北京五輪が始まった。私は東京五輪にも関心がなく、北京五輪も、人権問題とか専制政治とか関係なく、スルーしている。羽生弓弦ファンでもあるカミサンは「開会式」をみて、「ずいぶんスッキリしていたよ」と東京との対比をする。
勢い余って「東京の時は、演出者の交代とか、バタバタしてたし」と付け加えたから、「そりゃあ違うだろ。情報公開が自在だから、ああいうスキャンダラスな話しも騒ぎになる。それがない方がいいというのなら、専制政治がいいって言うようなもんだ」と返して、でもそれだけじゃないよなと胸中に余剰が残る。
映像は、ニュースやヴァラエティ番組でみただけだから、印象批評的になるが、東京の場合、いろいろと天こ盛りで、まるで高校の文化祭のようにゴチャゴチャしていた感じだった。だが北京の場合、スッキリとしている。この両者の違いは、爛熟した文化と成熟期に到達した文化の違いなんではなかろうか。別様に言うと、北京の場合、近代化を図るというテーマが北京五輪の演出者に肌で共有されていて、そのスマートさが現れていた。それに対して東京の場合、ポストモダンというか、共有されていたスマートさが野暮となり、その後の文化的な散乱が、あるいは伝統的な古典回帰だったり、あるいはスマートさを崩してアヴァンギャルドな混沌だったりするという不統一の表現となるから、全体的な印象としてはゴチャゴチャして見える。
いうまでもなくみている私たちは近代化を経済の成長期を通じて推進してきた側だから、身に染みこんだ感覚はスマートさを良しとする。つまり北京風の開会式の演出が好ましく思われるのではないか。そもそも東京風の演出を批評するほど俯瞰的な立ち位置を持っているわけじゃない。だからせいぜい、受け止める感触としてスッキリかゴチャゴチャかという印象批評しかできない。当事者には迷惑であろうが、世代的な文化の差異は、それほどに落差が大きい。テンポも違う。リズムも速すぎて、ついて行けないどころではない。耳に馴染まない。ドラマの台詞も早口すぎて、何を言っているかわからないことが多くなった。
そういうことでは、文化も後を追って成長期を通過している中国の気風の方が、私たちの体験したことでもあって馴染みが深い。別に専制政治がいいとか悪いとかではなく、わが身の感じる親密性に遠いか近いかであろうと、私はみている。
ともあれ、コロナウィルスの感染拡大については、ゼロコロナになるかどうかは看板ほどではないけれども、専制体制の方がきっちりと狙い通りに運べる。為政者は、どんな政治体制の下にあっても、ピープルが従順に遵ってコトが専制的に進行する方を好ましいと思うに違いない。民主制というのは、コトの進行にチェック(横槍)が入るから、話しがゴチャゴチャしてしまう。だが西欧発の近代政治体制においてもゴチャゴチャしては困るものがある。
例えば「法治主義」。法の体系や解釈がゴチャゴチャするのは困るから、近代政治の司法は、「専門家」が担当するようにしている。立法は、それこそゴチャゴチャしているピープルの思惑や考え方や感覚を取り込んで、整理して、最終的に決定して法にするわけだから、プロセス自体がゴチャゴチャするのは民主制の必然というわけ。ですが、出来上がった法は、思惑などを超えてクールに固定しておかねば、法を勝手に解釈して行政を行ってしまうことも起こりかねない。そうなると「法」に対するピープルの信頼が失せてしまう。経験主義のイギリスですら、下院の立法の適正かどうかを判断する、ある種、司法的な役割をする上院の法律貴族は、選挙で選ばれるわけではなく、任期も終身となっている。
だから、日本の司法のように(選挙で選ばれたりしていないお前達裁判官が偉そうに違憲判決などと勝手に振る舞うなと非難されて)立法府に頭が上がらなかったり、行政府の思惑を忖度したり、あるいは法務大臣が法解釈を勝手に変えたりするようなことは、それ自体が民主制の軸を揺るがす行為なのだが、「選挙で選ばれた」という錦旗を掲げて、立法や行政が振る舞い始めて、ゴチャゴチャしている日本の民主制は、ゴチャゴチャを取り違えていると言っていいのではなかろうか。
おやおや、ゴチャゴチャとスッキリとが、民主制と専制政治の選択の話になっちゃって混戦してきた。ま、私たちの身が思えている感触まで取り替えることはできない。中国の人たちの身に刻んでいる「近代化の感触」は、1980年代の私たちとそう変わらないのかしら。そんな疑問が、ふと浮かんだ。
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