2022年3月7日月曜日

動物としての人、ヒトとしての動物

 コロナウィルスがもたらした日々を語る本を読んでいる。文化人類学者・奥野克己×芥川賞作家・吉村萬壱×美学者・伊藤亜沙『ひび割れた日常』(亜紀書房、2020年)。三人の著者が、代わる代わる執筆している中で、ちょっと引っかかったことがある。吉村萬壱の「ヒトと人」。

 中屋敷均の説を援用して、《ウィルスは、人間から最も遠い構造を持った存在であるが故に愛しやすい存在と言えるかも知れない》と前振りして、しかし、「ウィルスを直接憎悪していることは厳密にはしていないのではないか」と話を進め、奥野のフィールドで見聞きした「ヒルや蟻や森に対するプナンの人々の畏敬のこもった態度」にふれて、《ひょっとすると我々が人類史のどこかで捨ててしまった、伊藤氏のいう「異なる種との水平的な家族」を形成する力の残滓なのかも知れない》と述べ、二つの事象が起こっているとまとめ、こう述べる。

《一つは、人から人へと新型コロナウィルスの感染が日々広がっているという生命現象、もう一つは、防疫体制をつくりつつ社会全体が変化しつつあるという社会現象であろう。後者は、人間社会特有のものである》

 うん? どういうことだ? と一瞬考えた。前者と後者を、なぜ分離して考えるんだ?

 前者を「因」とし後者を「果」とみるのなら、前者も社会現象ではないのか。

 前振りにおいたウィルスへの「憎悪」はないことを勘案すると、前者はウィルスとヒトとの自然現象であり、ヒトの憎悪はもっぱら「社会関係」に向けられて発生しているといいたいのかも知れない。これは、「憎悪」というのが「意志」(の誕生)によって発生するという国分功一郎の指摘を思い起こさせる。つまり、ウィルスに対してはヒトの「意志」なぞ、全く受け付けられない。ヒトが意思する(そして憎悪する)ことができるのは人との社会関係に対してだけなのだ。自然そのものに対して憎悪をたぎらせるという人の心情は埒外となる。

 さらに続けて吉村は、中屋敷均の説を紹介しながら、次のように展開する。

《人間が二つの生を生きている……(ひとつは)「ヒトとしての生」、すなわちDNA情報による「生」……(もうひとつは)「人としての生」……恐らく一部の生物だけが持つ特殊な「生」である》

 そうかい? これは、吉村が(あるいは中屋敷が)分節した見立てであって、二つの「生」が実在するわけではない。ヒトは人として社会的に生きるしかないのであって、「人としての生」を「特殊な生」と特権化する理由はなにか。

 吉村は、「政治哲学者ジョン・グレイ」の主張を援用する。

《自我とは、たまゆらの事象である。とはいいながら、これが人の生を支配する。人間はこのありもしないものを捨てきれない。正常な意識で現在に向き合っているかぎり、自我は揺るぎない。人間の根本的な誤りがここにある》

 ジョン・グレイという政治哲学者がどのような文脈で上記の表現をしたのかわからないが、自我を「たまゆらの事象」と呼んでいることは、もっと大きな宇宙論的な舞台を想定しているのだろうか。ひょっとすると、「色即是空、空即是色」という局面を遠近法的消失点に観ながら、自我に振り回される人の生をみているのだろうか。吉村は、ジョン・グレイの言説を拾って、

《人間は生物として「人としての生」というものに十分習熟できていないのではないかと思えてならない》

 と、大真面目に分節したものを定着させようとしている。おいおい、人ってのが、自我という悪いクセを持たないではいられない動物であることは、否定しようもないではないか。それを「習熟できていない」なんていうと、じゃあ、「習熟した自我って何だ?」と問いが続くに違いない。せっかくウィルスとの出合いを「異なる種との水平的な家族」という視点へ持ち込もうというのであれば、まずヒトが身に備えてきたことを、善し悪しの序列から外して事象として捉えて、考察することではないのか。

 この動物と人との二分法を抜け出してみないかぎり、コロナウィルスと共生することも見えてこないんじゃないか。吉村流に展開すると、ヒトとしての動物って場面を想定して展開することになるんじゃないか。そう、思った。

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