2022年3月31日木曜日

ハハハ、参ったねえ

 昨日(3/30)のこと。ご近所の年寄りがお花見をした。2週前に満開のカワヅザクを愛でてお花見をした面々。今度はタケノコ公園近くのソメイヨシノが満開になった。前日の曇り空と違って、日差しがある。風もなく温かい。見沼代用水西縁の土手沿いの桜がむせるように花を開き、その下ですでに何組かの花見客がシートを敷いている。その並びに私たちもブルーシートを敷いて持ち寄ったワインを開け、お昼をとる。

 おしゃべりに興じて4時間近く過ごし、ぶらぶらと歩いて帰る途次、同じ方向に向かっていた友人が「コーヒーを飲んでいきませんか」といい、まだ3時半、お店に入ってまたおしゃべりを続けた。こうしてうちに帰ったのが5時半。

 玄関を開けると電話で何か話していたカミサンが「どこへいってたん? 電話に出て、今帰ったってはなしをして」と催促する。電話の相手は警察官。何と私が帰ってこないものだから、なんと、タケノコ公園の近くで何か事故はなかったかと問い合わせをし、捜索願を出していたという。

 いや、コーヒー飲んでたんだよと応えるが、「何度も電話したのに、なんで出ないの」と怒っている。スマホを覗いてみると、なるほどメールも来ているし、電話も何度か鳴っている。マナーモードにしていたから、分からなかったんだね。

 夕食を終えた頃、警察官がやってきた。「いや、確認に来ただけです」というが、何がどうしてこんなことになったのか、この夫婦を見て(確認して)おこうとしたのであろう。お騒がせしました。平身低頭、平謝りに謝った。

 ハハハ、参ったねえ。

 でも、カミサンの過剰反応と決めつけられないわけもある。去年の4月に山で事故に遭って、4月いっぱい入院する羽目になった。お酒に弱くなった。たいして飲まないのに酷く酔っ払う。二日酔いになることはないが、玄関にたどり着くのがやっとということも、2週間前にあった。またときどき「迷い人のお知らせです。緑区の**付近で・・・」と「防災さいたま」が放送をしている。そうか私も、今年八十になる。そろそろそういう心配をされても致し方ない、か。

2022年3月30日水曜日

人民って、誰?(2)異質性に向き合う土台

 共に暮らす社会を「共同体」とよぶ。ヒトの群れが発生した原初の頃は、家族や氏族、つまり血のつながりを基本としていたから、異質な感じ方や考え方が身の裡に潜んでいるとは思わなかったのだろうか。ヒトの感性や考え方は群れの中で育まれるから、自ずと群れの培ってきた感性や考え方と大きくズレない(と思われていた)。だが、他の家族や氏族と触れ合わないではいられない。何より子孫を残すために近親婚は避けなければならないタブーとなっていた。多くの群れは「おんな」を交換したり、奪い取ったりすることによって、タブーを維持していた。

 少ない食料をめぐる取り合いもあったろう。快適な居住地をめぐる争いもが起こったにちがいない。わりと採集する自然食料が豊富であった東日本とそうでなかった西日本とで「農業」の始まる時期が違っていたというのも、必要がそうさせたと考えると納得がいく。農業が始まると、田畑を耕すばかりでなく、治水や灌漑を施す大工事が欠かせない。ヒトの群れは大きくなり、氏族は地域的な結合を(婚姻などを通じて)強めて部族となる。また群れの作業に統率が必要とされ、協業ばかりでなく分業も広まり、計画や作業工程監理なども行われたと思われる。

 ヒトの動きに統治が必要とされ、統率するリーダーが登場する。農業の場合には「場所」も固定されることが多いから、その田畑(灌漑設備)を護る防護・防衛の考えも生まれ、それをもっぱらとする軍事的従事者も必要になる。こうして、ヒトの群れは、大きくなると共に組織的になって、その秩序を保つための知恵と力が育成されていく。つまり、ヒトはその群れの暮らしに必要となって、それに備える(群れとしての)スウィッチが入り、時を掛けて育てられ、強化されてきた。

 それと同時に、スウィッチが入ったことによって、それに人の感性や考え方が縛られてしまうことも起こる。ひと頃豊かな暮らしを楽しむ日本社会を指して「平和惚け」と呼ぶことが流行ったことがあった。だがウクライナ侵攻をするロシアのプーチンをみていると、逆に「戦闘狂い」と呼びたくなるほど、疑心暗鬼に、ロシアが脅かされていると妄想を膨らませているように感じる。しかし、「平和惚け」とか「戦闘狂い」と(個人的性向のように)レッテルを貼って忌み嫌うより、「平和惚け」が育まれた社会とはどんなものであったか、「戦闘狂い」が引き起こされた世界はどのようなものであったかと、社会的な傾きとして見極める「研究」をすることによって、それぞれの特性を持ったヒトの立ち位置や社会・世界の特性を取り出し、人類史的な歩みの現段階と考えてみることが大切だ。

 そうすると、「研究」的に考えている「わたし」が身を置いている「せかい」の現在地が浮き彫りになってくる。わが身を置く現在地とは、「わたし」がどのような視点から「せかい」を見ているかを炙り出す。それは逆に、「戦闘狂い」のヒトがどのような立ち位置で世界のモノゴトをとらえているかも、明らかになってくる。そうして、その世界が「わたし」にとってどういう意味を持つかを、わが身を軸にして見て取ることができる。つまり、ヒトの妄想は、その個体のコトというより、その「せかい」がもたらしているクセと考えることによって、社会的な課題が浮かび上がり、それが「わたし」の感性や考え方の傾き・根拠を鏡に照らすようにしてくれる。「わたし」の裡に「平和惚け」も「戦闘狂い」も同居していることがみえてくる。それらに対する「わたし」の態度決定によって、自己が形づくられる実感も感じ取ることができる。それは、好ましい感触だけでなく、自身が世界においては卑小で猥雑な身なのだという自覚にも通じる体験となる。

 人類史は、日本列島の私たちが肌で感じている以上の戦いを感じてきた。ヒトの住む世界が広がり、その数も密となり、互いの生死を賭けた確執も頻繁となった。長年にわたって由緒由来を引き継いでいるうちに、もはやなぜ争っているかもわからないまま、憎しみ合い、恐れ、疑いを抱く。だが、わが身の裡に似たような感性や考え方の欠片が潜んでいることを感得していれば、他のヒトの異質性に対しても、ある種の共感性をもって向き合うことができる。彼、または彼女は「わたし」とは別だが「わたし」とつながっているという感触。これは、ヒトの理解し合う土台を為している。

2022年3月29日火曜日

思い違いが生まれるとき

 昨日は花曇り。だがウィンドブレーカーを用意していれば、あとは長袖シャツ一枚で十分という陽気であった。週1回のリハビリに行く。

 順番は6番目。肩を温めていると、「今日は先生が二人しかいませんので、ちょっとお時間がかかります」と受付の女の方が断る。温めが終わり本を読んでいると、いつものリハビリ士が私に声を掛けて、施療が始まる。「どうですか?」と問うことからはじまる。今朝ほど起きてから右肩に軽い痛みが走ったと話すと、横向きになるように指示して施療に入る。このリハビリ士は5ヶ月ほど鍼施療もやってくれた方で、以来、私のマッサージもこの方が担当してくれている。何度か、このブログにも書いたが、真に的確。見事にツボを押さえ、施療のあとは間違いなく要所がほぐれ、身が軽くなる。去年の暮れまでは、それでも夕方になると右肩が重くなり、風呂のあと湿布薬を貼っていた。施療のあとどのくらいで痛みを覚えるかが、恢復が順調かどうかの目安になるような気分で、リハビリに通っている。

 そのリハビリ士が昨日の施療のあと、「来月から私は月曜日がお休みになりますから、火曜日に来てくれますか」という。もちろん私は了解なのだが、彼女はそのあと「どういう経過を辿るか、見ていきたいと思ってますから」と付け加えたので、彼女の「ご指名」なのだと思った。

 この医院の担当リハビリ士は、固定していない。最初の3ヶ月は、週に3回か4回通っていたのだが、行く毎に担当者が変わった。6人ほどいる中の二人が女性。たいていは男のリハビリ士だった。20代の若い方の女性リハビリ士が鍼を奨めてくれ、8月から鍼施療を受けたのが、もう一人のアラフォーの女性リハビリ士であった。その後、鍼施療を除いてリハビリに通うのが週に2回になり、ときどき男性リハビリ士にあたったが、たいていは、そのアラフォーのリハビリ士が担当してくれるようになって、私も好ましく思うようになっていた。

 その好ましいと思う感触は、なんだろう。なにより施療の的確さなのだが、同時に余計な口を利かないで施療を進めるのがいい。同時に施療している隣のリハビリの声も聞こえるからそう思うのだが、世間話をしながら施療する人たちがいる。リハビリ士がおしゃべりを誘うのかどうかはわからないが、どこそこのサクラがきれいだとか、今年は開花が遅いだとか、どうでもいいことを喋りながら施療している。それはとっても煩わしい、と私は感じる。必要なことは言葉にするが、あとは黙ってわが身と施療者との間を見守っている。それはそこそこ(触感の感受を)緊張してい聞いているから、余計なおしゃべりが挟まるとうまく聞き取れないように感じているのかもしれない。

 そうして昨日「ご指名」と思ったとき、そうか、これを誤解すると、ストーカーになったり、振り向いてくれないことに憤ってDVとか殺人事件になったりするのだと、イメージが飛躍した。相手は仕事として伝えることを的確に(必要最小限に)言葉にする。しかし受けとる側は、それとは別の次元でその言葉を聞き取っていて、仕事と私的なコトとの区別がつかなくなってくる。リハビリというのが身に直接働きかける施療だからなのだろう。

 つまり身に働きかける施療が、日頃、身が触れ合わないことを基本とする社会規範で育ってきた(ことに若い単身の)人たちは、身体的な接触がもたらす心的な関係的充足による安定に満たされていないために、単純な施療を余計心的な要素を加えて敏感に受け止めると思われる。そうする(誤解に浸る)と、なんであのとき好意的に振る舞っていたのに、今こんなに冷たいんだと恨み辛みを溜めるようになる。それが臨界点に達したとき、事件になる。こうした思い違いは、向き合っている人の内側に堆積した「関係史」がかかわっているから、社会的に理解する(他の人たちに分かって貰う)ことは難しい。非対称的というか、一方的に事件が暴発するように出来する。

 そんなことを考えながら、「ご指名」にたいして「そうします。ありがとうございます」と、彼女の意思を拝受した。

2022年3月28日月曜日

やはり言葉ありき

 一年前(2021-3-27)のブログ記事《「かんけい」の気色》を読んで、気になることがあった。

(1)冒頭の「今月で仕事をリタイアする若い人」というのが誰か、思い出せない。コロナ禍もあって、誰彼と会ってはいるわけではない。電話で言葉を交わしたのだろうか。「大宮第三公園」というのは居住地近くを示している。ごくごく狭い私の人間関係。にもかかわらず思い当たらない。どういうことなのだろうか。惚けが進行しているってコトか。

(2)《座標軸の原点は、「わたし」である。それは認識の原点ということであり、「せかい」の原点でもある。》というのは、論理的な規定。ヒトが成長過程で経験的に取得するのは、日々、関わりを持ち、言葉を交わし、他のヒトの応対を感じ、それに対して応答し、それがまたどうヒトの反応を引き起こすかを遣り取りしながら「せかい」を紡ぎ出していく。かかわっている相手の応対によって、「わたし」も「せかい」も移り変わる。論理的な規定は、あたかもかっちりと「規定」が形成されるとそれが保持され続けるように思えるが、実世界ではそうではなく、日々の応答によって感知される「かんけい」によって「わたし」も「せかい」も変容する。と、一般的に言ってしまうとそりゃあそうだろうと思う。だが、もっと具体的に考えてみると、移り変わるというほどスマートに言えることではなく、「わたし」は混沌の渦中にいる。いったい何のために生きてんだろうとか、「わたし」ってなんやと、暗中模索、五里霧中、つかみ所のない「せかい」に「わたし」が浮遊して落ち着きどころが分からず、自分がいやになることも多い。逆に言うと、「せかい」は日々、つくり直されている。「わたし」も日々つくられている。とすると、一貫性っていうのは、なんだ? 私は「わたし」だという確信の根拠って、なんだ? その問いがいつもつきまとう。自問自答が繰り返され、積み重ね、突き崩されていく。

(3)《「科学的」「客観的」事象はどう捉えることができるのか》という問いに関して、その見解を《(信じている人の数の多さ)というのではなく、(エビデンスとか限定した場での論理的正当性とか説明の簡潔さという)権威(の多数派)が作用している》と、支持するヒトの数という「量」ではなく「質」だと言ってはいるが、「量」の多寡のイメージが張り付いている。これは、ちょっと違う。ここでいう「質」も(2)と同様、事々に「科学的」「客観的」であるかどうかを吟味することによって、移り変わる。そして、行き着くところは、「わたし」は何をもってコレを「科学的」「客観的」と判断しているのかと、自身の判断の確信の根拠を自問自答するところへ行き着く。

(4)つまり、他のヒトがどう「その見解」を支持/反対しているかは、どうでもいいことだと気づく。「質」というのは、結局自分自身の確信の根拠を問うことに行き着く。その自問自答へたどり着く蓋然性をもう少し論理的に組み立てて説明する必要がある。さらに、「確信の根拠」というとき、「情報」をどう受け止め、どのように組み立てて、どのような物語りにしていっているかが、問われているのだと思う。

(5)そうしたときに、物語の「質」は自己完結する(起承転結が明々白々に出来上がっている)ストーリーではなく、読み手、受け取り手、応答する人たちとの相互的な物語り(ナラティヴ)が、「かんけい」的には相応しい。遣り取りが発生するのだ。ということは、相互性を保った物語りか、自己完結する物語(ストーリー)かという話しの見立てが、まず見極めの一つの指標になる。これは、オードリー・タンの「オープン・ガバメント」の考え方にヒントを得ている。政策を立てていく過程そのものが、具体的な問題を組み込み、時間的な処理も含めて優先順位を検討し、実際にかかわる人たちがひとつひとつ解決に近づいていく時期と方法を見立てながら、立案し、予算執行して行くプロセス。それこそが、日々、一つひとつ具体的に民主主義を実行する過程であり、そのやりとり(フィードバックと専門家はいう)が、人々の確信の根拠となり、信頼を築いていくのである。これは民主主義の不可避性をも示すことである。

(6)《はじめに言葉ありき、と語りはじめることの嘘くささと、でもそうだよなあ、はじめに言葉ありきだよなあ、と感じる真実味の実感とが身の裡に溶け合ってひとつになっている》次元で、ヒトとのコミュニケーションが交わされるとき、その遣り取り自体の中に「わが身の存在の社会性」が浮かび上がる。「関係的実存」の繰り返す確認でもある。 

2022年3月27日日曜日

定期観測の老人会

 昨日(3/26)、新橋で「36会seminar」をやってきた。一週間前に参加者は連絡をしてくる。予約している会場にはそれに基づいて人数を知らせる。

 常連の一人が「年度末の始末があるので」と欠席連絡があった。数えで80になるというのに、まだ頼りにされて仕事をしているのだ。また別の常連一人も「事情があり」と欠席の報せ。この方は、ご亭主の世話に追われてここ十年くらい落ち着かないが、seminarにはよく足を運んできた。ひょっとしたらご亭主から目が離せないのかも知れない。

 参加連絡をしていた一人が、前日になって「所用ができ欠席することになった。会場には一人分減らしてくれと連絡をした」とメールが来た。なんだろう。まだまだ元気な「世話好きおばちゃん」だから、また身近にコトが起こったのかも知れない。

 そして当日、つまり昨日の朝、メールが舞い込んだ。「体調が悪く、今日は欠席します。ごめんなさい」とある。今でも海外を飛び回って建築を楽しんでみている方なのに、思わぬ故障に襲われる。

 つまり、seminar開催の参加の様子を遣り取りするだけで、面々の身辺の消息が伝わってくる。もちろん私は、子細に踏み込んで尋ねたりはしない。踏み込むと、世間話になる。事情を知ると、それがその方のイメージとして身の裡に刷り込まれる。一つひとつ覚えているわけにはいかないから、応対するときにすっかり忘れていて失礼してしまう。そう感じるから、よほど親しく感じていたい人以外には、ほどほどの距離を取る。そういうのが、「わたし」の関係感覚として定着していた。

 それをカミサンは、ヘンだと思っているらしい。知り合いの誰それが入院していたらしいと話しをすると、「どこが悪かったの?」と聞く。「いや、知らない」と応じると「どうして聞かなかったの?」と矛先が私に向いてくる。つまりカミサンにとっては、そうしたことは聞かれなければ話さないことだけれども、できれば話しておきたいことでもあるのよと、向き合っている相手の心持ちを察して、聞くべきだと思っている。たぶんそれが彼女流のおもてなしなのだろう。

 だが「わたし」は、相手の言葉や立ち居振る舞いが伝えていることはできるだけ受けとるが、相手が発信しないことには、こちらから踏み込まない。それが人を尊重することだと思ってきた。もちろん向き合う相手が私に対してもそう振る舞うことを期待し、それ以上を求めることはなかった。

 だから私は、世間話が苦手。ところが、世間話ほど、話す人の人柄を正直に体現していることはないと思うようになった。世間話は、日常の感性やイメージや思いなどの断片である。そこには不用心に、その人の無意識が表出している。なぜそう感じるのか、どうしてそういう言葉にするのか、それはいつからなのかと聞き手がつなぎ合わせていくことによって断片が物語りに変わってくる。

 そうか、新聞や週刊誌の取材記者というのは、こうやって相手から話を引き出し、脈絡を付け、単なる世間話を社会的な出来事として報道するに値する記事にしているのか。つまり聞く力というのは、まず、できるだけ断片を取り出して素材とすること。ついで、それらの断片がもつ素材の脈絡を探り当て、物語という、より大きな次元の文脈につなぎ合わせる。その次元の転換を図るところに社会性が生まれ、世界を語る視線が埋め込まれていく。その素材である断片の受け渡しをしている間の取材記者は、世の中の好奇心を最大限に動員して、根掘り葉掘り聞き出さなければならない。何しろ相手の無意識に触れて、そこから脈絡を探るのだから。だが、それを記事にするときには、世の中のどういう次元にその素材を置くかによって文脈が変わってくる。病で入院したという時、躰の調子と治療法ということであれば、医療体制の問題となる。病と暮らし方となると、経済状態や働き方が俎上にのぼる。老人の生活実情と医療という次元となると、もっと絞り込んだテーマが浮かぶ。その次元を定めることも、じつは取材しながら探っているに違いない。つまり、取材者の心持ちとしては、断片・素材と文脈・物語との間を行ったり来たりしながら相手から話を聞きだしてゆく手練手管が繰り出されているのであろう。

 だが、市井の人の間で、そういう非対称的な関係を保ち続けるというのは、どういうことであろうか。取材対象のように扱われるのは、何だか、とっても失礼な応対の仕方のように感じる。市井の人が取り交わす世間話というのは、何だろう?

