2022年3月25日金曜日

この、柔らかな人の感触

 日曜日に訪ねていった娘の嫁ぎ先の姑さんが亡くなったと知らせがあったのは、日帰りで帰宅した翌日の夕方。まだ葬儀日程も決まっていない。近頃は、葬儀が間合いを置くようになっている。私には、金曜日から土曜日、日曜日と予定が詰まっている。そのうち土曜日のseminarは、私が講師を担当している。1月予定の前回seminarは「蔓延防止措置」もあって延期となっていたから、4ヶ月ぶり。久々に会えると参加連絡も受けていた。中止しないで、私に代わって取り仕切ることができるのは、一人しかいない。すぐに「ご相談とお願い」のメールを送る。あとは、日程が決まってから、始末を考えよう。

 火曜日の朝、娘から葬儀日程が決まったと知らせがあった。はじめ「22日通夜、23日告別式。我が家に泊まりますか」とあったので、「泊めてください。これから準備して出ます」と返信すると、「今日から来る?」と応答が帰ってくる。「?」。大分慌てている。日付を1日ずつ間違っていたのだ。香典は受けとらないというのを聞いて、花を贈ることを依頼する。

 何よりも先に、婿さん宛に「お悔やみ」のメールを送る。私より一つ若い舅さんは、古武士風の立ち居振る舞いを身に備えている仕事人。姑さんと二人三脚で自営の仕事もこなしてきたに違いないから、気落ちしていると思うが、舅さんとは電子的な遣り取りをしていない。同じ仕事場で働いている婿さんによろしく伝えて貰おうと考えた。彼からは丁寧な返信が届いた。

 seminarの代替を依頼したMさんに「お騒がせしました」とメールを送る。seminarのレポートを準備する時間がなくなるから、それを仕上げておかねばならない。月曜日がお彼岸で休みだったので、今週はリハビリが火曜日になっている。それも済ませる。幸か不幸か、今日は朝から雨。家にこもるには最適。seminarのレポートは、前回seminarの報告も含めてA4版で24頁になった。プリントアウトして往復の新幹線の中で校正しようとまとめたが、結局持ち歩いただけ、手を付けず持ち帰ることになった。

 通夜は30席ほどのこぢんまりした式場、隣の部屋にはモニターを設けて式場の様子を映し、椅子が列べてある。両方が埋まっても60席くらいか。正面の花に埋まる祭壇の中央に姑Rさんの笑った顔がある。去年11月に病がはっきりしたとき、遺影はどうする、一度一緒に写真館で撮ってもらおうかと言葉を交わしてきたという。だが、七五三の時期、割り込むわけにも行かなかった。治療の合間にもう一度撮ろうかと話が出たときは、成人式が近く、結局舅さんが撮ったスナップから選んだという。ご近所の仲良しが集まって「おばさん宴会」をしているときに、帰宅したお酒の飲めない舅さんがシャッターを押した。それをRさんが選んだそうだ。

 棺に収まったRさんは、顔の肌が艶をもつように引き締まっている。エンバーミングを施したという。風呂に入ったように清拭をするだけでなく、血液を防腐液に入れ替えて腐食を防ぐ処置を施して、ナチュラルな化粧をしている。笑えばそのまま遺影になるようであった。

 棺を取り囲んで、いろんな話が交わされる。阪神大震災の時、たまたまさしたる被害のなかったRさんちが「たまり場」になり、ご近所の人たちが屯して食事を一緒にしたのが「おばさん宴会」発端だったとか。その後に孫が生まれ、嫁が仕事を続けていたので、Rばあちゃんが世話をしたが、ご近所の子どもたちもあつまってきて、一緒に遊び、ご飯を食べ、まるで保育所のように賑やかであったと、そのときの「幼馴染み」たちが棺の傍らであれこれと話をしている。埼玉爺ちゃんである私にも、そういう紹介をして、「23年も前のことや。いつも喧嘩していた」と笑う女の子は髪を金色に染めている。

 親戚が集まる程度といっていたが、そういうご近所や若い人たちもたくさんいる。通夜の時には、静かだが賑やかにRさんをめぐる言葉が取り交わされ、舅さんも「そうか、そんなことがあったんか」と聞き入っている。商家の、親密なお付き合いをしてきた人たちが「関わりの糸」を解し辿るような、柔らかな人の感触が会場に広がっていくように感じた。僧侶の読経は、むしろまったくのバックミュージックのようで、人と人との関係の深いところで育まれてきた温かさが、あらためて確かめられているようであった。

 翌日の告別式も坦々と運ぶ式進行ながら、棺にお花を収め、「お訣れ」をしているときには、なぜか涙が溢れてきた。2番目の孫は、通夜の時から声を忍ぶように涙していて、埼玉ばあちゃんが「ないてもいいんよ」と背中を撫でている。ああ、この子はこんな風に感じやすい子なんだと、私はあらためて(この孫との18年を)思い、また70年ほど前、同居していた祖母が亡くなったとき、別に悲しくも何とも思っていなかったのに、棺に収め、釘を打つ順番が回ってきたとき、どっと涙が溢れてきたわがことを想い出していた。

 告別式が終わり、焼場に向かい、御骨になるまでをふたたび葬祭場に戻ってお昼を共にしながら、近い席の人たちと話しをする。カミサンは、娘の2番目3番目の子が誕生するときに、長じていた孫の世話もあってしばしば訪れていたし、姑さんやその縁戚の方々やご近所さんと顔見知りということもあって、挨拶を交わしている。年寄りはみな、70代の半ばを越え、縁戚の甥や姪は、今まさに働き盛り、その孫たちは中高校生か大学生。その人たちが交わす言葉の近況の中に、Rさんが文字通り取り持ってくれた「縁」が息づいているようであった。

 これまで私は、自分が早く逝くものとしてカミサンとも話をしてきたが、そうか、カミサンが先に逝くこともあるんだとあらためて思った。そして、カミサンが亡くなったときに果たして今回の舅さんのように気丈に振る舞えるか、ちょっとわからなくなった。舅さんは、子ども二人がすぐ傍にいて、仕事も手助けするように暮らしている。孫もすっかり大きくなって、寄り添うように気を遣っている。我が家はというと、息子は遠方に暮らし、親を気遣うこともほとんど、ない。ご近所とも、出会ったら挨拶をするだけ。とても、こんな親密さがやわらかく包むような葬儀は適わない。そんなことを思いながら、「元気なうちにどんな形がいいか考えとかなか、あかんよ」といっていた娘の言葉が、どこかに引っかかっている。

0 件のコメント:

コメントを投稿