2022年2月20日日曜日

応答と日常

 刺激的な本は、1行1行立ち止まっていて、手早く読み進められない。いま手に取った国分功一郎・熊谷晋一郎『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究』(新曜社、2020年)がそれだ。わずか7頁の「まえがき――生き延びた先にある日常」に、ふつふつと湧き起こる。用いている言葉には「それはそうだ」と同意しながら、「でも、なんだろうという」疑問。使っている場面が(私の想定と)違うのか、私の用い方がヘンなのか。

 2カ所、そう感じた。ひとつは、「応答と反応」。

《応答とは何だろうか。それは返事をすることだが、返事をするといっても応答において大切なのは、その人が、自分に向けられた行為や自分が向かい合った出来事に、自分なりの仕方で応ずることである。自分なりの仕方でというところが大切であって、決まり切った自動的な返事しかできていないのならば、その返事は応答ではなくて反応になってしまう。》

 これは、「それはそうだ」だ。「自分に向けられた行為や自分が向かい合った出来事」というのを、先日受けとった半世紀ほどの付き合いのあった友人の訃報とみると、それを知らせてくれたご遺族にどう「お悔やみ」を伝えるかが私の「応答」になる。

《ハンナ・アレントは……自分なりの仕方で応答する可能性を人間の「複数性」と呼び、人間の条件の一つに数えた》

 というのは、よくわかる。手際よく「お悔やみ申し上げます」と書いて、お線香を同封して送るのでは、わが心持ちが済まない。そう感じて、1日、その友人が雑誌に載せた書評を読み返し、彼の言葉がわが身の裡にどう残っているかと半世紀の往来に思いを馳せる。

《うまく応答できないままでいることは、人間の複数性にうまく参加できていないことを意味する》

 と国分はいうけれども、そうだろうかと、市井の庶民の「(世の)習い」が思い浮かぶ。ハンナ・アレントは、ユダヤ人虐殺をしたアイヒマンの裁判を手がかりに(ごく平凡な人間の)「反応」がホロコーストを(主体的に)行ったとみているが、では、日頃の積み重ねで身の習いとして作り上げてきた「暮らし」の立ち居振る舞いは「反応」なのだろうか。

 国分は、その「反応」を「責任」へと転轍して、こう言う。

《そのときそこに現れているのは、応答のない、ただの反応に満たされた空間であろう。自分以外の他なるものが自分のために責任を果たしてくれることも、自分が自分以外の他なるものに責任を果たすこともない。》

《「責任」はしばしば重苦しくて、できれば避けたい義務という語感を持っている。しかし、責任が消失した空間を想像してみると、それはなんとつらく苦しいものだろうか》

 ハンナ・アレントの(イメージする)「人間の条件」に引きずられている言葉なのか、暮らしにおける「身の習い」をも包摂している言葉なのか。繰り返される「暮らし」の負担を担う心持ちを軽くするために、習慣化して身の無意識的応答に持ち込む日常にしているのが、「身の習い」ではないか。これは身を以て受け渡しする文化の伝承でもある。

 ここで、もうひとつの疑問が湧いてくる。「日常のとらえ方」。

《日常の捉え方を一つの基準としてさまざまな哲学を二つに分類することができるかもしれない。……ハイデッガーの哲学は日常からの脱出を考えた哲学である。それに対し、日常の成立をほとんど奇蹟のようなものとして捉え、それを獲得すべき状態と考える哲学もある》

 と、「日常」に焦点を合わせ、「本書の議論は後者の系譜に位置づけられる」と国分は述べる。私の二つ目の疑問にも、しっかりと照準を合わせている。これは、読むのが楽しみであるが、どう楽しみなのか。「日常の成立をほとんど奇蹟のようなもの」として私はとらえていない。もちろん80年近く無事に過ごしてきたことは「奇蹟のようなもの」とは思うが、「身に刻んで受け継いできた日常」である「身の習い」は、ヒトの暮らしの自然だと思っている。国分のイメージする「日常」は、どこに次元からみていることなのだろうか。これも疑問だ。

 あっ、そうか。ハンナ・アレントはハイデッガーのお弟子さんだった。彼女も「日常からの脱出」を考えていたとすると、一つ、解が見つかる。これは自然観の違いだ。魂と肉体を二元的にとらえて、動物的自然である肉体を克服し脱出すべきモノとみる自然観ならば、「反応」と「応答」との境目の置き方も、理知的、理性的な方へ偏る。だが、心身一如として、身に刻んで受け継いでゆく文化伝承とみる見方からすると、境目はグンと「身」の方へ寄ってくる。

 そうか、動物的自然に「暮らし」をおいてみると、いまこのように暮らしている「わたし」は奇蹟そのもの。日常を獲得するべき状態として勤しんできたこととの結果だ。国分も、艘考えているのかも知れないと、我田引水して、この後を読み進める。

0 件のコメント:

コメントを投稿