 挨拶であれ、愚痴であれ、出遭った出来事に対するその都度の感想であれ、共感や同意を求めたり、違った意見を聞くことも期待の内にある。それは同時に、向き合っている相手の体調や近況や心持ちの現況を確かめ合っていることでもある。それは、超越的に見れば、相互の関係を確かめ合っている振る舞い。その遣り取り自体を対象化して見ることをしないのが、世間話である。

 当然ながら、取材者と取材対象という関係ではない。そうか、遣り取り自体を「対象」としてみるのを相互的に行うのであれば、それは「当事者研究」なのだ。取材するされるという関係にが非対称的なのは、取材を受ける方は当事者であり、取材する方は超越的傍観者である。取材記者の方はたぶん、「傍観者」という言葉に文句を言うであろう。そうじゃないから取材しているんだと。だが、客観報道とマス・メディアという記者の立場を考えると、「傍観者」という立ち位置がもっても相応しい。これが地域メディアとなると、少しニュアンスが変わる。「同じ街の出来事」を取材しているという「当事者性」がほんのりと浮かぶ。それはまた、記事にも反映される。

 さて横道が面白くて、また大きく逸れてしまった。本題に戻そう。

 昨日のseminarは、文字通り世間話の総まとめであった。「まとめ」であるから、今年数え80歳の同窓生という当事者たちが、70歳代を振り返る「当事者研究」でもあった。二月に1回行ってきたseminarがコロナウィルス禍で、断続するようになった。その間に2年が過ぎ、その分、歳を重ねた。それにナラティヴを付けたのがseminarであった。『うちらぁの人生 わいらぁの時代』と題する「36会seminar私記」が上梓されたのは2020年5月。コロナ禍でやってお2年ほど経ってseminarの「お題」として言葉を交わすことができた。昭和17年4月~18年3月生まれという、戦中生まれ戦後育ちの田舎の高校の同窓生が経てきた「人生」と「時代」という次元で読み取ってみるとどう見えるか。敗戦と戦後の混沌、経済成長と一億総中流という希有な時代、そしてその後の失われた「**十年」という社会の変貌、そしてコロナウィルス禍とウクライナの戦争という世界を共通体験として「当事者研究」する。

 それが世間話的に展開したのが、面白かった。講師を務めた私からすると、やっと世間話の入口にたどり着けたという感じ。seminarという定点観測の老人会を始めて、満九年になる。まあ、まだしばらくは続けられそうだ。

2022年3月26日土曜日

定点観測の自問自答

 ブログを書き続けるのは「定点観測」のようなものだと思っている。書いたらたいていは忘れているのだが、ブログのサイトから「1年前の記事」というのが送られてくる。読み返すと、へえ、こんなことを書いてたんだと過去の自分が現在の自分に問いかけてくるように思える。定点観測の自問自答である。

 2年前の3月下旬というと、コロナウィルスが広がり始めた頃。政府の対応はずいぶん大雑把で乱暴だなと思っていた。それを1年後に読んでみると、「公助」というそれはそれでさておいて、「自助」を基本に「共助」をどう構築するかへと視線を移している。その「共助」への視線が「公助」と交わる地点に、台湾のオードリー・タンIT大臣の「オープン・ガバメント」を媒介におくと、「大雑把で乱暴な」日本の「公助」の本質がみえているように感じる。この次元だと、なんとか「公助」を変えていきたいと思ったりする。

 それを人類史的に位置づけてみると、「家畜化するヒト」という現代科学の(無意識の?)傾きが視界に入った。ヒトが社会システムを「整え」て、それに適応するように自らの立ち居振る舞いを変えることが「家畜化するヒト」につながるとしたら、いいか悪いかは別とすれば、それが大自然におけるヒト属の「じねん」ということになる。

 なるようになる。なるようにしかならない。自棄になるのではなく、ケセラセラと行くしかないのかも知れないと、市井の老爺はおもうのである。

 「感染経路不明の発症者が半数を超えた」(2020/3/25)

 「ワシら知らんもんねえの底力」(2021/3/25)

 「家畜化するヒト」(2020-3-23)

2022年3月25日金曜日

この、柔らかな人の感触

 日曜日に訪ねていった娘の嫁ぎ先の姑さんが亡くなったと知らせがあったのは、日帰りで帰宅した翌日の夕方。まだ葬儀日程も決まっていない。近頃は、葬儀が間合いを置くようになっている。私には、金曜日から土曜日、日曜日と予定が詰まっている。そのうち土曜日のseminarは、私が講師を担当している。1月予定の前回seminarは「蔓延防止措置」もあって延期となっていたから、4ヶ月ぶり。久々に会えると参加連絡も受けていた。中止しないで、私に代わって取り仕切ることができるのは、一人しかいない。すぐに「ご相談とお願い」のメールを送る。あとは、日程が決まってから、始末を考えよう。

 火曜日の朝、娘から葬儀日程が決まったと知らせがあった。はじめ「22日通夜、23日告別式。我が家に泊まりますか」とあったので、「泊めてください。これから準備して出ます」と返信すると、「今日から来る?」と応答が帰ってくる。「?」。大分慌てている。日付を1日ずつ間違っていたのだ。香典は受けとらないというのを聞いて、花を贈ることを依頼する。

 何よりも先に、婿さん宛に「お悔やみ」のメールを送る。私より一つ若い舅さんは、古武士風の立ち居振る舞いを身に備えている仕事人。姑さんと二人三脚で自営の仕事もこなしてきたに違いないから、気落ちしていると思うが、舅さんとは電子的な遣り取りをしていない。同じ仕事場で働いている婿さんによろしく伝えて貰おうと考えた。彼からは丁寧な返信が届いた。

 seminarの代替を依頼したMさんに「お騒がせしました」とメールを送る。seminarのレポートを準備する時間がなくなるから、それを仕上げておかねばならない。月曜日がお彼岸で休みだったので、今週はリハビリが火曜日になっている。それも済ませる。幸か不幸か、今日は朝から雨。家にこもるには最適。seminarのレポートは、前回seminarの報告も含めてA4版で24頁になった。プリントアウトして往復の新幹線の中で校正しようとまとめたが、結局持ち歩いただけ、手を付けず持ち帰ることになった。

 通夜は30席ほどのこぢんまりした式場、隣の部屋にはモニターを設けて式場の様子を映し、椅子が列べてある。両方が埋まっても60席くらいか。正面の花に埋まる祭壇の中央に姑Rさんの笑った顔がある。去年11月に病がはっきりしたとき、遺影はどうする、一度一緒に写真館で撮ってもらおうかと言葉を交わしてきたという。だが、七五三の時期、割り込むわけにも行かなかった。治療の合間にもう一度撮ろうかと話が出たときは、成人式が近く、結局舅さんが撮ったスナップから選んだという。ご近所の仲良しが集まって「おばさん宴会」をしているときに、帰宅したお酒の飲めない舅さんがシャッターを押した。それをRさんが選んだそうだ。

 棺に収まったRさんは、顔の肌が艶をもつように引き締まっている。エンバーミングを施したという。風呂に入ったように清拭をするだけでなく、血液を防腐液に入れ替えて腐食を防ぐ処置を施して、ナチュラルな化粧をしている。笑えばそのまま遺影になるようであった。

 棺を取り囲んで、いろんな話が交わされる。阪神大震災の時、たまたまさしたる被害のなかったRさんちが「たまり場」になり、ご近所の人たちが屯して食事を一緒にしたのが「おばさん宴会」発端だったとか。その後に孫が生まれ、嫁が仕事を続けていたので、Rばあちゃんが世話をしたが、ご近所の子どもたちもあつまってきて、一緒に遊び、ご飯を食べ、まるで保育所のように賑やかであったと、そのときの「幼馴染み」たちが棺の傍らであれこれと話をしている。埼玉爺ちゃんである私にも、そういう紹介をして、「23年も前のことや。いつも喧嘩していた」と笑う女の子は髪を金色に染めている。

 親戚が集まる程度といっていたが、そういうご近所や若い人たちもたくさんいる。通夜の時には、静かだが賑やかにRさんをめぐる言葉が取り交わされ、舅さんも「そうか、そんなことがあったんか」と聞き入っている。商家の、親密なお付き合いをしてきた人たちが「関わりの糸」を解し辿るような、柔らかな人の感触が会場に広がっていくように感じた。僧侶の読経は、むしろまったくのバックミュージックのようで、人と人との関係の深いところで育まれてきた温かさが、あらためて確かめられているようであった。

 翌日の告別式も坦々と運ぶ式進行ながら、棺にお花を収め、「お訣れ」をしているときには、なぜか涙が溢れてきた。2番目の孫は、通夜の時から声を忍ぶように涙していて、埼玉ばあちゃんが「ないてもいいんよ」と背中を撫でている。ああ、この子はこんな風に感じやすい子なんだと、私はあらためて(この孫との18年を)思い、また70年ほど前、同居していた祖母が亡くなったとき、別に悲しくも何とも思っていなかったのに、棺に収め、釘を打つ順番が回ってきたとき、どっと涙が溢れてきたわがことを想い出していた。

 告別式が終わり、焼場に向かい、御骨になるまでをふたたび葬祭場に戻ってお昼を共にしながら、近い席の人たちと話しをする。カミサンは、娘の2番目3番目の子が誕生するときに、長じていた孫の世話もあってしばしば訪れていたし、姑さんやその縁戚の方々やご近所さんと顔見知りということもあって、挨拶を交わしている。年寄りはみな、70代の半ばを越え、縁戚の甥や姪は、今まさに働き盛り、その孫たちは中高校生か大学生。その人たちが交わす言葉の近況の中に、Rさんが文字通り取り持ってくれた「縁」が息づいているようであった。

 これまで私は、自分が早く逝くものとしてカミサンとも話をしてきたが、そうか、カミサンが先に逝くこともあるんだとあらためて思った。そして、カミサンが亡くなったときに果たして今回の舅さんのように気丈に振る舞えるか、ちょっとわからなくなった。舅さんは、子ども二人がすぐ傍にいて、仕事も手助けするように暮らしている。孫もすっかり大きくなって、寄り添うように気を遣っている。我が家はというと、息子は遠方に暮らし、親を気遣うこともほとんど、ない。ご近所とも、出会ったら挨拶をするだけ。とても、こんな親密さがやわらかく包むような葬儀は適わない。そんなことを思いながら、「元気なうちにどんな形がいいか考えとかなか、あかんよ」といっていた娘の言葉が、どこかに引っかかっている。

2022年3月23日水曜日

集団的無意識と操作された民意

 一年前(2021/3/22)の記事「民主政体の違いとは何か?」に、ロシアは登場していない。ロシアは「民主主義」と自称しないからなのか。でも選挙とか統治体制のシステムは、民主主義を装っている。でも今度のウクライナ侵攻でロシアの民意は操作されていることが明白になった。ただ、プーチンを支持するといっている人々に操作されているという意識はない。つまり情報操作が日常的になされ、その物語りが(ある程度)国民的アイデンティティとして受け容れられると、ほとんど集団的無意識として身に染みこんでしまうってことか。

 情報操作の要件を、今回のロシアは明らかに示している。

(1)反対意見や相反する情報を封じる。メディアを禁止する。反対者を逮捕拘禁する。反対者の口を(暗殺するなどして)封じる。

(2)でも、どこからか情報の漏れが生じる。経済関係のグローバリズムの所為で、ヒト・モノ・カネの往き来が国家公認のチャンネル以外にたくさんできている。つまり、情報操作の綻びがあちらこちらに出来する。それに対抗するためには、「誤情報/フェイク」を流して、何が事実か、どこに真実があるかを玉石混淆にして分からなくしてしまう。情報への信頼性が、それを受けとる人の無意識によって選別される。あるいは、分からないとして沈黙に向かう。

(3)情報を受容する人の無意識は、大雑把な「政治・政府への信頼感」にある。国家と社会を違うものとして受けとっている人には、社会への信頼感も底流している。それは、身に蓄積された文化的な要素を含めたアイデンティティをベースにしている。情報操作をしている側の国民的アイデンティティには、例えばロシアのヨーロッパに対する「ひけめ・コンプレックス」を感じる。それが国内では反転して、ロシアは大国であるという集団的無意識になっていたりする。プーチンのNATOに対する気質的敵対心は、蟹が自らの甲羅に合わせて穴を掘るというような、ロシアが歴史的に培ってきた無意識の鬱憤が作用しているようにみえる。

(4)経済的な繁栄がアップデートな時代に、そこそこの恩恵にあずかっていると実感している人たちには、政府の情報操作を順接的に受け容れる土壌がある。逆に(なぜかわからないが)不遇であると感じている人たちには、疑いを持ってみる目が養われている。と、これまでは考えてきたが、必ずしもそうではないらしい。経済的な恩恵にあずかっている人たちは、却ってグローバルな情報に通じていて、政府のフェイクをフェイクとして承知している気配がある。順接的に受け容れているとみえるのは、乗っている船が順風満帆であるとき。それが沈みそうとなると、何時脱出するか思案するにも敏感となる。逆に不遇をかこつ人たちは、情報操作を疑うよりも先に、ウクライナでロシア人が迫害されているというニュースに自らを重ねて共感し、フェイクニュースに味方して熱狂的なプーチン支持者になることもある。つまり、情報を見極めるのと、それをどう受け止めて政治的態度を明らかにするかとは、また別問題。これが、「民主主義」の怖いところでもあるし、面白いところでもある。

(5)中国は、国民的アイデンティティの形成から思案して情報操作に取り組んでいる。五族といっているが、少数民族の文化を「保護」するという側面と「中華人民共和国」という統一的アイデンティティを形成するという相矛盾する施策を同時に行わなければならなくなる。とすると、手近には漢民族文化をスタンダードとして国民形成をしようとするのは、当然である。チベット自治区やウィグル自治区への北京語を標準とする教育の徹底は、それ自体が「情報操作」の基本となっている。さらに、例えばチベット自治区では、チベット人の昔からつくってきた街の近くに、それとは別に移住してきた漢族の街を造り、そちらに行政機関や商業地区を設置し、街の名前をそちらが簒奪してしまうような施策が、もう何十年も前から行われている。優秀なチベット人は新しい街で働かざるを得ず、旅行客も新しい街の宿泊所に宿を取り、そちらで買い物をし、そこがチベットだと錯覚して、チベット観光をするというわけだ。つまり、綻びの出ようがないほど、隅から隅まで統治が徹底している。ウィグルのことは(訪問したことがないから)知らないが、その入口である敦煌辺りも、漢民族文化が(キタローのシルクロードの曲も流されて)、その人々とともに圧倒的に流れ込んで観光地づくりとそれに見合った産業の振興が行われていた。ロシアがウクライナに「ロシア語の標準語化」を要求したと聞いて、チベットやウィグルでの中国の施策を思い浮かべた。


 上記の事々を考えてみて「民主主義」を思案してみると、どういう国民的アイデンティティの形成がいいかというよりも、どのように人々が手を携えて「共に国の行く道を探るか」という形づくる「かたち」を思案した方がいいと思う。台湾のオードリー・タンがいう「オープン・ガバメント」を一つの提案と受け止めて、考えていってほしい 。

