共に暮らす社会を「共同体」とよぶ。ヒトの群れが発生した原初の頃は、家族や氏族、つまり血のつながりを基本としていたから、異質な感じ方や考え方が身の裡に潜んでいるとは思わなかったのだろうか。ヒトの感性や考え方は群れの中で育まれるから、自ずと群れの培ってきた感性や考え方と大きくズレない(と思われていた)。だが、他の家族や氏族と触れ合わないではいられない。何より子孫を残すために近親婚は避けなければならないタブーとなっていた。多くの群れは「おんな」を交換したり、奪い取ったりすることによって、タブーを維持していた。
少ない食料をめぐる取り合いもあったろう。快適な居住地をめぐる争いもが起こったにちがいない。わりと採集する自然食料が豊富であった東日本とそうでなかった西日本とで「農業」の始まる時期が違っていたというのも、必要がそうさせたと考えると納得がいく。農業が始まると、田畑を耕すばかりでなく、治水や灌漑を施す大工事が欠かせない。ヒトの群れは大きくなり、氏族は地域的な結合を(婚姻などを通じて)強めて部族となる。また群れの作業に統率が必要とされ、協業ばかりでなく分業も広まり、計画や作業工程監理なども行われたと思われる。
ヒトの動きに統治が必要とされ、統率するリーダーが登場する。農業の場合には「場所」も固定されることが多いから、その田畑(灌漑設備)を護る防護・防衛の考えも生まれ、それをもっぱらとする軍事的従事者も必要になる。こうして、ヒトの群れは、大きくなると共に組織的になって、その秩序を保つための知恵と力が育成されていく。つまり、ヒトはその群れの暮らしに必要となって、それに備える(群れとしての)スウィッチが入り、時を掛けて育てられ、強化されてきた。
それと同時に、スウィッチが入ったことによって、それに人の感性や考え方が縛られてしまうことも起こる。ひと頃豊かな暮らしを楽しむ日本社会を指して「平和惚け」と呼ぶことが流行ったことがあった。だがウクライナ侵攻をするロシアのプーチンをみていると、逆に「戦闘狂い」と呼びたくなるほど、疑心暗鬼に、ロシアが脅かされていると妄想を膨らませているように感じる。しかし、「平和惚け」とか「戦闘狂い」と(個人的性向のように)レッテルを貼って忌み嫌うより、「平和惚け」が育まれた社会とはどんなものであったか、「戦闘狂い」が引き起こされた世界はどのようなものであったかと、社会的な傾きとして見極める「研究」をすることによって、それぞれの特性を持ったヒトの立ち位置や社会・世界の特性を取り出し、人類史的な歩みの現段階と考えてみることが大切だ。
そうすると、「研究」的に考えている「わたし」が身を置いている「せかい」の現在地が浮き彫りになってくる。わが身を置く現在地とは、「わたし」がどのような視点から「せかい」を見ているかを炙り出す。それは逆に、「戦闘狂い」のヒトがどのような立ち位置で世界のモノゴトをとらえているかも、明らかになってくる。そうして、その世界が「わたし」にとってどういう意味を持つかを、わが身を軸にして見て取ることができる。つまり、ヒトの妄想は、その個体のコトというより、その「せかい」がもたらしているクセと考えることによって、社会的な課題が浮かび上がり、それが「わたし」の感性や考え方の傾き・根拠を鏡に照らすようにしてくれる。「わたし」の裡に「平和惚け」も「戦闘狂い」も同居していることがみえてくる。それらに対する「わたし」の態度決定によって、自己が形づくられる実感も感じ取ることができる。それは、好ましい感触だけでなく、自身が世界においては卑小で猥雑な身なのだという自覚にも通じる体験となる。
人類史は、日本列島の私たちが肌で感じている以上の戦いを感じてきた。ヒトの住む世界が広がり、その数も密となり、互いの生死を賭けた確執も頻繁となった。長年にわたって由緒由来を引き継いでいるうちに、もはやなぜ争っているかもわからないまま、憎しみ合い、恐れ、疑いを抱く。だが、わが身の裡に似たような感性や考え方の欠片が潜んでいることを感得していれば、他のヒトの異質性に対しても、ある種の共感性をもって向き合うことができる。彼、または彼女は「わたし」とは別だが「わたし」とつながっているという感触。これは、ヒトの理解し合う土台を為している。
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