昨日は花曇り。だがウィンドブレーカーを用意していれば、あとは長袖シャツ一枚で十分という陽気であった。週1回のリハビリに行く。
順番は6番目。肩を温めていると、「今日は先生が二人しかいませんので、ちょっとお時間がかかります」と受付の女の方が断る。温めが終わり本を読んでいると、いつものリハビリ士が私に声を掛けて、施療が始まる。「どうですか?」と問うことからはじまる。今朝ほど起きてから右肩に軽い痛みが走ったと話すと、横向きになるように指示して施療に入る。このリハビリ士は5ヶ月ほど鍼施療もやってくれた方で、以来、私のマッサージもこの方が担当してくれている。何度か、このブログにも書いたが、真に的確。見事にツボを押さえ、施療のあとは間違いなく要所がほぐれ、身が軽くなる。去年の暮れまでは、それでも夕方になると右肩が重くなり、風呂のあと湿布薬を貼っていた。施療のあとどのくらいで痛みを覚えるかが、恢復が順調かどうかの目安になるような気分で、リハビリに通っている。
そのリハビリ士が昨日の施療のあと、「来月から私は月曜日がお休みになりますから、火曜日に来てくれますか」という。もちろん私は了解なのだが、彼女はそのあと「どういう経過を辿るか、見ていきたいと思ってますから」と付け加えたので、彼女の「ご指名」なのだと思った。
この医院の担当リハビリ士は、固定していない。最初の3ヶ月は、週に3回か4回通っていたのだが、行く毎に担当者が変わった。6人ほどいる中の二人が女性。たいていは男のリハビリ士だった。20代の若い方の女性リハビリ士が鍼を奨めてくれ、8月から鍼施療を受けたのが、もう一人のアラフォーの女性リハビリ士であった。その後、鍼施療を除いてリハビリに通うのが週に2回になり、ときどき男性リハビリ士にあたったが、たいていは、そのアラフォーのリハビリ士が担当してくれるようになって、私も好ましく思うようになっていた。
その好ましいと思う感触は、なんだろう。なにより施療の的確さなのだが、同時に余計な口を利かないで施療を進めるのがいい。同時に施療している隣のリハビリの声も聞こえるからそう思うのだが、世間話をしながら施療する人たちがいる。リハビリ士がおしゃべりを誘うのかどうかはわからないが、どこそこのサクラがきれいだとか、今年は開花が遅いだとか、どうでもいいことを喋りながら施療している。それはとっても煩わしい、と私は感じる。必要なことは言葉にするが、あとは黙ってわが身と施療者との間を見守っている。それはそこそこ(触感の感受を)緊張してい聞いているから、余計なおしゃべりが挟まるとうまく聞き取れないように感じているのかもしれない。
そうして昨日「ご指名」と思ったとき、そうか、これを誤解すると、ストーカーになったり、振り向いてくれないことに憤ってDVとか殺人事件になったりするのだと、イメージが飛躍した。相手は仕事として伝えることを的確に(必要最小限に)言葉にする。しかし受けとる側は、それとは別の次元でその言葉を聞き取っていて、仕事と私的なコトとの区別がつかなくなってくる。リハビリというのが身に直接働きかける施療だからなのだろう。
つまり身に働きかける施療が、日頃、身が触れ合わないことを基本とする社会規範で育ってきた(ことに若い単身の)人たちは、身体的な接触がもたらす心的な関係的充足による安定に満たされていないために、単純な施療を余計心的な要素を加えて敏感に受け止めると思われる。そうする(誤解に浸る)と、なんであのとき好意的に振る舞っていたのに、今こんなに冷たいんだと恨み辛みを溜めるようになる。それが臨界点に達したとき、事件になる。こうした思い違いは、向き合っている人の内側に堆積した「関係史」がかかわっているから、社会的に理解する(他の人たちに分かって貰う)ことは難しい。非対称的というか、一方的に事件が暴発するように出来する。
そんなことを考えながら、「ご指名」にたいして「そうします。ありがとうございます」と、彼女の意思を拝受した。
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