2022年3月22日火曜日

ジェンダーとジェンダー・ギャップ

 男女の性差があり、それがヒトの種族保持に意味を持っている限り、「男らしさ」「女らしさ」はなくならない。「LGBTQ+」がなんだか性差をなくしてしまうようにみられるが、そうではない。性差の端境が曖昧である、グラデーションになっていることが(社会的に)分かってきたのである。

 性差の端境が曖昧(グラデーション)とは、どういうことか。ただ単に、好き/嫌いという性的嗜好が多様であるというだけでなく、社会的活動における性的役割分担も多様であると公認されるようになったことを意味する。ということは、父権主義(パターナリズム)が含み持つ保護すべき存在としての女性/保護者としての男性という社会通念も、変容して行かざるを得ない。

 だからジェンダーと呼ばれる、「男/女らしさ」の社会的通念は、時代と共に変わる。どちらが先かは分からないが、男も女も、その関係的有り様もまた、時代とともに変化する。その変貌変化と社会的通念のズレが「ジェンダー・ギャップ」と呼ばれるものである。

 ということは、一人の人が(ジェンダーを)どのように受け止めているかということよりも、社会的な制度やシステムがジェンダーの変貌をどう組み込んで対応しているかが、問題になる。結婚や家族、相続、職業や趣味嗜好に至るまで、人が暮らしていく上でぶつかる様々な場面において、男女の性差がどう受け止められているかを、社会的なシステムのモンダイとして考えていく必要があるということである。

 ジェンダーが社会的問題であるから、政策をたてつける政治家の「ジェンダー・ギャップ」が際だって問題とされることになる。例えば少子高齢化を考えるとき、まず「不妊対策」を取り上げるというのは、問題を社会的に考えようとすることから逃げている。個人的な問題に限定しようとしているとさえ言える。堕胎・中絶がどの程度多いか知らないが、なぜ子どもを産むことが避けられるかを社会的な問題として考えていけば、子育ての何が障害なのか、どうすればそれを個人的ではなく、社会的に解決していけるかを探る道筋は、みえてくるに違いない。夫婦別姓の問題も、保育園の受け入れの問題も、女性の非正規労働と出産・育児に関する制度整備についても、子育てを社会的に行うという視点さえ築けば、あとは容易に課題が浮かび上がってくる。

 当然、結婚に関する通念も変容を迫られる。フランスが「事実婚」を認めるようになったのは、離婚を禁じるカトリックの通念に変更を迫るのではなく、現実の障害を取り除くことに社会的に対応したからであった。国教会というカソリックとは異なる宗派に属するイギリスなどでも、家族に関する社会通念は、半世紀以上も前に大転換をしている。婚外子が5割に上っていたのもそれを示している。自分の父母が離婚して、それぞれのパートナーとどこどこに住んでいて、自分は父親とそのパートナーとつい去年まで一緒に暮らしていたと自己紹介するイギリス人青年に驚いたのは、35年も前のことであった。当然、家族としての単位の考え方や税制や相続にも関係してくる。「LGBTQ+」が喫緊のモンダイとなってきたのであった。

 日本の「ジェンダー・ギャップ」の障害が何かは、そうやって考えるとはっきりしてくる。旧来のイエ制度に固執する政治勢力が、ボトルネックの一つになっている。森元首相がその象徴的存在であったことはいうまでもない。彼のオリンピック委員会での発言をジョークと受け止めていた私なども同罪であるが、私は社会的な影響がないだけに責任はほとんどないに等しい。

 だが社会的なシステムとしては、企業経営者や管理職、労働組合の指導者たちには、大きな責任がある。それは、女性が働くことについて一人前扱いしていない社会通念を支えているからだ。結婚するまでの腰掛けという見方はさすがにないであろうが、結婚して働く女性に対して、補助労働的な存在とみなす風潮は、結構強い。転勤や時間外労働を引き受けられるかどうかを問うのは、過酷な労働を引き受ける男たちの労働現実にも問題があるが、そういう通念を支えているのが「男は外で女は家で」という家族の労働分担の積年の通弊であった。

 私たちが若い頃には、日本企業の給料体系もその社会通念に寄り添って組み立てられてきた。だがすでに現実の企業労働は、そうした人生経路と歩調を合わせる仕組みではなくなっている。それなのに経営者や労組指導者の通念は旧制度のままで、女性の労働に関してブレーキをかけているのだ。同一労働同一賃金という原則さえ確立できていれば、正規雇用か非正規雇用かは問題にならない。だが、低賃金で雇いたい雇用主の要求がある限り、利用できる社会通念は何でも使うというのが資本家社会の常識である。かくして非正規雇用者が増えて、女性がそれにあたるという格差社会が出来している。

 無論それは経営者だけでなく、大企業の労働組合もまた、同様のシステムを当然として保持しているから、それが社会通念として中小零細企業にも覆い被さってきている。その結果、零細企業ではパート労働しか頼りにすることができず、給料はなかなか正規社員並みにはならない。こうしたことを考えると、ジェンダーの問題は、男女の頭の中ではなく、政策や社会システムとして変えていかなければ、いつまでも旧態依然とした状態が続くことになる。

 ま、私たち年寄りは、男女を問わずそう遠くない時期に消え去るであろうから、自分の問題としては何一つ心配することはない。だが、子や孫の先々を考えると、旧弊を捨てて現実問題に真っ直ぐに向き合う姿勢が大切になろう。その向き合い方を示すのが「哲学」である。歳をとってきて何が取り柄かというと、「色即是空空即是色」という人生観をわりとしっかりと見極めることができることにある。若い頃にあれやこれや、可能性に溢れてうろうろと踏み迷ったり背伸びしていた頃に較べると、何であんなことに右往左往したのかと笑ってしまう。若いということは活力に溢れると同時に、猥雑なことに追われ走り回っていた。今から振り返ると、ま、ヒトってそうやって自分を紡いでいくんだねと、何だか悟ったように思えてくる。

 いずれにせよ、何がいいか悪いか、そう一概に決められない。善し悪しを定めず、モノゴトを見て取る中動態的な視線こそが、天然自然と一体になることを身に染みこませてきたわが身の自然観にも沿っていて、好ましい。

2022年3月21日月曜日

お彼岸

  昨日(3/20)は、所用があって西宮まで行ってきた。このところ寒暖差が大きい。スーツに軽いコートを着用して出かけた。日曜日とあって在来線は混んでいない。最寄り駅のみどりの窓口が廃止されたために、東京駅の新幹線乗り換え口の近くにあるチケット販売所に並ぶ何十人かの列に連なる。ジパングという割引切符を買うのに、自販機は使えない。このジパング、一昨年からのコロナウィルスの外出自粛の所為もあって、使うチャンスがなかった。年間3,4千円の会費を支払っているから、久々の遠出に喜んだわけ。東京駅構内のこの窓口は、私の乗車した最寄り窓口からのスイカを元に戻して、そこから目的地までのチケットを3割引にしてくれた。

 新幹線に乗るともうコートはいらなかったが、新大阪は東京より寒かった。ジパング割引の聞くのは「ひかり」、自由席が5号車まであって、どう動くか決めない旅には都合が良い。新大阪まで30分ほど早く着く「のぞみ」は頻繁に出ているが、「ひかり」は1時間に2本。空席があって、急がぬ旅には心地よい。富士山は雲に隠れていた。

 順調に甲子園口駅に着き、迎えに来た車で、まず食事に向かう。訪問先にはすでにお客が来ていて混み合っているというから、娘が時間差を考えているようであった。中学生の孫娘は母親と一緒に動いていたが、大学生の孫はバイト先からやってきて、食事に加わる。彼らとは3年ぶり。コロナはこうした出合いの機会も奪っていたわけだ。

 このお食事処は、結構混み合っている。私たちはほんの二組くらいしか待たなかったが、その後は列を成し、帰ることには十数人が待合所に溢れていた。テーブルに設えたアクリル板も、形ばかりもの。こちらの人たちは「コロナどこ吹く風」という風情。東京のピリピリした雰囲気を感じさせる気配がない。関西人の肝の太さというか、大らかさというか、自分の軸をしっかり持って暮らしている感触に満ちている。

 脳梗塞を起こして倒れたという知らせを受けて駆けつけたのだが、娘の嫁ぎ先の姑さんのベッドの周りには、訪ねてきたお客さんで溢れていた。孫が生まれて、何度か手伝いに来ていたカミサンは顔見知りというわけで、「**さん、***さんが来たよ」と、その方たちがまるで家族のように姑さんに声を掛ける。ベッドに横になり点滴で繋がれた姑さんはうっすらと目を開けている。手を握って「ご無沙汰していました。***ですよ」と声を掛けると、分かるけれども声も顔の表情にも出せないというのか、少しばかり目が動くように感じられる。お客さんたちが引き上げ、姑さんが倒れてから帰ってきてずっと世話をしている次男坊が応対してくれる。

 私より一つ若い舅さんと長男が経営するガスステーションもあるから、次男坊の彼が食事から何から寝込んだ母親の面倒を見ている。良かったねえ、こうやって世話をしてくれる身寄りがいて。彼とは15年以上も無沙汰をしていた。昔に較べるとスリムになった。IT関係のプログラミングなどをしていると聞いてはいたが、仕事を辞めて戻ってきたのだろうか。それともリモートワークをしているのだろうか。応対も言葉遣いもアラフォーの貫禄が備わって、そつがない。

 2時を過ぎて舅さんも長男である婿さんもお昼を摂りに帰宅する。やはり彼らとも3年ぶりだ。近況を交わす。その間にもベッドの姑さんに声を掛け、様子を見る。カミサンが手を握って言葉を掛けている。今年高校を卒業した孫も、バイト先からやってきて、元気な姿を見せる。大学へ通うのに便利なように駅のマックデバイとを始めたそうだ。大学入試の推薦を受けるためにトレーニングを受けた「面接練習」が倍との面接でも役に立ったと、傍らの母親が笑いながら言葉を添える。

 こうして何時間かを過ごし、駅まで送って貰って、新幹線に乗ったのは新大阪発6時48分。日曜日としても空いていると思っていたが、名古屋を出る頃には満席に近かったから、「のぞみ」の止まらない駅を利用する客が入れ替わり立ち替わり乗車しているようだった。21時43分東京駅着。

 東京は、さくらの開花宣言が出されていた。

 今日はお彼岸。

2022年3月20日日曜日

断片化とみえない全体性

  量子論的宇宙観から見た世界は、2点に要約できる。

(1)世界は主体がみることによってみえる。主体の数だけ世界が多種多様、種々雑多にある。「わたし」がみる「せかい」は、世界の断片である。

(2)「わたし」にとって世界は、したがって広大無辺、混沌、とらえどころがなく、わからない。

 じゃあ、人の数だけ世界があるかというと、そうでもない。ヒトが群れて暮らす動物であるように、「せかい」は重なり合い、あるいは別様となり、他者を鏡として己を写しみるように、相関的に形を成し、また形を変える。それが関係的な様相を呈して、それぞれの主体の裡側に「せかい」を形づくる。蟹は己の甲羅に似せて穴を掘るように、ヒトも関係的にかたちづくられた「己の甲羅」に似せた「せかい」しかみていないともいえる。

 要は「わたし」は断片を生きている。でも、他のヒトが生きている「せかい」は、また別様であろうから、そこから受けとる差異が刺激となって、面白いと感じ取れる。おしゃべりもそう、本を読むのもそう、そう思うことが世界に接する作法かも知れない。

 コロナウィルス禍の到来に際して、三者三様に語り合った『ひび割れた日常』(亜紀書房、2020年)については、一度触れた。その末尾に文化人類学者・奥野克己が書いていることが気にとまった。

《「お前たちの人生は断片化しているのではないか。もう一度、俺たちとの関係を見つめ直してみよ」という、自然から人間への垂訓なのかもしれない》

 と記す。前段で彼がかつて現地で目にした話をする。

 身の回りで相次いで起こる死に少年の気がふれて熱を出して寝込んでしまう。うなされて大声を上げたり、喚き散らし暴れ回って手が付けられなくなる。何かがとりついているとは書いていない。とりついていなかったとも書いていない。シャーマンがやってきて、いろんな160人もの(シャーマンの恋人という)霊を呼び出して言葉を交わし、その世界を褒め称え、感謝を献げ、送り返し、翌日、少年は何事もなかったかのように平生に戻ったという事例を挙げる。そして、シャーマンが憑依することよりも、少年がとりつかれて文字通り「気が狂う」ことが、霊の世界を感知して感応していることとみて、いたく衝撃を受けたように記している。そして、シャーマンの向き合い方にこそ、世界の全体性にまるのまま向き合って、諸々の精霊の力を借りて少年の正気を取り戻す祈りを捧げるものであったとみなしている。

 私は、いくぶんアニミズムに感化されやすい傾きを持ってはいるが、じつはあまり信心深い方ではないし、宗教への傾倒というか、神々への信仰心は持っていないと思っている。たぶんこれは、量子論的宇宙観からいうと、世界は混沌、「わからない」ということを感じていることじゃないかと考えている。つまり、この文化人類学者のとらえ方は、私たちの世界が「わからない」ことに取り囲まれて成り立っていて、たまたま私たちは、目に見える、理知的に知解できる断片を世界として遇しているのではないかと考えさせる。

 これは、歳をとってますます「わからない」ことが多くなったという自覚と共に「わたし」をとりまく「せかい」の茫洋として混沌の感触と、うまく見合う。オカルト的にそれを「理解」するのは、たぶん「わかってしまう」短慮かもしれない。むしろ、「わからない」ままに、「わたし」の知見の地平線の向こうに広がっている闇の「せかい」を感知していると受け止めた方がいいのではないか。そんな気がしている。

 じつは昨日、従兄弟の訃報のことを記した。そのことを考えている間に、私の住まう団地の上階の住人が、先月半ばになくなり、今月上旬に葬儀を済ませていたそうだと、さらに上階の現在団地の理事をしている方から知らせがあった。上階の住人が身体が弱って歩くのが難しくなっているということは、昨年、外で出会って立ち話をして知ってはいた。身体は弱ってきたが、「この歳になって、親は大変だったろうなと遅まきながら思ったりしてね」と笑いながら、話すことはなかなかしっかりとしたものであった。そういう世間話をする間柄ではあった。奥方や娘さんとは、もう十年以上も前のことだが、挨拶をする程度であった。

 その彼が、ここしばらく前に入院しているということは聞いていたが、なくなっていたとはついぞ気づかなかった。文化人類学者の例示した少年は、敏感に「せかい」の精霊たちのざわめきを感知し、どう対応していいか分からないままに熱を出し、うなされ、叫び、暴力を振るうという所業に及んだのであろう。つまりまだ、「せかい」の断片化にならされていなかったに違いない。ところが私ときたら、断片化も極まっているから、「せかい」の目に見えないものは存在しないとしか感知できない。「気が狂う」こともできない。

 もしコロナが何かを問いかけているとしたら、まずその問いが何かを感じ取らなければならない。その上で、「わたし」はどう応答するか。

2022年3月19日土曜日

迷子になった

 昨日の予報は1日雨模様だったのに、朝の内はどんよりとした曇り空。雨が落ちる11時頃まで6kmほど離れた見沼田んぼ・マルコのボランティアがあるというので、カミサンを車で送り、歯医者に行って抜いた歯の型を取る。雨の中をいつものように歩いて帰るのは大変だろうと、やはり車で迎えに行くことにした。

 歯医者の治療が早く終わり、30分ほど早く車のおける総持院の傍の駐車場まで行ったものの、少し歩いてこようと、東縁沿いを近くの国昌寺まで歩き、裏道を通って戻ってこようと出かけた。裏道を辿ると15分ほど早く着いてしまう。ほんの少し大回りをしてもいいかと考え、舗装していない樹木の養生をしている踏み跡を辿って200mほどを抜け、舗装路に出た。そこから北西へ向かうつもりだったが、道がちょっと北寄りになっている。と、大きな車通りに出た。こんな筈はない。だが少し西へ寄れば、総持院への道があるだろうと見当を付けて向かうと、案の定、総持院入口の看板が立っている。そこを左へ曲がる。細い舗装路だが、舗装していない枝道が所々にある。どこかこの辺を入るんじゃないかと思ったが、車の入れる道じゃない。入口の看板は車向けだろうから、ここじゃないよなと思いつつ進むと、なんと総持院から来る車道にまた出てしまった。

 そろそろ約束の11時になる。と、カミサンから「車のところにいる」とメールが入る。「今、迷子になってる」と返信する。スマホに「総持院はどこか教えて」と声を入れると、地図が表示され、総持院が明示される。国昌寺もあるのだが、私の現在地がわからない。「現在地を教えて?」とまた声を上げると、小さく青い丸ポツが現れるが、今度は総持院が消えてしまっている。まいったなあ。

 と、ヤクルトおばさんがバイクで通り過ぎて、先で止まる。ご近所のおばさんが出てきて、何やら話している。割り込んで、「総持院へ行きたいのだが」と訊ねる。「あのカーブミラーの先を左へ入ると教えてくれた」。だがカーブミラーの先には枝道がない。と、軽トラに乗ったおじさんが脇の家へ入って止まった。走り寄って総持院への道を訊く。「ああ、カーブミラーのと頃を右へ、すぐにもう一度右へ行って突き当たりを左へ、すると十字路があるからそれを左へまっすぐ行くと総持院だよ」と丁寧に教えてくれた。だが、右右左左と覚えて小道を辿る。道の両側は植え込みが塀の代わりをしている。

