2022年2月8日火曜日

いまでも「村八分」にするか?

 1年半ほど前の、田舎に住む同級生との電話のおしゃべり。

 大学を卒業して実家に帰った学生が新型コロナを発症した。卒業祝いのヨーロッパ旅行でウィルスを持ち帰って、そこから感染。当時はクラスター追跡に力を尽くしていた。県内4人目とあって、その家族もそいつの立ち寄り先もどこの病院に収容されたかも衆目の的。学生の名前もわかってしまう。その集落が騒ぐだけではない。家族の勤め先にも緊張が走る。ほかの郡市から仕事に来ている人もいるから、人口6万ほどの町だけでなく県全体の話題になった。とうとう実家の人たちはいたたまれなくなって、何処やらへ引っ越していってしまった。こわいねえ、村八分やね、と電話の主は口にする。

 人口6万、地方都市としては平均的な大きさの町。農漁業だけでなく、いくつかの鉱工業も抱える。産業面でも平均的な日本の地方都市。どう対応するか。医療制度やご近所付き合いも、それなりに近代的な市民社会になってると私は思っていた。それも、「ふるさと」を離れて遠くから見ているゆえの幻覚だったのか。コロナウィルス禍によって、グローバリズムや中央集権的なシステムが対応できず、アフターコロナの社会は地方分権で小規模のサプライチェーンが必要と私は考えてきた。だがまさか、村八分までさかのぼるとは思わなかった。コミュニティの気風が不安定になっているからなのか。

 たしかに感染・発症者の発生、クラスターがどこかは、地域保健状況の管理当局が把握するだけでなく、ある程度情報公開をして市民に注意を呼び掛ける必要がある。感染経路がはっきりしているのであれば、個人名を特定することもなく、GPSで「感染可能性」の警告を発することもできる。COCOAというインターネットアプリが開発されたときは、そうだこれだ、とすぐに登録したものだった。

 少しクールに考えてみると、その大学生のうかつさを責めることはできない。大学生が卒業祝賀会をするとか、ヨーロッパ旅行するというのは非難されるようなことではない。旅行の予約をしたのはコロナウィルスの名も聞いていないころ。ヨーロッパの流行が報じられるときにはすでに「キャンセル」することができなくなっていたという事情も考えてみれば(裕福でもない学生の懐を考えてみると)同情に値する。「自粛勧告」が出ていたとはいえ、仲間内の「祝賀会」がまさかこんなことになるとは。軽率さを後悔するというのも、いかにも学生時代にありそうなことと。私などは共感・同情してしまう。

 そう思いやる気風も失せてしまうほど「不安定な気分」が町全体を覆っているのか。「不要不急の外出自粛」とか「営業自粛」などで、全国的というか世界的に不安に満ち満ちている。感染がわかれば、「不安」の八つ当たりを受ける。アインシュタインは「人間定数」と謂うかもしれない。人の性が絡み合って(自分の身の裡の安定を求めて)外へ攻撃的に「当たってしまう」。噂話も根拠のない流言飛語も好奇心も、ことごとく内省的に検証すれば「わが身」に覚えがあること。「わがせかい」のことにほかならない。

 つまり(ある出来事に対して感じている)好奇心も不安も腹立ちも、「わが身」の輪郭を描いていると内省的にみることができれば、コロナウィルスの感染がどのように広がるかを合理的にみてとって、それに対応する手立てを講じることへ考えすすめる道が開ける。ほとんど不安にはならない。だが、保健行政当局への不信とか、地方行政そのものへの底流する信頼の欠如があると、市民は自分の暮らしは自ら守るしかないと肚を決める。そうすると、近代合理主義的な行政処理の論理が通用しなくなる。危機に直面したときに、日常的に底流しているその社会の気風が表面に現れてくる。それが「村八分」に現れているような気がする。

 そうして1年半経った今、ご近所の誰かが感染したら「お気の毒に」といって済ませることはできているだろうか。著名人が、あの人もこの人も感染したと公表され、症状とか回復度合いも報道される。こうして徐々に市井の庶民も、感染と自己防衛との市民的な有り様を考えたら、「村八分」が見当違いだと思わないだろうか。

 この点を超えないと、もの・ひと・ことが世界規模で行き交うこれからの時代を、私たちは生きていくことができないのではないか。

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