今日(3/10)は東京大空襲の日。11年前の3・11の前日でもあるが、空襲の方が、いまは切迫感をもって思い浮かぶ。ウクライナで戦争が行われているからだ。またそれが、私たちの日々の暮らしに直結していることも、国際関係における77年の世界の径庭を実感させている。
今日の朝日新聞の「オピニオン&フォーラム」欄はウクライナ侵攻が核戦争になるかという懸念と東アジアにおける中国と台湾の今後を取り上げて、国際政治学とアジア政治外交史の専門家二人に意見を聞いている。両者ともロシアと中国の「権威主義大国の個人独裁」を前提にして論を進めている。
核抑止について一橋大学教授の秋山信将は《「核さえ持てば抑止に」は安直》として、《プーチンの頭の中で核をめぐる便益とリスクのバランスがどうなっているか》へ探りを入れて、《欧米の経済制裁でロシアが債務不履行になって国家として破綻したとき、破綻するくらいなら世界を吹き飛ばす覚悟で核兵器を使うかも知れない。そこがわかりません》と展開する。
その根拠として《ロシアの核戦略の基本政策を読み直すと、国家存続の危機には核を使うとあります。……プーチン氏に対する驚きとは、奇想天外なことをしているというよりも『書かれたとおり実際にやるんだ』という驚きです》と続ける。
この最後の「驚き」は「人間要素」と言ってもいいくらい、私の抱いているプーチンのイメージとピタリ一致する。ウクライナ侵攻のロシア軍は、当初イメージした作戦の通りにコトが進むと想定して展開している。むろん現場の指揮官はそんなことをしていては、将兵を統括できないからやりくりをするのだが、最高司令官(とそれを取り巻く司令部とロシアの社会的気風)の「書かれたとおりにやる」という「人間要素」を常々感じ続けてきているから、基本的には当初作戦通りにコトを進めようとしてしまう。2014年のクリミア併合時のウクライナの戦力と同様と侮ったと、どこかの戦力研究所が分析していたが、その後の欧米の助力を得て戦力強化を図ったことを算入していなかったというのだ。
それを指してこの国際政治の専門家が、経済制裁が国家存亡の危機となったときにもロシアは核兵器を使用する(かもしれない)という想定は、もう一つ次元をあらためた展開に見えた。「ロシアのない世界に存在理由はあるか」と(プーチンの頭の中を)この教授は明示しているが、ここまで踏み込むと、いかにもドストエフスキーの世界と重なって、その世界観がビリビリと響いてくる。まいったなあ。
日本がアメリカから核を借りたらいいんじゃないかという「核共有」の話は、じつは去年11月のseminarで耳にしていた。とのときは、おっ? と思ったが、その話をした友人が、どちらかというと日本の産業社会を動かしている階層に近いところに位置しているから、そういう話が(その世界では)まかり通っているのだと思う程度であった。それがこのウクライナの事態を受けて元首相の口から飛び出してきた。11月の印象が裏付けられたわけだが、秋山信将は「核共有」に触れて、手厳しく現実論を展開している。
《誤解とイメージ先行の議論に見える。……(核は)米国の同意なしには使えない。また例えば中国が侵攻するとすれば、戦術核が配備された日本の基地をまず無力化するでしょう》
つまり、核を使用してなお、「勝利」する見通しが立っていなければ、核装備はほとんど意味を成さないと見切っています。何時であったか毛沢東がアメリカの核の脅しに触れて、もし核戦争となっても人口が多い中国は決して全滅しない。やれるものならやってみろと居直ったことを思い出す。つまり、核の装備云々をするときヒトはそれ以前の子細を遮断して考えなくなり、単に機能的に、まるでゲームをしているように世界を動かしていしまう。その実例見本のような展開が、いま目前のウクライナで起こっている。そう感じさせる記事である。
他方、アジア政治外交の専門家である東大教授・松田康博は、経済制裁がロシア経済に大打撃を与え、武力で現状変更を試みても思い通りにならないことと分かれば、台湾を武力統一することがどのような代償を支払うことになるか「周氏は……慎重にならざるを得ない」とみる。その根拠として、《中国共産党にとっては『生活が良くなった』というのが支配の正統性根拠です。台湾を武力統一しても、その結果人々の生活が苦しくなれば正統性の根拠が崩れかねないのです》と述べて、ウクライナの趨勢が台湾の将来に大きく影響することを見通している。
これも、中国の民の「人間要素」を構造的な一部として組み込んでみていることが感じられて、私の直感に見合っていると受け止めている。
この二人の専門家の取り上げているプーチンと習近平の世界が観ている「人間要素」は大きく隔たりがある。前者は、ロシアと自身が一体化している。後者は、中国の民と共産党の一党支配というフィクションが、民の暮らしの豊かさに支えられていることを感知している。習近平の「人間要素」は「(民を)支配している」という疎外感を感じていることから繰り出されている。プーチンのそれは、自身と民とが分離していることには耳を貸さない(貸したくない)という「情報統制」によって、自己自身をロシア社会から疎外している結果、生じている。
こうやって考えてみると、統治者というのは、如何に自己を民の社会において位置づけることができるかによって、社会を統べる底力が築かれるのかも知れないと思う。そこまで考えて置かないと、自由社会の統治者はまた別、というあしらいをしてしまう。日本の政治家もまた、プーチン性を抱えているし、いつも習近平性に誘われている。
市井の年寄りが観ていると、何だそんなことかと思うことが、案外、当事者には分からないもののようだ。
岡目八目がいいってことか?
バカ、縁台将棋じゃないんだって。
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