 細かい屈曲を辿って最後の十字路を左へ入ると、向こうから軽トラがやってくる。細いから脇の植え込みの隙間に身を寄せて、軽トラの運転手に手を挙げて道を尋ねる。「そう、これを行けば右手に鐘撞き堂があるから分かるよ」と応えてくれた。

 こうして、10分ほどルート・ファインディングをして車にたどり着いた。やれやれ。

 ところがカミサンは、「迷子になった」と聞いて、惚けが始まったんじゃないかと心配していたと笑う。町歩きの時は、大体の見当を付けて歩いている内に目印になる通りや遠方のランドマークか何かを見つけて、ルートファインディングを楽しむのだが、植栽の養生をしている高台の栽植地に入ると、道はくねくね、植栽はランドマークにならないということもあって、とんでもないところへ向かってしまう。山歩きの感覚と違うんだねと思うと共に、方向感覚が狂い始めているようにも感じる。

 車に乗って走り始めるのと雨が落ちてくるのがほぼ一緒であった。予報も大したものだ。わが身も、おおよそ年相応に老けていっていると思った。

2022年3月18日金曜日

身に大きく響く報せと揺れ

 従兄弟というのは不思議な存在だ。明治生まれの私の父は長男であった。次男の叔父は、家業を継ぐわけにも行かないだろうと、当時は次三男を大学や軍隊へ行かせた例に漏れず、大学へ行き経営コンサルタントのような仕事をしていた(らしい)。

 その叔父の長男が私より一つ下、2番目の長女がいて、その下の次男が私の末弟と同じくらいの年と、子どもの頃から聞いて育った。世間体にまみれて己を立てていた母親は、私より一つ下の従兄弟の消息を、私を叱咤激励するために口の端にのせたのであろう。むろん名前は知っていたし、何かの折に会ったこともあったようにぼんやりと記憶しているが、覚えてはいない。遠く離れて暮らしているから滅多に会うこともなく、大きくなった。

 実際に顔を合わせて、ああこんな人だったのかと知るようになったのは、わりと長命であった叔父や叔母の逝去や法事などの時。すでに私も還暦を少し過ぎており、当の従兄弟も50代半ばだったであろう。その間に何十年もの空白がおかれている。その空白期間こそ、ご当人にとっては人生の主要な活動時期。仕事も子育ても活力を持って向き合っている時。その期間を隔てて会うということは、振る舞いも人柄もすっかり出来上がって後に(久々に何十年の径庭を経て)出会うことになる。何をしてどう生きてきたかも全く知らない。それなのに、昔からよく見知った人のようにすぐに打ち解けて、いろいろと語り合う間柄になる。不思議であるし、面白いことであった。

 その叔父の次男とおしゃべりしたのは、十数年ほど前の祖父母の法事の時だったか。大阪に住む高齢の叔母夫婦を車に乗せて高松までやってきていた。彼がどんな仕事をしてきたかを聞くことはなかったが、人の話をやわらかく受け止める懐の深さに感心した。

 その後、メールで遣り取りをするようになり、賀状の交換も続いた。彼の奥さんの母親の介護もあって、奥さんの実家のある霧島に居を移したと知らせがあった。私が山歩きをしていることを知って、「霧島山に登ったことはある?」と問い、「いや、九州の開聞岳と霧島山と祖母山が残ってる」と応えると、「ぜひ上るときに、家に立ち寄って下さい」と元気な応答があった。そのときだったか、土地の改良に取り組んでいて、これがなかなか厄介だが面白いという話もしていて、その自然と一体となって身をおくことを楽しんでいる風情が、どことなく私の感覚と響き合って、面白く感じていました。そのとき彼の奥さんが私のブログを読んで面白がっていると言葉を添えてくれ、私も霧島山には一度足を運ばねばならないなと思っていた。

 ちょうど山歩きの調子に乗っていた昨年、キリシマツツジの咲く頃に開聞岳と霧島山と祖母山に行こうとプランニングもしていた。ところが4月に、私の滑落事故と救助・入院と長いリハビリ期間があり、思いが果たせなかった。

 今年の正月の賀状には、「私は突発性難聴や高血圧とお友達になってしまいました」と書き添えて、やはり高血圧や痛風に悩まされている私と同世代になったとやさしい言葉を送ってくれていた。また「パソコンがダメになりメールの遣り取りができません」と断りがあった。こちらも思い当たることに見舞われていて、アナログ世代の壁に彼もぶつかっているのかと可笑しかった。

 その彼の奥さんからつい2日前、その従兄弟が逝去したと知らせが届いた。3月1日になくなり、5日に葬儀を済ませたという。ま、コロナの「蔓延防止措置」ということもあるから、葬儀に顔を出せないのはやむを得ないとしても、あまり突然の訃報に驚いている。

 その驚きの日の深夜に、ゆっさゆっさと揺れが突き上げてきて、床の中で「これは、大きいな。何時?」と声を出し、カミサンが「3時」というのを聞いたままで、目が覚めず、また夢心地に溶け込んでしまった。ところが夜中にトイレに行ったとき時計を見たら、3時半頃。へえっ、まだ30分ほどしか経ってないの? とヘンな気分になった。朝そのことを話すと「23時**分といったよ」と返事が返ってきた。それくらい、突然の揺れと目覚めと、また夢の中であった。

 霧島に住む従兄弟の逝去の訃報も青天の霹靂。わが身のどこかに、ど~んと響きを伝えている。夢であったらいいのにと思いながら、奥様にお悔やみの手紙をしたためた。

2022年3月17日木曜日

洗脳の淵源

 このところTVにロシアのプロパガンダを信じ込んだロシア人のインタビュー画像がよく出てくる。一様に「ウクライナが親露派の人たちを殺戮している」とか「街を爆撃しているのはウクライナ軍だ」と大真面目に話している。あるいは、海外に住む子どもが父親と電話で話して、「お父さん、それはちがうよ。ロシアがウクライナを攻撃してるんだよ」と話すと父親が「お前はどうしてそんな嘘をつくんだ」と怒り狂うような言葉を発している。聞いていると、ただ単に政府の情報操作に操られているというだけでない、それを受け容れる当人の内発的なナニカを感じる。それは、なんであろうか。

 ひょっとしたら〈ロシアがウクライナを攻撃するわけがないじゃないか。だってウクライナはソビエト時代には同じ国だったんだよ〉と躰が反応している。ウクライナの親欧米派がNATOと組んで親露派に対する虐殺を行っている。ロシアはそれを救出に出向いているに過ぎないと、本気で当局情報を信じている趣がある。こうなると、真偽の判断が、ご本人の身に刻んだ感覚に基づいているから、外部からそれを「洗脳だよ」と指摘しても、そちらがフェイクということになる。

 昨日の記事ではないが、私はそれを目にし耳にする毎に、77年前までの日本の親父やお袋のことを思い出す。彼らは市井の民だったから、日本の軍事展開の正当性などについて口にすることはなかったが、家の窓から日の丸の旗を振る3、4歳の長兄が新聞に載った写真をアルバムに見たことがあるから、それなりに当時の趨勢に素直に反応していたのであろう。

 戦前戦中の日本は、言論統制も情報操作も、今のネット時代とは比較にならないくらい、情報格差が大きかった。海外からの情報が入手できるのは、エリートや知識人たち。一般の、それこそ市井の民は、ラジオや新聞、本を通じて流れる情報しか接していない。加えて当局の不都合な真実に触れさせない言論統制と治安維持の強権とがあったから、ご近所の同調圧力という監視の目も含めて、容易に政府見解が一途に広まったとも考えられる。

 ロシアの言論統制や情報操作をかいくぐるようにして、今はネットの情報が世界規模で経巡るから、国内世論も二分されたように映るけれども、その淵源が、ソビエト時代以来、70年余の暮らしの堆積がベースにあるとなると、単に「洗脳」と呼ぶわけにはいかない。逆に欧米派の人たちがアメリカ文化に洗脳されている、毒されていると思っているかも知れない。つまり、それぞれの身に刻んできた文化の堆積が淵源となって、正義性が噴き出しているわけであるから、それを外から修正することは難しい。自分のことも、同じ重みを持ってそうだと言える。

 とすると、どうやって、この文化堆積のしがらみを抜け出して、世の中に流布する「情報」の真偽を見極め判断する方法を手に入れるか。それがいま、一人一人にとって喫緊の問題となる。異なる狷介を信じる相手を「論駁」しても、それは自分を正当化することにならない。バカだなあ、あんなことを信じちゃってと馬鹿にしても、自分の言い分が正しくなるわけでもない。

 どうしたらいいか。

 結局、世界に起こっている事態が問いかけていることに応答する自分の感性や感覚、それが元になって繰り出される見解の根拠は何かを、一つひとつ確かめて意識化するほかない。いずれ直感的な判断が前面に出るであろうが、それをいったん飲み込んで、何を根拠に私はこう考えているのだろうと、吟味することしか、手はない。それが、時代の求める反応速度に相応していないとしても、それはそれで仕方がないこと。そういう経緯を踏まえて表出される見解が、時間を掛けて周囲の関係者に信頼を得ていくものだとわが身の置き所を心得るしかない。メンドクサイもんだね、ニンゲンて。

2022年3月16日水曜日

いまのロシアはかつての日本だ。

 ロシアのウクライナ侵攻は、市街戦の様相を呈するようになるのだろうか。爆撃を受けて崩壊した建物と街の様子が、シリアの内戦を思わせる。火災を消そうとしている消防士たちや被災者を救助する人々の姿が、国と国との戦争というよりも、戦争というものは市井の民の暮らしをまるごと巻き込むという戦争の実相を見せつける。ふと思うのは、大東亜戦争とか15年戦争とか太平洋戦争といろいろな名で呼ばれる「先の戦争」。それらの戦争が市井の民の暮らしをまるごと巻き込んだと(意識して)みているのは、ほぼ日本国内の戦災の場合。直に戦場となった中国やアジア太平洋諸国・地域の民の暮らしのことを思いやったことは、あまりないと気づく。

 あらためて考えてみると、今回の戦争に関してロシアが受けている、資金凍結や石油の禁輸、その他の経済封鎖などは、「先の戦争」で日本が窮地に追い詰められていった過程をみるようだ。窮鼠却って猫を噛むようにして真珠湾攻撃になだれ込んだことが思い起こされる。それをアメリカの暴虐という風に私たちは考えてきたが、今回のウクライナ侵攻の流れを見ていると、ちょっと違った光景が目に浮かぶ。

 ウクライナの人々が「なぜ? どうしてロシアと戦争になるのよ」と戸惑ったように、1930年頃の中国の人々は思ったのではなかろうか。世界の気風として帝国主義の時代・ブロック化の趨勢という風潮はあったにしても、日本が中国侵略をすすめる動機は、とうてい庶民の暮らしの裡側から醸し出されてきたものではなかった。もしそれを、海の遙か向こうのアメリカがみて、〈ちょっとよせよ、そこまでは〉と口を挟んだとしても、おかしくはない。実際、日露戦争と第一次世界大戦勝利後の日本の大陸進出に対して、アメリカが(自国の利権を確保しようと)満州経営に対しても一枚噛ませろと乗り出してきた事実もあった。にも拘わらず、日本は東アジアのことは大東亜で囲い込むと突っ走ったのであった。これは、いまのロシアの振る舞いと同じようにはみえないか。

 盧溝橋にしても柳条湖にしても、いまのロシアがいう「ウクライナの親露派虐殺」とか「NATOの脅威を事前に排除する」といってることとか同様に、外から見てみると、まるで漫画のような下手な口実作り(というと、漫画に失礼だが)にしかみえない。国内の情報統制とか、治安維持の手法も、プーチンの行っているそれと大差ない。

 既視感(デジャヴ)に溢れた展開に胸が苦しくなる。海外を旅していたロシア人が、金融封鎖のためにクレジット決済ができず、ルーブルの下落もあって通貨交換もしてもらえないで、文字通り立ち往生している。ドイツなどヨーロッパでも、ロシア系住民がさまざまな非難攻撃を受け、差別に苦しんでいる。そういう報道をみると、ましてアメリカにいた日系の人たちがどのような非難を浴び、どのように差別されていったかを思わせて、心が痛い。

「先の戦争」に関して、〈日本は悪くない。追い込まれて戦争になった〉と日本擁護論をぶっていた人たちは、いまのウクライナ戦争とロシアの振る舞いを見て、当時の日本の立場を思い起こしているだろうか。ロシアを非難するときに、自己批判的に自問自答しながら言葉を繰り出しているだろうか。

 あるいは、こうも話は広がる。「憲法九条を堅持すると主張していた人たちは、ウクライナの現状に接して、どう主張するだろうか」と揶揄うような論陣を張る人たちがいる。それを耳にしたとき私は、そうだよ、憲法前文の精神を体現した「外交」をしてきてこそ、その問いに真摯に応える応答ができると思った。そんなことには目もくれないできていて、情勢が戦争になってから、昔の証文を取り出すように持ちかけるのは、お門違いってもの。人のふりみれわがふり直せってことだよ。

 国連にしても「敵国条項」を外しもしないで、「国際貢献」を求められていると応じてきた日本ではあったが、「第二次世界大戦の人類史的反省としての日本国憲法」という位置づけを崩さず、それを体現した外交を続けてさえ来ていれば、それに見合った海外からの信頼も得たであろうし、現時点での、自国利害だけをベースにしたことではない国際協調の発言も重みを持って発することができたに違いない。

 いまさらそういうことを繰り返して主張する気はない。だが戦中生まれ戦後育ちの私たちの身には、「新憲法」のイメージが希望と共に刻まれて、アイデンティティの一角を為している。「九条を堅持する」というよりも、「九条を含む憲法前文の精神」を矜持として保つことが、ウクライナ侵攻を非難し、ウクライナを支える世界を強く押し出して、ロシアを含む強権的な国民統治を廃絶していく道筋を開くだろうと、思ったりしているのである。

2022年3月15日火曜日

陽気を引き連れてお花見

 昨日の最高気温は25℃、夏日。陽気に誘われたわけではなく、陽気を引き連れるように「お花見」をしました。ご近所の公園のカワヅザクラが本当に満開。飲み物と食べ物を持ち寄って、昼食を一緒にしようと、ご近所のストレッチ仲間の男たち5人が集まりました。公園の平日はいつも幼子をつれたママたちや保育園の子どもたちで賑わっています。その真ん中で「お花見」というのはちょっと恥ずかしいから、西側の高台の上に陣取っています。ここは土日でもない限り子どもたちも上がってきません。何と、テーブルがあります。誰? こんな大きなものを持ってきたのはと聞くと、折りたたんで背負子に乗せて担いできたという。椅子まで持ってきています。

 おつまみ代わりのお寿司とビールはまとめて買ってきましたが、あとは一人一本ずつ好みのお酒とおつまみを持参しています。日差しの当たらないところを好ましく思う程、温かい。カワヅザクラを見下ろしながら、3時間ばかりおしゃべりをして、花見酒を楽しみました。

 やはりウクライナのことが話題に上ります。海外旅行中のロシア人が、クレジットが使えなくなり、といってルーブルも交換に応じてもらえず、立ち往生しているという。そうだよねえ、本当に困るだろうなと気の毒がられていました。国民国家の一員であることが、このように降りかかってくる災難になる。

 何がグローバル化だよと思う反面、それがあるから、武器弾薬を使わずロシアに制裁を加えることができていることや、SNSを通じてたちまち世界中に出来事が伝わることのもたらす「威力」に、ちょっと時代の変わり目に立ち会っているような気配を感じていました。

 言うまでもなく、酔狂の上の年寄りの談義に他なりません。

 陽気を引き連れてきたというのは、じつはこのお花見企画は、気温がそれほど上がっていないときに別の曜日に企画していました。ところがそちらの日は雨模様と、予報が変わったために、じゃあ1日早めて月曜日にしようと、急遽せっていしたもの。すると予報気温も、24℃と急に書架の気候になって、お花見が一挙に盛り上がったという次第でした。「ソメイヨシノのお花見もするの?」と連れ合いに聞かれたが、どうします? とも話が出ましたから、また半月ほど後にお花見があるかも知れませんね。

2022年3月14日月曜日

カインの末裔

 2021/3/13の記事《「怒り」は、何処から湧くのか?》を読み直して考えたこと。

 西村賢太の小説を読んで昨日書いていたのと同じことを、一年前にも考えていたことがわかった。「普段、躰と思いとがいつも一緒に歩いているわけではない」というのに気づいたとき、自分は卑小だと感じることがあるし、人のそれを見ると醜悪だと思うし、裡側から、なぜか分からぬがふつふつと湧き起こる怒りを、誰彼にぶつけてしまう身勝手さも、躰と思いの歩調が合っていないがために噴き出してしまうわけだ。

