コロナ禍になってリモートの会議とか、授業とか飲み会など、人が会わなくっても不都合がないのでお奨めと、政府は呼びかけている。でも、どうも乗り気になれないのは、当方がデジタル難民に近いからだと思っていたが、どうもそうではないようだ。
呼びかけているのは、統治的なセンスの人たち。コミュニケーションの機能性を、「伝達」だけに限っているからじゃないかと感じている。例えば学校の授業。教師が教え、学生が学ぶという図式だけで考えれば、パソコンを前に教師の言葉を聞いて、あるいは同じく画面に登場している人たちとの遣り取りを聞いて、ふ~んと聞いていれば、「教えること」は「学んでくれる」と考えているようだ。だが、リモートの講演とか遣り取りをみても、身に染みこんでこない。あ、何か言ってるなとわかるだけで、さらさらと表層を流れて言ってしまう。教師の喋ることだけから学んでいるわけではないのだ。同席している学生たちがどう受け止めているかも、座を共にする場合には、大きく学ぶに影響しているのだ。それともリモートに向き合うこちらの聞き方、見方が不真面目なのだろうか。
例えばTVの画面を見ていたり、らじをを聞き流すようにしていて、あっ、これは面白いと思うことは気に留めて、しばらく考えたりする。リモートにそれが起きないのは、TVやラジオは、そもそも一方通行だとわかっているから、身が選択するコトのセンサーの働きが違うんじゃないか。画面に登場して双方向だと前提があるから、センサーはことさら際立たせなくても大丈夫と、漠然と受信してるんじゃないか。倍音がないから身に入らない。
逆に言うと、リモートでなく同席している場合は、よそ見をしていても、他のことを考えていても、一瞬起こる場のざわめきとか静まりは感じ取れる。おっ、いま入ってきたコトはなに? と聞き耳を立てる。つまり、聞くともなく聞き、観るともなく目にしている会場全体の雰囲気が、空気の振動を通じてか、身体全体に響いている。そこから(自分に必要なコトへの)センサーも働いているんじゃないか。
教壇に立っていたときのことを思い浮かべると、喋っている演者の気持ちがわかるように思う。生徒は黙って聞いている。眠っているようであったり、つまんねえなという顔をしていたり、他のことを考えているなあと姿が訴えていたりした。それを見て教師である私は、焦ったこともあった。ことに土曜日夜の定時制高校の授業は、彼らを眠らさないように話の中身を面白くすることに気を砕いた。顔はこちらを見ているが、目を開けたまま眠っているのがわかる姿が、そちこちに見えた。沈黙を交えたり声を小さくすると、はっと気づいたように目を覚ます様子も、当時の発見の一つであった。場に居合わせるというのが、声に現れるコミュニケーションだけでなく、場の全体が生徒にも教師にも作用していたと思っている。
そういうことで言えば、ラジオやTVで(あたかも聴衆や視聴者がいるかのように)笑い声を入れたりするのは、聞いている人へのサービスと言うよりも喋っている方にとっても、必要な脇役だったんじゃないか。座を共にするというのは、身全体でコミュニケートしているのだ。それをリモートは、なまじ双方向らしさを装った結果、皮肉にも、最小限の「伝達」だけに限定してしまっている。
コロナ禍の距離を取るというのが、身を遠ざけることまで含めてしまうと、演者はますます喋り散らさなければ手応えを感じられなくなって、しゃべりに喋る。聞く方は、何を聞いても、同じ話を聞いているように感じて、ますます耳を傾けない。そんな風潮が広まっているように感じられて仕方がない。
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