行き来が自在で読み返せるから、ネットの画面よりはいいのだが、それでも我慢ができなくなって遂に投げ出してしまう本も出てくる。
いや、こう言った方がいいか。論文に取り上げられる「論題設定の動機」は、長年多くの研究者によって積み上げられてきた研究の形跡にどうつながるかを記述するのが恒である。論者の個人的な体験は記述の枠外におかれる。それは「論題」が個人的な関心事ではなく、社会的時代的研究世界的な共通の関心事だと提示するものだ。だから「論述の作法」が発生する。だが素人の私には、論者の個人的体験から発せられた言葉の方が、はるかにモチーフが伝わる。またそれがあるから、ことさら市井の老人にこだわり続けているとも言える。
荒木は「研究」というのを、次のように限定する。
《研究的テクストが素晴らしいのは属人性を超えていけるからだ。純文学の小説家はそういった自由をもたない。いつも深遠な思想やエキセントリックな性格やスキャンダラスな私生活を勘ぐられたり、期待されたりする。テキストと人間が固く結ばれているからだ。が、研究者の書くものはそうではない。三好行雄や浦西和彦や亀井秀雄が……どんな人だったったのか。癇癪持ちだったのか、意固地だったのか、偏屈だったのか、人間嫌いだったのか、私は知らない。そして興味もない。彼らが一生懸命書いた(だろう)テクストだけが残っている。それでよい。》
この荒木の記述からいうと、(例えば市井の老人の暮らしという)第一次資料の読み方が思い浮かぶ。つまり語り手の属人的な要素(癇癪持ちとか、意固地とか、偏屈とか、人間嫌い)を捨象して、世相や時代を映しているテクストに読み替えていく文脈が構成されると研究的テクストになる。だが私は、属人的な要素(癇癪持ちとか、意固地とか、偏屈とか、人間嫌い)に目を留め、それがなぜここの文脈に意味を持つかと考えて組み替えてまた、異なった読み取り方が生まれ、新鮮な切り取り方として世相や時代の変遷を取り上げることができるように思うのだ。
じゃあ、それを自分でやればいいではないかと、人はいうかも知れない。確かにそうだね。関心があれば誰でも取り組めるというのが、在野研究ビギナーズの真骨頂だ。でもねえ、自分でやれればいいが、それほどの執着力も、集中心も、何より体力がもはや及ばない。もう二十年若ければねと、思わないでもない。それにもうひとつ、違いがある。
今私がやっているような第一次資料として生きることと、(在野であれ)「テーマ」を定めて研究者として取り組むこととの間には、大きなギャップがある。日々私が記す記事は、germである。germというのは「黴菌」と訳されるが、元々は「萌芽」とか「(植物などの)幼胚/芽」である。出来事の断片ともいえる。それを文章にするということは(たとえ属人的であるとしても)、「わたし」を通過する(私という体を媒体として憑依した)人類史の現在(の痕跡)を、対象としてとらえてみる試みの欠片である。それを「研究」に高めていくためには、暮らしの本体から一歩ステップアウトして眺める視線が欠かせない。
市井の老人というのは、そういう意味では世相からも時代からも取り残されて「埒外の人」、ステップアウトしている。だから、わが身に堆積した痕跡も含めて、対象として眺めるのに(わりと)適切な場所に立っていると思う。にも拘わらず難しいと思うのは、「正義」を切り出すのに「無知のヴェール」を被るどころか、市井の老人は「無知」そのものだからなのだ。ジョン・ロールズは「無知のヴェールを被る」といったが、それは知者が被るものであって、「無知であること」を指してはいない。
在野の研究者が興味深いのは、どうステップアウトした地歩を築いているかである。荒木は本書の「貧しい出版私史」のなかで、「私を他人にする方法」と章を設け、二ヶ月に一回必ず書き下ろしの論考をアップロードすることによって「私」を切り離すという。そうして、その根柢に、「クソみたいな人生、というよりも、人生というクソを押しつけられたこの最悪の災厄の中で、ほんの少しの間幸せを感じたって、そうそう罰は当たらないだろう」という、ちょっと韜晦気味の自己省察をおいて、こう言う。
《テクストにしたものがテクストだけで判断されるときがきっとくる。……よく自分が書いたものを読み直す。読み直してつくづく「いいものを書いたな」と思う。内容を大体忘れているので、はじめて読んだような感動を味わえる。ありがとう、わがボンクラ!》
そうなのだ。この自己を見つめる視線に、私は共感する。この34歳の若者が、すでに老成した視線を獲得する時代なんて、スゴイと思う。
荒木の在野研究ビギナーズの話題を読んでいると、ひとつひとつが興味深いテーマを掠っている。論文の作法、データ検証の厳しさ、肩書きが舞台を決める、テーマが学者ギルドに規制される、ネットワークという新しい手法とアカデミズムの制約、アカデミズムと在野の交通の硬軟、仕事とテーマの乖離、研究の時間と暮らしという人の生活の一般型、関心領域への気儘さ、自在さと自分を振り返る契機など、その周縁だけを経巡ったわが人生であったが、関心の尽きないことだけが、軽く飲んだ釣り針のように引っかかって、面白かった。
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