 そうか、私たちはみな、カインの末裔なんだ。いい子である弟・アベルに対する憎しみがなぜ湧くのか、兄のカインは自分自身ではわからない。それが社会的な仕組みや、気風や、人が積み重ねてきた累々たる文化のもたらしたものであることに、普通の暮らしをしている者にはみえてこない。だからこそ、文學という領域が成り立つのでもあるが、この躰と思いの齟齬、乖離をどう身の裡で調整していったものか。そう見つめるのが、「当事者研究」の視線だと思った。

「普通の暮らしをしている者にはみえてこない」視線と「当事者研究の視線」との開きが、わが身の裡に堆積している「累々たる文化」の何が、どう作用して、なぜ、いま、ここで噴き出しているのかと身の裡を振り返ってみたときに、やっとほぐれてくる戸口に立てる。西村賢太の小説は、それでも繰り返してしまう人の卑小さ、醜悪さ、身勝手さを描き留めているわけである。そういう意味で、まさしく「わが内奥の鏡」。それを真梨幸子の言うように「人生の裸踊り」と呼ぶのは、人が社会的に生きるというのは、ちゃんと衣服を着て、言葉も振る舞いも、社会的存在に相応しい形をまとうことを意味している。それを「文化」と呼んできた。

 とすると、子どもの頃からなぜか分からぬままに身につけてきた「文化」の衣装を脱ぎ捨ててこそ、わが身の実存がみえると考えているのが、「文學」なのか。「累々たる文化」というのは、十二単のように重ね重ねて身につけてきたもの。それを一枚ずつ脱ぎ捨てて、「裸踊り」をしてこそ「わたし」がみえると思っていたのに、脱ぎ捨ててみたら、動物としてのヒトのもっとも卑小で醜悪で身勝手な様しか残らなかったというのが、西村賢太の作品に描き出されていることと読むことができる。

 西村賢太は、彼の執心した藤沢清造の生き様が、実はそれであったとみている。明治22年生まれの藤沢清造は、「昭和7年芝公園内六角堂にて凍死、42歳3ヶ月」と西村は記している。藤沢清造の著した『根津権現堂裏』という作品に魅入られた西村の仮託する主人公の振る舞いが『どうで死ぬ身の一踊り』に書き落とされて、ヒトの卑小で醜悪で身勝手な様しか残らなかったとしたら、それこそが、「人生ってものよ」と西村は、処女作で遺言したといえるかもしれない。「2月4日、赤羽から自宅に帰るタクシーの中で意識を失い、翌の早朝、東十条の病院で亡くなった」のを、真梨幸子は西村の原体験ともいうような記憶喪失の出来事と重ねて、「記憶に引きずられるように魂は過去へと吸い込まれ、ついには(西村が作品中につくりだした)北町寛多と一体化してしまったのではないだろうか」と記して涙している。

 となれば、今少し、彼の他の作品にも目を通さなくてはならないと思った。 

2022年3月13日日曜日

身が混沌とするワケ

 先月5日に死去した西村賢太の『どうで死ぬ身の一踊り』(講談社、2006年)を読んだ。2/9の朝日新聞に町田康が《わが身を捨てた先の私小説》と大見出しを付け、《卑小、醜悪、身勝手・・・人間の真実とらえた文章の魔術》と袖見出しの寄稿をみて、カミサンが図書館に予約して、読んだ。「おもしろかった?」と聞いても、面白いとは言わない。だが「読んでみるといい」というから手に取った。

 いや、読むのが苦しかった。なんだこれは、と思いながら、何日か寝床で手に取って、読み進めていた。読んでいる途中の昨日(3/12)、やはり朝日新聞の読書欄に真梨幸子が《分身に託した人生の裸踊り》と表題して「西村賢太の私小説」を3冊紹介しながら「ひもとく」ことをしている。それを見ると、何だ、他の作品もあるんだとわかる。真梨の評をみると、作家としてはなかなかの腕のようだと感じて、何とか読み終わった。

 どこが読むのに苦しかったのか。この作品の主人公が大正期の作家・藤沢清造に執着し、その業績作品を辿り、毎月の命日に東京から能登まで足を運んで墓参し、ついには能登にも部屋を借りて住みつつこの作家の足跡を辿るというのだが、実はどこにも、なぜそれほどに惚れ込んだのかについての言及はない。つまりわが身をに問いかける言葉はなく、ただひたすら傾倒し、執着し、遺品を手に入れて整理し、全集の出版に、借金までして入れ込む。それに対する冷ややかな目に憤り、粗末なあしらいに怒りまくって、身近な人に暴力を振るう。でもそう振る舞いながら、それが身勝手であり、イケナイことだと思うから、すぐに反省して詫びを入れ、詫びている途中で、そのわが身の不甲斐なさとそれに反する相方の振る舞いに憤ってまた暴力を振るう。何ともやりきれない。

 なぜ私が苦しいのだ。これに似た苦しい時期があったような気がする。わが身が情けなく、人物に執着というより、どうしてこんなにモノゴトが晴れて見通せないんだと呻吟していたときがあった。わが身がなぜコトに執着するかに思い至る思考回路を持っていなかった。その最初のほぐれは、山口乙矢だったろうか。浅沼稲次郎を殺害した17歳。私も17歳であった。なんとなく思い当たったのは、私には「標的がいない」ということであった。社会改造を志向して赤尾敏に師事した山口乙矢が、「標的」を一人一殺して自死するというのは、どうにも私の「志」に合わない。合わないと見切ったことが、ほぐれる糸口となった。それと同時に、人は自分が「標的」とするコトが、全く目標物ではないことにも執心してしまう。つまり自分が意識することとは別の衝動に突き動かされて、自らのこころが「標的」に向けてとらわれてしまうものなんだと感じたのであった。

 大学に入って、今度は左翼の(山口乙矢に似た)志をもった人たちとも出合い、彼らの政治的な振る舞いをうんとたくさんみた。その過程で、わが身を振り返る回路がほの見えてきたように、感じた。大きなきっかけになったのが、宇野経済学の方法論であった。と同時に、自己自身をも対象化せずに「標的」に突き進んでいく社会活動家たちと、彼らの政治路線が持っているある種の熱狂に、自己投入できないわが身を感じ続けていたと、いまならばクールに言える。

 山口乙矢を契機にほぐれたのは、何につけ、なぜそれほどにコトに執着するのかとわが身の裡に問うこと。そうしないではいられない、自己対象化の視線であった。やがてそれがクセとなり、長年の間に身にしみてきて、モノゴトに淡泊になった。人との関わりにもこだわりがなくなり、それは逆に、人を想う思いが薄くなっていくようで、怖いものがあった。

 町田康も真梨幸子も「私小説」という。自分をさらけ出して書くことが私小説なのか? と私は疑問を持つ。何か架空の人物に仮託するにせよ、あたかも我がことのように描くにせよ、ものを書くということは、作者の自分をさらけ出す。もちろん包み隠すことを上手にする創作もないわけではないし、たいていの小説はそのような創作手順を踏む。だが言葉というものは、そもそも語る人の内面を引きずり出してしまうものだ。いつであったか、70年代の半ば、夜の学校の生徒にある「課題作文」を出したら、「自分のことを知られてしまうのは嫌だが、仕方がない」と冒頭に書いて提出してきた生徒がいた。そうか、それは悪いことをしたと思ったが、そうだよね、書くってコトはそういうことだねと教えられた気がしたことを覚えている。

 上手にできた作品には、そこに描き出された人の生き方が読み手の心裡に触れて衝撃をもたらすのは、その衝撃が、嫌悪感であれ、目を背けたくなるような醜悪さであれ、あるいは求めようとして求められなかった感動であっても、読み手の身に刻まれたなにがしかの「覚え」と共振しているからである。順接しているか逆説しているかはわからない。書かれたものが人の胸を打つのは、意識していなくとも読み手の身の裡に「覚え」のあるなにがしかの感官や思念が揺さぶられるからではないか。それが何かは、読者が自ら胸の奥から引きずり出してこなければならない。だから作家の実体験をさらけ出したからといって、それを「私小説」と呼んで、ある種の区画割の中に封じ込めるのは、適切とは思えない。人間の生きるということの根柢にあるものを取り出して描く。それが、卑小であれ、醜悪であれ、実体験のままであれ、作家の創作であれ、読むものにとっては、作品自体が独立した形で現れている鏡である。

 そこに、いや実はこの作者は、まさにこの作品に書かれた主人公のように生きて、この作中の心魂傾けた作家に似て、ほとんど行き倒れのように若死にしたんだよと呼びかけるのは、その作者をよく知る町田康や真梨幸子という仲間内の作家であって、読者(である私)はまた、別の感懐を抱く。

 そうやって、作家と作品を切り離して考えたとき、それにしても、「裸踊り」と評されるような混沌に身を置いて生きなければ、このような作品が生まれなかったのだと思うと、作家というのも大変だなあと(わが身との遠さを見計らい)、畏敬の念を抱いてしまうのである。

2022年3月12日土曜日

世界は変わりつつあるか

 ウクライナの戦争について、東洋経済オンライン(2022/03/11)の《「情報戦」でウクライナが圧倒的に優勢な理由》と見出しをつけた本田哲也記者の記事が目を引いた。読み手の方に「ウクライナが優勢」という表題を歓迎する気分も作用している。

 本田はITのネットワークやSNSがもたらした「戦争」の変化をみつめて、3点の特徴を挙げる。

(1)ストーリーではなくナラティブが力を持つ世界が展開している。

(2)大きな物語ではなく、個人のナラティブが人々の心に響く。

(3)プロパガンダが通用しなくなっている。

《ナラティブとは「社会で共有される物語」のことだ。「ストーリー」が起承転結のフォーマットで一方的に語られるものであるのに対し、ナラティブは「共に紡ぐ」、つまり共創という特徴がある

 と解説する。ロシアがナチス流のプロパガンダを駆使しているのに対して、ウクライナはSNSやITのネットワークを用いて、ナラティブを発信していて、優勢に立っているという。

 ストーリーというのは「起承転結」を持つ、つまり完結した物語。それに対してナラティブは断片に過ぎない。

《ウクライナはロシア兵の捕虜のためにホットラインを開設した。その名も「come back alive from Ukraine(ウクライナから生きて帰る)」》

 捕虜となったロシアの兵士が親たちとネットで言葉を交わす。これはTVでロシア兵が口にするのをいくつか耳にした。

「演習だと聞いていたのにウクライナに来ていた」

「母親と子どもを殺せと上官が命令した。私と直属の上司はそれを拒んで助けようとしたら味方から銃撃された。上司と母親は死んだが、私は子どもを連れて逃げ、今ここにいる」

 という身につまされるような言葉も聞いた。この語り口は、いわゆる捕虜が敵の宣伝のためにそう喋らされているという風情ではない。あるいは、ひょっとしたらそうかも知れないが、「ホットライン」から漏れてくる言葉としては、胸を打つ。それは本田は、ナラティブは「社会で共有される物語」と分節化する。私流に言えば、世界の断片。神は微細に宿るという、その「断片」だから、余計私たちの心に響く。たぶんんこの「ひびき」は、視る者聴く者に問いかける余白をもっている。視聴する者が余白を埋めることによって「ものがたり」が完成する。それはつまり、発信者と受信者が共に(参加することによって)「共有」することが生み出す響きなのであろう。まさしく本田が「共に紡ぐ」と指摘する物語なのだ。

 それを戦況に影響することとして捉えて本田は、《世論を味方に付ける》と読み取っている。だがいま日本の市井の老人としてみている私としては、そこにこそ「真実」を読み取るきっかけがもたらされていると感じる。明らかに発信者の能動的な「意図」が感じられるプロパガンダではなく、いまそこに起こっている国際情勢の真実を読み取るリテラシーが込められて提示されているのだ、と。

《ロシアによるプロパガンダや、ウクライナによるSNSなどでの情報発信という当事者に加えて、一般の人がどんどん参画してきてナラティブを作るという構造》

 と、本田は指摘して、それを《「シチズンジャーナリズム」ともいえる》と述べる。

 つまり、SNSやITネットワークは、それを通じて感知している人々を、ことごとく「当事者」として巻き込んでいる。そこでは恒に、「では、あなたはどうするのか」という問いが投げかけられ、当然、応答することが求められている。知らぬ顔の半兵衛を通すわけにはいかないというのが、私の身の裡に感ずる市井の民である。そう感じた点で、世界は変わりつつあるのかも知れないと、思う。

 一匹の蝶のように、一つひとつ丁寧に、「わたし」の応えを重ねていく。そうすることが、いつか、メキシコで竜巻を起こすことにつながるかも知れないと、たぶんメキシコにいるであろう孫や子に呼びかけるように、綴っていく。

2022年3月11日金曜日

どう向き合ったらいいか、困る

 朝のTVニュースを観ていたら、トルコの仲介でウクライナとロシアの外相が交渉をしたと報道している。ロシアの外相の言い分を聞いていて、何と応じたらいいか困ってしまった。

《ロシアはウクライナに侵攻していない。アメリカがウクライナでやっていること、ロシアはそれを警戒して国境沿いに展開している。アメリカはウクライナで生物化学兵器を使おうとしている》

 と、大真面目な顔をして話している。ウクライナの外相は、「そういうフェイクを長々と聞かされるのは我慢ならないが、人道回廊の保証を取り付けたいからここにいる」と応じ、外相としてすぐにでも(担当者に)電話をして「保証」ととりまとめてほしいと要請するが、ラブロフ外相は「それは停戦協議の方でやってくれ」と木で鼻を括る返答。

 〈何だよ、そんな返答するのなら外相会談になんて、出てくるなよ〉と、思わずTVに怒鳴りつけた。

 そりゃあトルコの顔を立てるためさ、とラブロフさんからの応答があるかも知れない。つまり交渉する気はなく、「(いざとなったら)核兵器を使う準備はある」と、重ねて警告するためだったのかもしれない。

 こういう相手にどう応対したらいいのだろうか。考えこんで困っている。

                              *   *   *

「どう応対するって、どういうこと?」

「いえね、ウクライナの外相の立場で考えたら、バカヤローって張り倒してやってもいいくらいなんだけど、それじゃあ戦争しかないってのと、同じでしょう。この場は、交渉なんだから」

「ラブロフの言い分を聞いていると、ロシアの作った物語が見えてくるよね。NATOがウクライナの親EU派と結託して親露派を攻撃している。それに応対して親露派を救出しようとロシア軍がウクライナに進駐しているってことでしょ。」

「でも、そんな事実はないじゃない。」

「親EU派が親露派を虐殺しているって、日本の元総理を務めたヒトも言ってるじゃない。あなたが知らないだけだって言われたら、あなたはどう応えるかね。」

「それはロシアのつくった物語でしょ。前々からアメリカが(世界に向けて)警告していたように、ロシアは演習名目で部隊を展開し、ウクライナを攻撃しようとしているって、報道していたじゃないか。」

「それだって、アメリカが挑発したと受けとっている西側諸国の知識人はいるよ。つまりアメリカはアメリカの物語で動いていて、ロシアはロシアの物語で動いているってことさ」

「じゃあ、埒外の第三者は黙って観てろってこと?」

「そんなことは言ってないよ。あなたがこの戦争に気持ちが惹かれているのは、なぜなの?」

「そりゃあ、もし似たようなことが起こったらと(日本のことを)思うからだよ」

「うん、だとすると、もし中国や北朝鮮が今回のロシアのように攻撃、侵攻してきたらってことよね。とすると、ウクライナはロシアに対する警戒をしていなかったこと、警戒していたら他の手が取れたかも知れないことね」

「うん、敵基地攻撃能力ってことも話題に上がっているからね。でもウクライナが(アメリカの警告にしたがって)現実にロシアの攻撃を察知していたとしても、ロシアの基地を攻撃するってことは、考えられないよね」

「いや、逆だよ。ロシアの物語からすると、NATOの攻撃が予測されるから、その前に敵基地攻撃能力を発揮してウクライナに侵攻したって話だよ」

「えっ、とすると何かい、敵基地攻撃能力って話も、それが正当性をもつってことはないってことかい?」

「そうだね。自国内の正当性を主張する理屈だね。ま、それがミサイル攻撃を含めてどれほどの正当性を持つことかは、今回のウクライナの成り行きをみていれば、自ずから判然とするよ。ロシアもウクライナの軍事施設を標的にして攻撃してるって口にはしているけど、実際はそうじゃないだろ。そもそも敵の攻撃を察知したと(アメリカから通知があったとしても)それで攻撃を仕掛けたら、やっぱり戦争を仕掛けたのは先に手を出した方だと、世界は思うよ。アメリカも、フェイク・ニューズに関しては、イラクなどの前科があるからね」

「じゃあ一度は攻撃を受けなくちゃならないってこと?」

「そうだね。そういうことだよ。別に憲法が規定しているからってことじゃなくて、日本が攻撃をするワケがないって明白な証しはそうやって示すしかないんだよ。いま基本的に世界がウクライナに味方しているのは、ウクライナに攻撃意志はないのに、ロシアが主権を踏みにじったってことだからだよ。そこでは、どんなロシアの理屈も通用しないってことが、日々繰り返し証し立てられている。私たちの世界認識って、そうやって日々繰り返し目の当たりにすることによって、形づくられるんだね。プーチンやラブロフの言い分を、ほとんど狂人の戯言のように聞いているのは、ただ単にアメリカの情報操作に洗脳されているからではなくて、ウクライナにロシアが手を出したってことが非道だと分かっているからだよ。そこが、世界の国際情勢リテラシーの現在地ってことだよね」

