2022年3月8日火曜日

蟲同様

 啓蟄。地中から虫が顔を出すように、わが身の裡のエントロピーがもぞもぞと這い出してくるようだ。このところ、歩き回っている。

 東松山の森林公園、北本の自然観察公園、川口の彩湖・道満堀、浅場ビオトープや秋ヶ瀬公園と師匠について行くときは車。その間隙を縫うようにして独りで、見沼田んぼの東縁・西縁を3時間ばかり散策する。

 師匠と一緒の時は、それぞれの場所でそれなりの収穫がある。東松山の森林公園では、アトリを観た。アオジやシジュウカラも屯っている。また、60羽ものハシビロガモが公園の中央に近い山田大沼に群れていて、何羽もが中央に頭を寄せて水につけ、ぐるぐると時計回りに回っている。ハシビロガモの餌を採るときの習性だそうだ。10羽以上が集まって回っているのもあるし、2羽がぐるぐると回っているのもある。

 北本の自然観察公園ではミヤマホオジロがいると聞いていた。5、6人のカメラマンが屯していて、場所はわかったが、しばらく待っていても出てくる気配はなかった。公園を一回りしていると師匠が呼び止める。師匠の双眼鏡がのぞき込む先を探す。ルリビタキがいる。小さく丸まったような体つきにまん丸な目をつけて縫いぐるみのようだ。川口の彩湖・道満堀ではアリスイをみた。一回り7,8kmの彩湖の周りを経巡っているとき、二人のバードウォッチャーが、高い土手の上から下の茅原を覗いている。近づいていくと、低声で「アリスイ!」という。彼らの双眼鏡の向く先を探す。いたいた。顔の先まで保護色で覆ったようなデザインが見つけにくい。鳥を観るのにも目がポイントになっていると、わが物の見方のクセを発見したような思いがする。

 坂戸市の浅場ビオトープへ行ったら、本当に鳥がいない。シジュウカラやムクドリ、ヒヨドリ、ツグミ、エナガをみたくらい。ところが、いつもガビチョウを見掛けるところで椅子に座ってカメラを構えた人二人。手招きして「ガビチョウとクロジがいるよ」という。餌付けしている。ガビチョウは4羽やってきて、ひまわりの種を咥えては近くの木の枝に飛び移る。クロジが出て来ない。気の毒に思ったのか、スマホを出して、師匠と話をしている。「秋ヶ瀬公園にレンジャクが3羽出た」と、ホームページに書いているらしい。と、クロジが出てくる。カメラの連写音がシャカシャカと鳴る。みていると一人が「あれっ? 写真撮らないの? 勿体ないなあ。観てるだけなんだ」「頭に刻むんだ」と言葉を交わしている。お礼を言って、その場を離れ、秋ヶ瀬公園に行ってみることにする。

 秋ヶ瀬公園までも道路は順調だった。12時過ぎに着く。ヤドリギのあるところを少し離れた森の歩道にカメラマンらしき姿が集まっている。近づくと、「ルリビがいる」と教えてくれた。カメラの向いている方向を探すが、見当たらない。と、師匠が指さす。わからないわけだ。なんと、すぐ手前、2メートルほど離れた道の脇の高さ50センチほどの小枝に止まっている。こんなに近く、静かに立ち止まっているルリビタキなんて、はじめて。丸くつぶらな目が何ともかわいらしい。レンジャクはみつからない。こうして門前の小僧の鳥見は、少しも深化せず、ただただ横並びに観た類数が並ぶだけになる。

 独りの時は、双眼鏡は首に掛けているが、ほとんど鳥は気にしない。どちらかというと、木や草花の春模様を目に留めるくらい。畑をやっている人と今年の稔りを聞く。コロナで需要が減ったのに、お湿りが程ほどあって冬作物の作柄はいいという。でも捌けないから、みなあげちゃうのよねといいながらほうれん草を収穫している。空気はまだ冷やいが、雲一つない上からの日差しがあたって身は温かい。こういう歩きは、歩数が多くなる。見沼自然公園へ行き、新都心と岩槻に挟まれた見沼田んぼの広大な芝川の三角州の台地を経巡って、さいたま市立病院の辺りから家へ戻る15kmほどを3時間ほど掛けて回る。わが身の歩行力を計っている。まだまだ昨年の調子は戻っていない。

 啓蟄の蟲は昆虫の類いの総称と思っていた。「新字鑑」は《人・獣・鳥・魚・貝、および爬虫類以外の動物の称》とあり、私の思い込みと同じであったが、「新漢語林」では《動物の総称。羽虫は、鳥。毛虫は、獣。甲虫は、亀の類い。鱗虫は、魚類。裸虫は、人類》と記している。「新字鑑」は昭和14年に刊行されたものらしい。私の手元にあるそれは、遣いすぎてボロボロになり、表裏紙を薄い布で覆って手当てしているせいで、奥付もなく、表紙も隠れて見えない。「自序」を盬谷溫という方が、この辞書の監修者らしい。昭和13年の日付が入り、冒頭の表紙を一枚開けたところに「温故知新 文麿」と墨書した扉がおいてある。また、「殊に日支満三國を合わせて一大文化世界を成さんとする今日……」と「文學博士 井上哲次郎識す」が記されていて、15年戦争戦時下の時勢が漢字文化圏を領導しようという気分が滲み出ている。

 だが面白いのは、「新漢語林」の方。こちらは戦後の編輯になる。「蟲」を中国の漢字の語源から解き明かしたものだろう。ちょっと疑問なのは、「動物の総称」というのは、本当にそうだろうかということ。「羽虫は鳥、毛虫は獣」という指摘は、獣・鳥という種の類別概念があった後に、羽虫を鳥に加え、毛虫を獣に属すると指摘する意味合いではないか。だから「甲虫は、亀の類い」という表現が間に挟まっている。「裸虫は、人類」というのは、比喩的な表現であって、「蟲」が「動物の総称」だからではないと、私は読み取ったのだが、私の読み違いなのだろうか。もちろん、「裸虫は、人類」というのを私は、面白い表現だと思う。いかにも「ヒトという動物」を、動物の次元から規定するような趣があり、人類のクセである言葉の縦横さを象徴するように思えるからだ。

 鳥を観ている門前の小僧も、鳥にヒトの暮らしのイメージを仮託して、面白がっているに過ぎない。生態的な物言いをする師匠の言葉尻が、ときどきヒトの暮らしに刺す棘のように響いて、はっとわが身を振り返る瞬間がある。ああ、これが鳥観の醍醐味なのか。そんなことが一瞬脳裏を掠めて過ぎていった。

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