「リテラシーを上げるって、じゃあ、どうすること?」

「それが、あなたがいま応答しなければならないモンダイなんじゃないの?」

「・・・?」

「いま国際政治機関がほとんど無力に見えるのは、それが現実ってことよ。今回のウクライナの戦争でみるべきことは、ずいぶん多いよね。世界の国際情勢リテラシーを、極東の小さな国のひとりの年寄りがどうやって磨いていくか。そう思ってこそ、ウクライナの戦争のまさに当事者になるんじゃないか。そう思うよ」

「そうか、当事者研究か・・・」

「それくらいしか力が無いと見切るのか、それでも何かできることがあるんじゃないかと考えるかは、一つの分かれ道だろうけど、それにしても自分の立ち位置を見極めて振る舞うってのは、難しいよね。でもね、一匹の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を起こすって話もある。投げやりにならないで、世界に付き合っていくことだとおもうよ」

2022年3月10日木曜日

核抑止と人間要素

 今日(3/10)は東京大空襲の日。11年前の3・11の前日でもあるが、空襲の方が、いまは切迫感をもって思い浮かぶ。ウクライナで戦争が行われているからだ。またそれが、私たちの日々の暮らしに直結していることも、国際関係における77年の世界の径庭を実感させている。

 今日の朝日新聞の「オピニオン&フォーラム」欄はウクライナ侵攻が核戦争になるかという懸念と東アジアにおける中国と台湾の今後を取り上げて、国際政治学とアジア政治外交史の専門家二人に意見を聞いている。両者ともロシアと中国の「権威主義大国の個人独裁」を前提にして論を進めている。

 核抑止について一橋大学教授の秋山信将は《「核さえ持てば抑止に」は安直》として、《プーチンの頭の中で核をめぐる便益とリスクのバランスがどうなっているか》へ探りを入れて、《欧米の経済制裁でロシアが債務不履行になって国家として破綻したとき、破綻するくらいなら世界を吹き飛ばす覚悟で核兵器を使うかも知れない。そこがわかりません》と展開する。

 その根拠として《ロシアの核戦略の基本政策を読み直すと、国家存続の危機には核を使うとあります。……プーチン氏に対する驚きとは、奇想天外なことをしているというよりも『書かれたとおり実際にやるんだ』という驚きです》と続ける。

 この最後の「驚き」は「人間要素」と言ってもいいくらい、私の抱いているプーチンのイメージとピタリ一致する。ウクライナ侵攻のロシア軍は、当初イメージした作戦の通りにコトが進むと想定して展開している。むろん現場の指揮官はそんなことをしていては、将兵を統括できないからやりくりをするのだが、最高司令官(とそれを取り巻く司令部とロシアの社会的気風)の「書かれたとおりにやる」という「人間要素」を常々感じ続けてきているから、基本的には当初作戦通りにコトを進めようとしてしまう。2014年のクリミア併合時のウクライナの戦力と同様と侮ったと、どこかの戦力研究所が分析していたが、その後の欧米の助力を得て戦力強化を図ったことを算入していなかったというのだ。

 それを指してこの国際政治の専門家が、経済制裁が国家存亡の危機となったときにもロシアは核兵器を使用する(かもしれない)という想定は、もう一つ次元をあらためた展開に見えた。「ロシアのない世界に存在理由はあるか」と(プーチンの頭の中を)この教授は明示しているが、ここまで踏み込むと、いかにもドストエフスキーの世界と重なって、その世界観がビリビリと響いてくる。まいったなあ。

 日本がアメリカから核を借りたらいいんじゃないかという「核共有」の話は、じつは去年11月のseminarで耳にしていた。とのときは、おっ? と思ったが、その話をした友人が、どちらかというと日本の産業社会を動かしている階層に近いところに位置しているから、そういう話が(その世界では)まかり通っているのだと思う程度であった。それがこのウクライナの事態を受けて元首相の口から飛び出してきた。11月の印象が裏付けられたわけだが、秋山信将は「核共有」に触れて、手厳しく現実論を展開している。

《誤解とイメージ先行の議論に見える。……(核は)米国の同意なしには使えない。また例えば中国が侵攻するとすれば、戦術核が配備された日本の基地をまず無力化するでしょう》

 つまり、核を使用してなお、「勝利」する見通しが立っていなければ、核装備はほとんど意味を成さないと見切っています。何時であったか毛沢東がアメリカの核の脅しに触れて、もし核戦争となっても人口が多い中国は決して全滅しない。やれるものならやってみろと居直ったことを思い出す。つまり、核の装備云々をするときヒトはそれ以前の子細を遮断して考えなくなり、単に機能的に、まるでゲームをしているように世界を動かしていしまう。その実例見本のような展開が、いま目前のウクライナで起こっている。そう感じさせる記事である。

 他方、アジア政治外交の専門家である東大教授・松田康博は、経済制裁がロシア経済に大打撃を与え、武力で現状変更を試みても思い通りにならないことと分かれば、台湾を武力統一することがどのような代償を支払うことになるか「周氏は……慎重にならざるを得ない」とみる。その根拠として、《中国共産党にとっては『生活が良くなった』というのが支配の正統性根拠です。台湾を武力統一しても、その結果人々の生活が苦しくなれば正統性の根拠が崩れかねないのです》と述べて、ウクライナの趨勢が台湾の将来に大きく影響することを見通している。

 これも、中国の民の「人間要素」を構造的な一部として組み込んでみていることが感じられて、私の直感に見合っていると受け止めている。

 この二人の専門家の取り上げているプーチンと習近平の世界が観ている「人間要素」は大きく隔たりがある。前者は、ロシアと自身が一体化している。後者は、中国の民と共産党の一党支配というフィクションが、民の暮らしの豊かさに支えられていることを感知している。習近平の「人間要素」は「(民を)支配している」という疎外感を感じていることから繰り出されている。プーチンのそれは、自身と民とが分離していることには耳を貸さない(貸したくない)という「情報統制」によって、自己自身をロシア社会から疎外している結果、生じている。

 こうやって考えてみると、統治者というのは、如何に自己を民の社会において位置づけることができるかによって、社会を統べる底力が築かれるのかも知れないと思う。そこまで考えて置かないと、自由社会の統治者はまた別、というあしらいをしてしまう。日本の政治家もまた、プーチン性を抱えているし、いつも習近平性に誘われている。

 市井の年寄りが観ていると、何だそんなことかと思うことが、案外、当事者には分からないもののようだ。

 岡目八目がいいってことか?

 バカ、縁台将棋じゃないんだって。

2022年3月9日水曜日

容易に同調できない身の裡のわだかまり

 友人から、ウクライナ侵攻に関するユヴァル・ノア・ハラリの「寄稿」のURLが送られて来た。

《ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、2022年2月28日付の英国ガーディアン紙に「プーチンは負けた――ウラジーミル・プーチンがすでにこの戦争に敗れた理由(原題:Why Vladimir Putin has already lost this war)」と題した記事を寄稿しました》

 という、400字詰めで8枚くらいの記事。柴田裕之=訳。

「歴史に学べばプーチンの野望は必ず粉砕される、とのハラリさんの予見には勇気付けられますが、これからのウクライナの長い苦難を思うと胸が痛みます。/マンボーの延長で飲み会のできない呑気な年金生活者ですが、その無力さに歯噛みするばかりです」

 と友人の言葉が添えられている。そう言えば先月彼は「ウクライナへ行ってきます」とメールに書いてきた。「そりゃあエライ、私は〈痩せ蛙負けるな一茶ここにあり〉って声を掛けるくらいしかできませんが」と返信したのであった。

 ユヴァル・ノア・ハラリのプーチン敗北宣告は、プーチンの誤算がすでに証明されたとして、ウクライナの人々の抵抗を讃える内容。同時に、それを目にし耳にしている世界中の「読者」によびかけるもの。なぜ「敗北宣告」できるか。ちょっと長いが、引用紹介する。

《今後何十年も何世代も語り続けることになる物語が、日を追って積み重なっている。首都を逃れることを拒絶し、自分は脱出の便宜ではなく武器弾薬を必要としているとアメリカに訴える大統領。黒海に浮かぶズミイヌイ島で降伏を勧告するロシアの軍艦に向かって「くたばれ」と叫んだ兵士たち。ロシアの戦車隊の進路に座り込んで止めようとした民間人たち。これこそが国家を形作るものだ。長い目で見れば、こうした物語のほうが戦車よりも大きな価値を持つ。》

 虐げられた人々の様子は、何であれ無力な市井の民である私たちの共感を誘う。ハラリは、この状況を作り出したのはかつてナチスドイツの攻撃に耐えた物語を聞かされて育ったであろうプーチンという皮肉を記しているが、今回はヒトラー役に自らを模していることについてのプーチンへの問いかけはない。

 気になったのは、ハラリが賞賛するウクライナの人々の抵抗は、私たちもTV画像を通じて日々目にしている事実。情報が瞬時に駆け巡る世界に私たちは身を置いている。これが76年前と違うと、わが身の裡のどこかが反応している。市井の民は同時に、プーチンと共に歩んでもいるということだ。

 76年前の日本の市井の民はプーチンではなかったか。同じく市井の民でしかない(むろんまだ3歳の)私(の親父・お袋)たちがハラリの言葉に共感するのは、同じ世界に暮らしているという「情報共有」の感触が底流しているからなのか。ハラリの言葉にこころが共振するには、(私には)もうひとつ媒介項が必要ではないか。そんなぽつんと一点の疑念を残している。

 ハラリは、この賞賛の前段で次のように記す。

《……ウクライナ人が1人殺害されるたびに、侵略者に対する彼らの憎しみが増す。憎しみほど醜い感情はない。だが、虐げられている国々にとって、憎しみは秘宝のようなものだ。心の奥底にしまい込まれたこの宝は、何世代にもわたって抵抗の火を燃やし続けることができる》

 もしこれも「そうだ、そうだ」と共感するなら、韓国の従軍慰安婦問題や強制労働に対する、未だ続く反日感情を思い起こさないではいれらない。政府がいくら条約を結んで戦前の精算をしたと言っても、「秘宝のようなもの」は消え去ろうとはしない。ハラリがイスラエルの民であることを勘案すると、彼にはそう言うケンリがあるとは思うが、日本にいる私たちがそう簡単に(内心の)プーチン性を消し去って共振するのは、立場をわきまえない所業ということになろうか。そんな気が掠めるのである。

 ハラリは、「読者」に呼びかける。

《私たちの誰もがその意気に感じ、腹をくくって手を打つことができるだろう。寄付をすることであれ、避難民を歓迎することであれ、オンラインでの奮闘を支援することであれ、何でもいい。ウクライナでの戦争は、世界全体の未来を左右するだろう。もし圧政と侵略が勝利するのを許したら、誰もがその報いを受けることになる。ただ傍観しているだけでは意味がない。今や立ち上がり、行動を起こす時なのだ。》

 そう言えば、この友人は戦後の団塊世代の最後を飾る生まれだったか。76年前に終わった戦争のことを覚えていなくてもムリはない。私のわだかまりは、私たち日本の市井の民は情報が共有されているからといって、ハラリと同じような立ち位置でものを言っていいのかという「当事者(の歴史)性」にあるのかも知れない。それは同時に、いま私が身を置いている社会は、未だウクライナの民と同一化できるほど〈被害者的立ち位置〉をとれるのか。いやそうじゃあるまいと、身の裡が呟いている。

 もちろん私が踏み出す次の一歩が、市井の民の踏み出す次の一歩になることは間違いない。だが、それはもう一度、プーチン性をわが身の裡に探り返し、そこを踏み越えてでなければなるまいと感じている。だから、ハラリにすぐに乗っかれないのだと自問自答している。

2022年3月8日火曜日

蟲同様

 啓蟄。地中から虫が顔を出すように、わが身の裡のエントロピーがもぞもぞと這い出してくるようだ。このところ、歩き回っている。

 東松山の森林公園、北本の自然観察公園、川口の彩湖・道満堀、浅場ビオトープや秋ヶ瀬公園と師匠について行くときは車。その間隙を縫うようにして独りで、見沼田んぼの東縁・西縁を3時間ばかり散策する。

 師匠と一緒の時は、それぞれの場所でそれなりの収穫がある。東松山の森林公園では、アトリを観た。アオジやシジュウカラも屯っている。また、60羽ものハシビロガモが公園の中央に近い山田大沼に群れていて、何羽もが中央に頭を寄せて水につけ、ぐるぐると時計回りに回っている。ハシビロガモの餌を採るときの習性だそうだ。10羽以上が集まって回っているのもあるし、2羽がぐるぐると回っているのもある。

 北本の自然観察公園ではミヤマホオジロがいると聞いていた。5、6人のカメラマンが屯していて、場所はわかったが、しばらく待っていても出てくる気配はなかった。公園を一回りしていると師匠が呼び止める。師匠の双眼鏡がのぞき込む先を探す。ルリビタキがいる。小さく丸まったような体つきにまん丸な目をつけて縫いぐるみのようだ。川口の彩湖・道満堀ではアリスイをみた。一回り7,8kmの彩湖の周りを経巡っているとき、二人のバードウォッチャーが、高い土手の上から下の茅原を覗いている。近づいていくと、低声で「アリスイ!」という。彼らの双眼鏡の向く先を探す。いたいた。顔の先まで保護色で覆ったようなデザインが見つけにくい。鳥を観るのにも目がポイントになっていると、わが物の見方のクセを発見したような思いがする。

 坂戸市の浅場ビオトープへ行ったら、本当に鳥がいない。シジュウカラやムクドリ、ヒヨドリ、ツグミ、エナガをみたくらい。ところが、いつもガビチョウを見掛けるところで椅子に座ってカメラを構えた人二人。手招きして「ガビチョウとクロジがいるよ」という。餌付けしている。ガビチョウは4羽やってきて、ひまわりの種を咥えては近くの木の枝に飛び移る。クロジが出て来ない。気の毒に思ったのか、スマホを出して、師匠と話をしている。「秋ヶ瀬公園にレンジャクが3羽出た」と、ホームページに書いているらしい。と、クロジが出てくる。カメラの連写音がシャカシャカと鳴る。みていると一人が「あれっ? 写真撮らないの? 勿体ないなあ。観てるだけなんだ」「頭に刻むんだ」と言葉を交わしている。お礼を言って、その場を離れ、秋ヶ瀬公園に行ってみることにする。

 秋ヶ瀬公園までも道路は順調だった。12時過ぎに着く。ヤドリギのあるところを少し離れた森の歩道にカメラマンらしき姿が集まっている。近づくと、「ルリビがいる」と教えてくれた。カメラの向いている方向を探すが、見当たらない。と、師匠が指さす。わからないわけだ。なんと、すぐ手前、2メートルほど離れた道の脇の高さ50センチほどの小枝に止まっている。こんなに近く、静かに立ち止まっているルリビタキなんて、はじめて。丸くつぶらな目が何ともかわいらしい。レンジャクはみつからない。こうして門前の小僧の鳥見は、少しも深化せず、ただただ横並びに観た類数が並ぶだけになる。

 独りの時は、双眼鏡は首に掛けているが、ほとんど鳥は気にしない。どちらかというと、木や草花の春模様を目に留めるくらい。畑をやっている人と今年の稔りを聞く。コロナで需要が減ったのに、お湿りが程ほどあって冬作物の作柄はいいという。でも捌けないから、みなあげちゃうのよねといいながらほうれん草を収穫している。空気はまだ冷やいが、雲一つない上からの日差しがあたって身は温かい。こういう歩きは、歩数が多くなる。見沼自然公園へ行き、新都心と岩槻に挟まれた見沼田んぼの広大な芝川の三角州の台地を経巡って、さいたま市立病院の辺りから家へ戻る15kmほどを3時間ほど掛けて回る。わが身の歩行力を計っている。まだまだ昨年の調子は戻っていない。

 啓蟄の蟲は昆虫の類いの総称と思っていた。「新字鑑」は《人・獣・鳥・魚・貝、および爬虫類以外の動物の称》とあり、私の思い込みと同じであったが、「新漢語林」では《動物の総称。羽虫は、鳥。毛虫は、獣。甲虫は、亀の類い。鱗虫は、魚類。裸虫は、人類》と記している。「新字鑑」は昭和14年に刊行されたものらしい。私の手元にあるそれは、遣いすぎてボロボロになり、表裏紙を薄い布で覆って手当てしているせいで、奥付もなく、表紙も隠れて見えない。「自序」を盬谷溫という方が、この辞書の監修者らしい。昭和13年の日付が入り、冒頭の表紙を一枚開けたところに「温故知新 文麿」と墨書した扉がおいてある。また、「殊に日支満三國を合わせて一大文化世界を成さんとする今日……」と「文學博士 井上哲次郎識す」が記されていて、15年戦争戦時下の時勢が漢字文化圏を領導しようという気分が滲み出ている。

 だが面白いのは、「新漢語林」の方。こちらは戦後の編輯になる。「蟲」を中国の漢字の語源から解き明かしたものだろう。ちょっと疑問なのは、「動物の総称」というのは、本当にそうだろうかということ。「羽虫は鳥、毛虫は獣」という指摘は、獣・鳥という種の類別概念があった後に、羽虫を鳥に加え、毛虫を獣に属すると指摘する意味合いではないか。だから「甲虫は、亀の類い」という表現が間に挟まっている。「裸虫は、人類」というのは、比喩的な表現であって、「蟲」が「動物の総称」だからではないと、私は読み取ったのだが、私の読み違いなのだろうか。もちろん、「裸虫は、人類」というのを私は、面白い表現だと思う。いかにも「ヒトという動物」を、動物の次元から規定するような趣があり、人類のクセである言葉の縦横さを象徴するように思えるからだ。

 鳥を観ている門前の小僧も、鳥にヒトの暮らしのイメージを仮託して、面白がっているに過ぎない。生態的な物言いをする師匠の言葉尻が、ときどきヒトの暮らしに刺す棘のように響いて、はっとわが身を振り返る瞬間がある。ああ、これが鳥観の醍醐味なのか。そんなことが一瞬脳裏を掠めて過ぎていった。

2022年3月7日月曜日

動物としての人、ヒトとしての動物

 コロナウィルスがもたらした日々を語る本を読んでいる。文化人類学者・奥野克己×芥川賞作家・吉村萬壱×美学者・伊藤亜沙『ひび割れた日常』(亜紀書房、2020年)。三人の著者が、代わる代わる執筆している中で、ちょっと引っかかったことがある。吉村萬壱の「ヒトと人」。

 中屋敷均の説を援用して、《ウィルスは、人間から最も遠い構造を持った存在であるが故に愛しやすい存在と言えるかも知れない》と前振りして、しかし、「ウィルスを直接憎悪していることは厳密にはしていないのではないか」と話を進め、奥野のフィールドで見聞きした「ヒルや蟻や森に対するプナンの人々の畏敬のこもった態度」にふれて、《ひょっとすると我々が人類史のどこかで捨ててしまった、伊藤氏のいう「異なる種との水平的な家族」を形成する力の残滓なのかも知れない》と述べ、二つの事象が起こっているとまとめ、こう述べる。

《一つは、人から人へと新型コロナウィルスの感染が日々広がっているという生命現象、もう一つは、防疫体制をつくりつつ社会全体が変化しつつあるという社会現象であろう。後者は、人間社会特有のものである》

 うん? どういうことだ? と一瞬考えた。前者と後者を、なぜ分離して考えるんだ?

 前者を「因」とし後者を「果」とみるのなら、前者も社会現象ではないのか。

 前振りにおいたウィルスへの「憎悪」はないことを勘案すると、前者はウィルスとヒトとの自然現象であり、ヒトの憎悪はもっぱら「社会関係」に向けられて発生しているといいたいのかも知れない。これは、「憎悪」というのが「意志」(の誕生)によって発生するという国分功一郎の指摘を思い起こさせる。つまり、ウィルスに対してはヒトの「意志」なぞ、全く受け付けられない。ヒトが意思する(そして憎悪する)ことができるのは人との社会関係に対してだけなのだ。自然そのものに対して憎悪をたぎらせるという人の心情は埒外となる。

 さらに続けて吉村は、中屋敷均の説を紹介しながら、次のように展開する。

《人間が二つの生を生きている……(ひとつは)「ヒトとしての生」、すなわちDNA情報による「生」……(もうひとつは)「人としての生」……恐らく一部の生物だけが持つ特殊な「生」である》

 そうかい? これは、吉村が(あるいは中屋敷が)分節した見立てであって、二つの「生」が実在するわけではない。ヒトは人として社会的に生きるしかないのであって、「人としての生」を「特殊な生」と特権化する理由はなにか。

 吉村は、「政治哲学者ジョン・グレイ」の主張を援用する。

《自我とは、たまゆらの事象である。とはいいながら、これが人の生を支配する。人間はこのありもしないものを捨てきれない。正常な意識で現在に向き合っているかぎり、自我は揺るぎない。人間の根本的な誤りがここにある》

 ジョン・グレイという政治哲学者がどのような文脈で上記の表現をしたのかわからないが、自我を「たまゆらの事象」と呼んでいることは、もっと大きな宇宙論的な舞台を想定しているのだろうか。ひょっとすると、「色即是空、空即是色」という局面を遠近法的消失点に観ながら、自我に振り回される人の生をみているのだろうか。吉村は、ジョン・グレイの言説を拾って、

《人間は生物として「人としての生」というものに十分習熟できていないのではないかと思えてならない》

 と、大真面目に分節したものを定着させようとしている。おいおい、人ってのが、自我という悪いクセを持たないではいられない動物であることは、否定しようもないではないか。それを「習熟できていない」なんていうと、じゃあ、「習熟した自我って何だ?」と問いが続くに違いない。せっかくウィルスとの出合いを「異なる種との水平的な家族」という視点へ持ち込もうというのであれば、まずヒトが身に備えてきたことを、善し悪しの序列から外して事象として捉えて、考察することではないのか。

 この動物と人との二分法を抜け出してみないかぎり、コロナウィルスと共生することも見えてこないんじゃないか。吉村流に展開すると、ヒトとしての動物って場面を想定して展開することになるんじゃないか。そう、思った。

2022年3月6日日曜日

ジェンダーと当事者性

  3月seminarの案内をした。1月には「蔓延防止措置」が出たせいで実施できず、延期していた。今回は、予定の3/21に「措置解除」されれば実施ということで、案内に踏み切った。11月seminar以来となる。歩きながら11月の「お題」ジェンダーギャップを考えていて、言い落としていた一つの視点を思い起こした。

 オリンピック組織委員会・森喜朗会長の発言が「女性蔑視」と問題になったとき、傍らにいた橋本聖子や丸川珠代は異議申し立てをしたわけではなかった。もちろん自分たちを引き立てた「父親みたいな人」だったから、たぶん〈全く(いつもの調子のつまらないジョーク)しょうがない人だね、この人は〉くらいは思ったかも知れない。つまり、森の個人的資質に属する問題とみていて、これがオリンピック委員会の根幹にかかわる社会問題とはみていない。橋本も丸川も当事者とは考えていない。

 ところが欧米からの強い反発ではじめて、森会長の個人資質の問題ではなく、日本のオリンピック委員会の姿勢を問われる問題だと、はじめて認識したみたいであった。これは、どういうことか。森個人の資質問題とみるのは、橋本聖子や丸川珠代の問題ではないということ。つまり、彼女たちは、この問題の当事者ではないといっているようなものだ。

 私は、森の発言を軽いジョークと受け止めていた。無論私は、あのような発言はしない。「女の人が発言すると会議が長くなる」などというのが、「女性を馬鹿にした」発言であることはいうまでもない。だから余計に、(エライさんの下手な)ジョークと受け止めていた。「女性蔑視」といわれて最初、森は(何を言われているか)わからなかったようだった。取り巻きも別にそう感じた気配がなかったから、いっそうそう感じたに違いない。つまり、この時点で、この問題は森個人の問題ではなく社会問題として取り上げられなければならなかったと言える。

 社会問題として取り上げるとは、どういうことか。森の発言が「いいかわるいか」というよりも、そのような発言がジョークとして通用する社会とは、どういう社会なのか。そこにおける女性の地位は、どう扱われているとみたらいいかと、「研究する」ことである。

 もちろん誰が、何について、どう発言するかで、切り取る局面は異なる。なぜ異なるか。発言者が、どういう立場の男なのか、女なのか。会議における女性の発言をジョークにする、つまり「からかう」というのは、男たちにとって「嗤う」ことなのか。それはどういう意味を持っているのか。なぜ女性の発言は「嗤い」の対象となり、男性の発言は「まっとうの発言」と受けとられるのか。そう考えていくと、男・女という概念に優劣の序列を持たせていることが浮かび上がる。

 そうやって「研究」していくと、例えば次のような特徴が浮かぶ(と私は思っている)。男は、序列秩序が明快であることに順応性を示し、女性は序列秩序に構わず(言いたいことを)発言する。つまり男は、森が会長であり、彼の実績が(自分に比して赫々たるものであると)認められるとか、会議の場に提案されていることが事務局提案であり(当然ながら)会長らの根回しを経ているとみとめられるとか、異議申し立てをしていいかどうかを忖度して、沈黙を選ぶことが少なくない。ところが女は、その提案が(裏付けの権威を得ているかどうかを斟酌せず)言うべきことを口にする。あえて男女に分けて、会議における発言の特質を(私の経験則で)腑分けすれば、上記のようなことが言える。

 これって、女性差別か?

 これは、女性差別と言うよりは、会議における序列秩序の裏付けをどう評価するかという問題である。それはとりもなおさず、「会議」が何を審議するために開かれているかを規定する、根本問題でもある。「根回し」を当然とする社会風潮は、或る種日本のお家芸といわれてきた。会議の(例えば国会の審議などの)場では、予め、序列秩序は(発議・提案者の)「原案の権威」として組み込まれている。それは多数派の意向かも知れないし、幹部の意思かも知れないし、閣議決定かも知れない。だが、会議の場で(その集団の)意思を明確にし、異論を闘わせ、細目を詰めて「草案」を練り上げていく論議を交わす場であれば、「原案」の権威は脇に置いて、いろんな方面からの異議を受け、遣り取りを交わすことは避けて通れない。

 この各方面の意見を戦わせて意思集約をしていくというのが、民主主義である。だが日本の民主主義は、そのようなものとして定着しているところとそうでないところが、まだら模様になって入り乱れている。

 一つの例を挙げる。高等学校の職員会議で学校の運営方針が練り上げられ、年間行事から学年方針まで全体の職員会議で討議され、調整し、承認・決定していくという手法の会議を、私は、長年に亘って経験してきた。だから、議事の進め方においても、「原案」を必ず提案し、異議を受け付け、論点を整理し、論議が紛糾すれば継続審議にしたり、原案を練り上げて再提案して貰ったり、時に会議の場で修正して、決定するということを長くやってきた。その子細が、教師たちの考え方の差異を明らかにし、人柄を浮き彫りにもし、その人の教師としての力量評価につながったりもした。遣り取りを交わすうちに(学年などの場合)、いろんな資質を持った教師たちがだんだんチームになっていく面白さが感じられ、それがいっそう教師たちの結束につながっていった。

 ところが私が退職する頃、職員会議は協議決定機関ではなく、指示伝達機関だと(文科省から)教育委員会当局を通じて下達があり、私が退職して後に、実際そのように職員会議の運用が変更されていった。こうなると、発言の性格も異なってくる。異議の申し立ても、無用になることが多くなる。教師個々人の胸の内を探ってみると、〈上意はわかった。それを実際に(わたしが)行うかどうかは、また別の問題次元〉となる。面従腹背という言葉も、見え隠れするようになった。教職員の(それぞれの)意思は問題にならず、指示が実行されるかどうかだけが問題になる。つまり会議が、元々ある(にちがいない)教職員間の意思・意見の違いを付き合わせて「研究」していく性格から、意見の違いは問題ではなく、指示に従うかどうかだけが取り沙汰される風潮が蔓延る。こうして、「討議決定する会議」は学校から召し上げられ、教職員は学校長の下僕になった。

 このケースが何をもたらしたかは、また別の問題だからここでは触れないが、オリンピック委員会の森会長が経験してきたことは、日本の政治家たちの取り仕切っている「会議」は、上意下達の会議だったに違いない。森会長にとって、(事務局から根回しで聞いていた)「原案の権威」を前提にしない女性の発言は、時間を長引かせるばかりの猥雑なことと思われたに違いない。

 森会長の発言は、ジェンダーというよりも、会議そのものの性質とか、オリンピック委員会の運営そのものの上意下達性を問題にしなければならないことだったのではないか。逆に言うと、ジェンダーの問題は、それほどに根幹部分にかかわっている。もしジェンダーの問題にするなら、「会議」において意見を言う女性を単なるお飾り(ま、言わでもがなの余計なことを私もいわせて貰うわと時間を取って発言する)として受け止めている森会長のセンスを、「女性蔑視」と指弾しなくてはならない。

 ジェンダー・ギャップの問題となると、社会そのものがジェンダー・ギャップを俎上にあげるほど成熟しているのかと、私は疑念を持っている。成熟していないから、口にするかどうかという表層のデキゴトとして扱われてしまう。それ以前の、民主主義的な意見交換と討議の習性を、社会全体がきちんと付けていかねばならないと、現役時代を思い起こしているのである。

2022年3月5日土曜日

コロナとコミュニケーション

 コロナ禍になってリモートの会議とか、授業とか飲み会など、人が会わなくっても不都合がないのでお奨めと、政府は呼びかけている。でも、どうも乗り気になれないのは、当方がデジタル難民に近いからだと思っていたが、どうもそうではないようだ。

 呼びかけているのは、統治的なセンスの人たち。コミュニケーションの機能性を、「伝達」だけに限っているからじゃないかと感じている。例えば学校の授業。教師が教え、学生が学ぶという図式だけで考えれば、パソコンを前に教師の言葉を聞いて、あるいは同じく画面に登場している人たちとの遣り取りを聞いて、ふ~んと聞いていれば、「教えること」は「学んでくれる」と考えているようだ。だが、リモートの講演とか遣り取りをみても、身に染みこんでこない。あ、何か言ってるなとわかるだけで、さらさらと表層を流れて言ってしまう。教師の喋ることだけから学んでいるわけではないのだ。同席している学生たちがどう受け止めているかも、座を共にする場合には、大きく学ぶに影響しているのだ。それともリモートに向き合うこちらの聞き方、見方が不真面目なのだろうか。

 例えばTVの画面を見ていたり、らじをを聞き流すようにしていて、あっ、これは面白いと思うことは気に留めて、しばらく考えたりする。リモートにそれが起きないのは、TVやラジオは、そもそも一方通行だとわかっているから、身が選択するコトのセンサーの働きが違うんじゃないか。画面に登場して双方向だと前提があるから、センサーはことさら際立たせなくても大丈夫と、漠然と受信してるんじゃないか。倍音がないから身に入らない。

 逆に言うと、リモートでなく同席している場合は、よそ見をしていても、他のことを考えていても、一瞬起こる場のざわめきとか静まりは感じ取れる。おっ、いま入ってきたコトはなに? と聞き耳を立てる。つまり、聞くともなく聞き、観るともなく目にしている会場全体の雰囲気が、空気の振動を通じてか、身体全体に響いている。そこから(自分に必要なコトへの)センサーも働いているんじゃないか。

 教壇に立っていたときのことを思い浮かべると、喋っている演者の気持ちがわかるように思う。生徒は黙って聞いている。眠っているようであったり、つまんねえなという顔をしていたり、他のことを考えているなあと姿が訴えていたりした。それを見て教師である私は、焦ったこともあった。ことに土曜日夜の定時制高校の授業は、彼らを眠らさないように話の中身を面白くすることに気を砕いた。顔はこちらを見ているが、目を開けたまま眠っているのがわかる姿が、そちこちに見えた。沈黙を交えたり声を小さくすると、はっと気づいたように目を覚ます様子も、当時の発見の一つであった。場に居合わせるというのが、声に現れるコミュニケーションだけでなく、場の全体が生徒にも教師にも作用していたと思っている。

 そういうことで言えば、ラジオやTVで(あたかも聴衆や視聴者がいるかのように)笑い声を入れたりするのは、聞いている人へのサービスと言うよりも喋っている方にとっても、必要な脇役だったんじゃないか。座を共にするというのは、身全体でコミュニケートしているのだ。それをリモートは、なまじ双方向らしさを装った結果、皮肉にも、最小限の「伝達」だけに限定してしまっている。

 コロナ禍の距離を取るというのが、身を遠ざけることまで含めてしまうと、演者はますます喋り散らさなければ手応えを感じられなくなって、しゃべりに喋る。聞く方は、何を聞いても、同じ話を聞いているように感じて、ますます耳を傾けない。そんな風潮が広まっているように感じられて仕方がない。

2022年3月4日金曜日

問題は水の流れか大地の凹凸か

 2021-03-02のこのブログ記事「行雲流水のごとき関係」で、寺地はるな『水を縫う』を読んで私は、《女の感覚からみた実存の心地よい関係を描いている、と思った。そう思うこと自体が、女性差別だ、ジェンダーだと言われるかもしれない》と記した。そして《そういう表現しか思い浮かばないのは、私の感覚の裡にどっかと座っている経験的に身に染み付いたセンスがあるからだ。如何ともしがたい。もしそれを対象として突き放してみるなら、標題のような「行雲流水のごとき関係」というほかないかな》と、「経験」の違いを取り出した。

 《どこに女性差別だ、ジェンダーだと言われるかもしれない「女の感覚からみた」ことが出ているのか。自律した個体の特異性に対する世の中の「偏見」に基づく攻撃が上手に躱され、物語から遠ざけられている。そして、受け容れられている。その受容のセンスの広まりは、たぶん「女の感覚」だと私の経験則が感知している。女も男もないではないかといえば、まさにそうであるが、焦点の合わせ方が「受容」の方に傾くときに、その周縁の「排除・排撃」に傾く動きを注視しないではいられないのが「男の感覚」と感じているのかもしれない。水の流れが遵う地肌の凹凸こそが、水を縫うときの主たる課題になるのではないかと、私の関心は傾く》

 と、「経験の違い」が、身のこなしの違いとなって現れるところへ視線を持っていった。

 いやじつは、いま私は、寺地はるなのこの作品の中味を覚えていない。1年前の記事がブログサイトの提供元から送られて来たのを読み返して、寺地はるながわが胸の内に遺した痕跡を反芻しているだけである。だがこの反芻が、「それはジェンダーよ」といって片付けられると、何か言葉にならない大切なことを捨象してしまうんじゃないかと感じている。

 そもそも「ジェンダー」という「性差」が、経験的な違いから生まれてきた「性」による(社会的振る舞いの)反応の違いを指している。服装にせよ、色柄の選び方にせよ、社会的立ち位置の佇まいにせよ、生い育ってきた経験則によって形づくられた身が「女が女らしく」「男が男らしく」振る舞うことが非難されることなのだろうか。そうではなく、そう振る舞べきだと道徳的に考えて社会的な関係を紡ぐことが非難されているのだ。

 ということは、焦点を当てられている女や男の問題ではなく、「女が女らしく」「男が男らしく」振る舞うべきだとする社会道徳が問題であり、それに遵った社会関係の紡ぎ方があらためられなければならないと「問題化」されている。

 こう、言い換えることができる。寺地はるなの作品が私に提示した痕跡は、「女だから」「男だから」という文脈で読むべきではない、と。そういう文脈に落とし込むことが、即ち性差を差別的にみていることなのだ、と。

 だがそれも違うように私は感じている。世の中を生きていくときの行雲流水の《焦点の合わせ方が「受容」の方に傾くときに、その周縁の「排除・排撃」に傾く動きを注視しないではいられないのが「男の感覚」》と私が感じるのは、直感的であるが、身体のつくりからする身のこなしに起因するのではないかと、感じているからだ。

「受容」する方は、地面の凹凸を所与のこととして受け容れ、身の処し方を流水の如くに「遵う」ことへと適応する。それに対して「排除・排撃」に傾く動きを注視するというのは、なぜ凹凸がそうなっているのか、なぜ風向きがそうなり強さがこうなっているのかと「状況」を変えるべき見極めようとするからである。「受容」だけを良きこととすると、たぶん、押し寄せる理不尽な災厄に苛まれるばかりとなる。じゃあ「排除・排撃」がいいかというと、そうでもない。そういう立ち向かい方がいっそう災厄を酷くしたり、澱みをつくることにもなる。

 問題は流れる水の流れ方にあるのか、それとも水が沿うほかない大地の凹凸の方にあるのかと問うているようである。実はどちらでもないし、どちらでもある。自然とヒトの活動、人と人との関係という相互性において、現実は展開している。それを、どちらかの方へ身を寄せてみているのでは、結局個々人の問題としてしか浮かび上がらない。

 動物が単性生殖から両性生殖へ推移していったのが、種の存続に勁さを生み出した。雌雄の別が子々孫々の種の継続に強度を増したといわれている。それはただ単に、生殖においてだけでなく、危機回避や状況適応の進め方にも性差が作用することによって、種の存続はより強度を増したのではないか。私は経験的にというか、経験則からする直感をもって感じている。

 それを説明するためには、次のことを承知して辿らなければならない。

(1)身の形成がこころの形成と不即不離、同時展開であるということ。

(2)感性や感覚、思考や振る舞いは、個々人が独自に形成したものではなく、社会的な産物であるということ。

(3)ヒトは社会的な動物であり、その振る舞いは、社会的な現象として捉えて研究されなければならない。

(4)ヒトのパターン認識や概念化は、社会的な問題として捉え、それに相応しく取り組んでいったときにはじめて、人々の自己認識にも及ぶ問題解決への道筋が拓けてくる。

 ジェンダーギャップというのは、性差を固定的にみて、社会的な問題として捉えていないことを指している。上記の(3)としてはじめて、個々人は「当事者」として社会の問題と向き合うことになる。そうして「研究」してこそ、(4)のように、人々の考え方が変わってくると共に社会意識の変容も現実化してくるというわけである。

2022年3月3日木曜日

ブラ遍路

 去年の3月1日に「どこまで行けるか」と記事を書いた。

《2月が終わって、書き落としていたことがあった。平地を歩いてどこまで行ったか。/1月は、1日平均11km歩き、おおよそ名古屋の手前まで行った。2月は平均10km、280km余。1月と合わせると、620kmほどになる。東浦和から東京を経て西向かうのは、わが身の心の習慣が然らしむるもの。何と、大阪を越え、神戸も越えて、鷹取まで行ったことになる。鷹取ってのは、須磨の海の近くにあるJRの駅。東浦和からの距離も、鉄道の路線距離を採っている。》

 歩く勢いが、興に乗っている。だが今年は、未だリハビリ中ということもあって、去年のようには行かない。どれくらい歩いているだろうと、スマホの歩数計を覗いて、1月からの日々の歩数をチェックしてみた。

 1月は、183km。去年の336kmの54%、2月は170km、去年の283kmの60%。半減している。1月と2月の合計が今年は353km、去年のおおよそ1月分に近い。興が削がれたのは、4月の山の事故。調子の乗るんじゃないよと、天の啓示を受けたように思った。あと一月ほどで、事故から1年になる。ぼちぼち身体が、興に乗るんじゃないが、ちょっと元気に歩くのはどうよと、うごめき始めている。そう言えば、明日は啓蟄じゃないか。

 身のうごめきを受け止めるのに、四国八十八カ所巡りはどうよと、手に取った本が誘いかけている。全行程は1200km、1日30km歩くとすると、40日で経巡ることができる。時速5kmとすると1日6時間。めぐるお寺で誦教をしたりするのを2時間とみて、毎日8時間の行動時間と見当を付けた。だが、大丈夫だろうか。去年の私なら、ぜひもないと思ったに違いない。そう考えて歩いていると、まだ不安が残る。

 昨日も3時間弱、約15km程を歩いたが、もうこれくらいでいいって気持ちになっていた。この倍の距離を歩くとなると、2、3日で草臥れてしまう。40日も続くと、行き倒れになると、不安が身を掠める。「蔓延防止措置」が2週間延期になったし、その後どうなるかもわからない。すでに4月20日には日帰りで行く予定が入っているから、急ぎ決める必要はないが、いろいろと準備もあるから4月半ばには決めなければならない。

 カミサンは「何も一般に済ませなくても、何回かに分ければいい」。急くな急ぐな年寄りなのよと、お遍路も「ブラ遍路」で行けという。そうだよね。お誂えの経路をさかさかと辿るだけでは「遍路」にならない。祈りが込められない。ただのトレッキングになってしまう。わが生きてきた道を振り返りつつ、感謝を込めて歩くのが「祈り」だとすると、日にちを限らず、のんべんだらりと行ってみようか。それが、私自身のふる年並みに相応しい。ま、まだ行くかどうかも決めないのに、もう遍路気分になっているのが、可笑しい。

2022年3月2日水曜日

座高って、なあに?

 久々に浦和の街へ出る。コーヒーを買いに来た。浦和駅東口のパルコ前のロータリーにはたくさんの人が行き交っている。日差しが明るい。気温ももう春の気配に暖かい。

 前を歩く若い女の子が目に入る。まるでタイツのように身についたジーパンを履いて、さかさかと私を追い越していく。その脚が木の小枝のように細く長い。これで身体を支えるのは難儀だろうと思う。そうだ、いつから日本人の脚は長くなったろうと疑問符が一つ頭に浮かぶ。そう言えば、小学生の頃から高校を卒業するまで、身体計測の時に「座高」を計っていた。身長と座高の関係は調べたことはないが、あの頃は、お前は足が短いと、身長の割に座高が高い友人をからかったり、からかわれたりしたことを思い出す。

 いま「座高」という項目はなくなったらしい。その話をするとカミサンは、

「そうよ、そもそも座高って何のために計ってたの?」

 と、逆襲に出た。そう言えば、何のためだろう。

「椅子に座って座高の高いものが後の方に座るためかな」

「そんなこと、したことないわよ」

 と、子どもの頃は背が高い方であったカミサンは思い当たらない。私は背が低かったから、そう思ったが、でも、そんなことをした覚えは、あったようには思わない。

「ヒトが動物であることを忘れないためじゃないか」

 と私が最終的な思い付きをいう。そうだそれに違いない、と。

「どうしてそんなことをすんのよ?」

 と、とりあってくれない。

「でもね、動物の身体って計るのは座高だよ。頭の先から尻まで、尻を回って後ろ足の先までを〈身長〉として計るなんて、聞いたことがないよ」

 と返すと、〈つまんないことをいう〉という顔をして、黙ってしまった。

 そうだよきっと。動物と同じに計測していないと、種としてのヒトの変化を見損なってしまうかも。キリンなんかは、では、どう計るのを体長と呼んでいるのだろう。頭の先から尻までか、踵から頭のてっぺんまでの高さか。そう考えると、キリンは「体高」というかも知れない。体温はライオンは「体高」は問題にしないかな。それらも、「なんのためにけいそくするの」と問われると、動物学者はどう応えるだろう。その種の一般的な大きさを知るため、というか。とするとヒトだって、一般的な大きさを知るために「座高」が必要なんじゃないか。もちろん実用的目的なんか、埒外に置くのが研究ってもんだ。

 でも「なんのために」といえば、身長だって、何のために計るのよ。体重だって、何のためだよと思う。計らなくたって、背が高い、体重があるとかないというのは、みればわかる。身長や体重が身体の管理にかかわる項目として計測するというのなら、座高もそうじゃないか。

 じゃあヒトの大きさは、人間工学とかに用いるから測らなければならないが、ゴリラはサルの大きさは、「身長」なのだろうか、「座高」なのだろうか。二足歩行になったから身長、四足歩行なら座高というか。それともライオンのような地上生活は座高、樹上生活はまた別というのかいわないのか。面白いが、その面白さは、生活形態とかかわるから一口には言えないところにあるのかも知れない。

 身体計測から「座高」が消えたというのは、ヒトがはっきりと動物と区別されたということ。ヒトはただ存在することではなく、目的的に存在する種になったという証しなのかも知れない。

 えっ? ヒトの目的的ってなんなの?

 それは、いまさらいうまでもないこと。社会機構の中に身を置いて、ただただ働くこと。他の動物や植物や微生物やウィルスなどの生き物とその類いも含めて、彼らとは別の地球の主人になり、自然体系を含めて勝手に作り替えてよろしいと絶対神の許可を得た存在。そういうヒトの「自立宣言」が「座高」の廃止ってこと。そのうち、神をも廃止して「独立宣言」をするようになると、頭も無用になるかも知れない。

 えっ、頭無用って、どういうこと?

 心配ご無用。AIというヒト以上に性能の良いメカニカルな「活物/いきもの」が生産と物流をやってのけ、社会を動かし、ヒトは本当に(食料調達も、文化の継承という面倒なことも無用となって)動物に還って、戦争もせず、幸せに暮らすのだ、とさ。

2022年3月1日火曜日

なるべくしてなる

 国分功一郎・熊谷晋一郎『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究』(新曜社、2020年)をまだ読み続けている。その途中で、ちょっと密度の濃い小説を読んだことを思い出した。1年前に書いた記事だ。

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 青山文平『跳ぶ男』(文藝春秋、2019年)。(ロックバンド・クイーンのフレディと異なり)音ではない。言葉を紡いだ作品だが、内腑に落ちていく密度が、同じように濃厚であり、私の現在に接着して、かつ、批判的である。

 音ではないが、能舞台における所作・振る舞いをことばできっちりと分けていく。その綿密さと子細に届く視線が、読み手の姿勢をきりりと引き締める。そんな思いが生まれて来る小説であった。

《定まった型から外れる所作をすれば、それは能ではなくなる。初めから終いまで、能役者は型をつないで舞い切る。能に、「興に乗じて」はない。》

 そのように5歳のころから教わってきた男が15歳から17歳になるまでのお話しであるが、死を覚悟して自らが育った「くに」の先々を切り拓く物語である。この男も、フレディ同様に、能一筋に生き、そこに自らの人生のすべてを投入する。その見切りと漂わせる佇まいの峻烈さが、わが身の現在に批判的に立ち現れるのである。

 能というのが、死者と現世とをつなぐ展開をすることはよく知られている。お面をかぶるというのも演者の個体から雑味を取り去る仕掛けの一つという。それも、役者の勝手を許さない所作のカマエやハコビの子細を読みすすめると、ふだん歩いている己の歩き方がどこまで地面との緊張感を保っているかを問われていると思えて、手に汗がにじむ。

 かほどに厳しく己を御してきたか。いや、程度のモンダイではない。彼の人のように己自身を見つめて来たかという次元の違いを突き付けられている。もちろん舞台となっている時代の大きな差異もある。人が生きるという、ただそれだけのことに、これほどの厳しい舞台設定を考えたことがあるか。そう思うだけで、ちゃらんぽらんに生きて来たわが身が、いかに人類史のごくごく一部だけを生半可にかじってきたにすぎないか、感じられる。

 ま、この齢になってそう気づいただけでも、良しとするかという慰めしかことばにならない。青山文平の紡ぎだした言葉の、鮮烈に印象に残ったことば。「関わりにおいて密、交わりにおいて疎」。このことばの、彼岸からみた此岸への批判的な味わいを、心にとどめておきたいと思った。

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 国分功一郎が「意志」と「覚悟」に触れて、ハイデッガーを解説している。ハイデッガーは、「意志」について三点指摘したという。「第一に、始まりであろうとすること……第二に、忘れようとすること……第三に、憎むこと」と。

 面白い。「意志」が「始まりである」といわないで、「始まろうとすること」と表現しているのが、面白い。何の始まりか? 過去を切断して、、この先の現在と未来の始まりという意味であろうが、この表現のニュアンスには、その「意志」を持ったことが、新しい何事かの始まりになってゆくという気配が漂う。ふつう「意志」というと、「(何かを)する(決断)」を意味する。それが「過去」と手を切って新しいコトへ踏み出す「切断」になるとみている。「決断」といわず「切断」と「意志」がもたらすことを出来事、つまり事象と中道態的にみているところが、いかにも哲学者・国分功一郎の面目躍如である。国分功一郎の表現が「新しいコトへ成り行きが向かう」気配を、好ましいと私は思いながら読んでいる。「(第二の)忘れようとする」もそうだ。「(何事かへ向かう)意志」を抱いた途端、過去のことを振り返らず、「意志」に関すること以外を考えなくなってしまうというのも、「忘れる」とは書かず、「忘れようとする」とそうした気分が湧き起こって、自ずからそうなっていく気配を湛える。これが好ましく感じられるのは、私の中に「自ずからなる」振る舞い、「なるべくしてなる」行為こそを「じねん」として好ましいと身が感じているのだと思う。「意志」という言葉に画然として体現されている主体性よりも、そうなるべくしてなる行為こそが好ましいという私の抱懐する自然観とマッチする。

 なるほど上記の、ハイデッガーのいう「第一」と「第二」は、「なるべくしてなす」「なるようになる」「じねん」へ誘っていくように見えるが、では、「第三に、憎む」というのは、」どう「じねん」に転轍するのであろうか。

 それを国分功一郎は、「覚悟」と指摘している。ハイデッガーの「憎む」というのは、「意志」するとき、過去・現在・未来を接続する己が身を「憎む」「じねん」が底流している。それを「切断」し、「忘れようと」して、次なる一歩へ踏み出す始発点にしようと決意する文脈となるのであろうが、それを「覚悟」として取り出して改めて吟味すると、「覚悟」は己が身に染みこんでいる過去・現在・未来をまるごと引き受ける「決断」であると読み取っている。「意志する」ことによって生じた「憎む」が「まるごと引き受ける」ことへ転轍される、身の裡の心象の180度の転換が起こっている。そう私は、読み取って、腑に落とした。これが面白い。

 そうして、その転換を違った風に行ってきたのが、一年前に読んだ青山文平『跳ぶ男』の主人公であると、私のどこかで閃いた。ハイデッガーとの違いの根柢には、身に染みこませて受け継いできた「自然感覚」の違いがある。ハイデッガーは、キリスト教文化の自然観を身に付けてきたが故に、そこからの離脱には、ひとまず絶対神から離脱するという跳躍台が必要であった。だが私は、自らをアプリオリに自然存在として内在的にみているから、「憎む」という媒介項を抜きにして、「(大自然の前に己を位置づけて)諦める」とか「分をわきまえる」という「自然」の感覚を備えている。だから、「まるごとの過去・現在・未来を引き受ける」こと自体を、「じねん」としているから、すんなりとわが身と一体化してしまう。つまりわが身そのものが、自然の内的存在というわけだ。

 だからこそ逆に、それこそ「意志」なしで(成り行きに任せてちゃらんぽらんに)生きているかのようであり、かつ(その結果)「責任」も感じないという為体になってしまうのだと、振り返って思う。そういう私にとっての「意志」や「決断」「覚悟」の有り様が、『跳ぶ男』の主人公に体現されていて、わが胸を打った。その問いかけに応えないままにいることを、国分功一郎と熊谷晋一郎の著書を読みつつ、あらためて知らされたのであった。