従兄弟というのは不思議な存在だ。明治生まれの私の父は長男であった。次男の叔父は、家業を継ぐわけにも行かないだろうと、当時は次三男を大学や軍隊へ行かせた例に漏れず、大学へ行き経営コンサルタントのような仕事をしていた(らしい)。
その叔父の長男が私より一つ下、2番目の長女がいて、その下の次男が私の末弟と同じくらいの年と、子どもの頃から聞いて育った。世間体にまみれて己を立てていた母親は、私より一つ下の従兄弟の消息を、私を叱咤激励するために口の端にのせたのであろう。むろん名前は知っていたし、何かの折に会ったこともあったようにぼんやりと記憶しているが、覚えてはいない。遠く離れて暮らしているから滅多に会うこともなく、大きくなった。
実際に顔を合わせて、ああこんな人だったのかと知るようになったのは、わりと長命であった叔父や叔母の逝去や法事などの時。すでに私も還暦を少し過ぎており、当の従兄弟も50代半ばだったであろう。その間に何十年もの空白がおかれている。その空白期間こそ、ご当人にとっては人生の主要な活動時期。仕事も子育ても活力を持って向き合っている時。その期間を隔てて会うということは、振る舞いも人柄もすっかり出来上がって後に(久々に何十年の径庭を経て)出会うことになる。何をしてどう生きてきたかも全く知らない。それなのに、昔からよく見知った人のようにすぐに打ち解けて、いろいろと語り合う間柄になる。不思議であるし、面白いことであった。
その叔父の次男とおしゃべりしたのは、十数年ほど前の祖父母の法事の時だったか。大阪に住む高齢の叔母夫婦を車に乗せて高松までやってきていた。彼がどんな仕事をしてきたかを聞くことはなかったが、人の話をやわらかく受け止める懐の深さに感心した。
その後、メールで遣り取りをするようになり、賀状の交換も続いた。彼の奥さんの母親の介護もあって、奥さんの実家のある霧島に居を移したと知らせがあった。私が山歩きをしていることを知って、「霧島山に登ったことはある?」と問い、「いや、九州の開聞岳と霧島山と祖母山が残ってる」と応えると、「ぜひ上るときに、家に立ち寄って下さい」と元気な応答があった。そのときだったか、土地の改良に取り組んでいて、これがなかなか厄介だが面白いという話もしていて、その自然と一体となって身をおくことを楽しんでいる風情が、どことなく私の感覚と響き合って、面白く感じていました。そのとき彼の奥さんが私のブログを読んで面白がっていると言葉を添えてくれ、私も霧島山には一度足を運ばねばならないなと思っていた。
ちょうど山歩きの調子に乗っていた昨年、キリシマツツジの咲く頃に開聞岳と霧島山と祖母山に行こうとプランニングもしていた。ところが4月に、私の滑落事故と救助・入院と長いリハビリ期間があり、思いが果たせなかった。
今年の正月の賀状には、「私は突発性難聴や高血圧とお友達になってしまいました」と書き添えて、やはり高血圧や痛風に悩まされている私と同世代になったとやさしい言葉を送ってくれていた。また「パソコンがダメになりメールの遣り取りができません」と断りがあった。こちらも思い当たることに見舞われていて、アナログ世代の壁に彼もぶつかっているのかと可笑しかった。
その彼の奥さんからつい2日前、その従兄弟が逝去したと知らせが届いた。3月1日になくなり、5日に葬儀を済ませたという。ま、コロナの「蔓延防止措置」ということもあるから、葬儀に顔を出せないのはやむを得ないとしても、あまり突然の訃報に驚いている。
その驚きの日の深夜に、ゆっさゆっさと揺れが突き上げてきて、床の中で「これは、大きいな。何時?」と声を出し、カミサンが「3時」というのを聞いたままで、目が覚めず、また夢心地に溶け込んでしまった。ところが夜中にトイレに行ったとき時計を見たら、3時半頃。へえっ、まだ30分ほどしか経ってないの? とヘンな気分になった。朝そのことを話すと「23時**分といったよ」と返事が返ってきた。それくらい、突然の揺れと目覚めと、また夢の中であった。
霧島に住む従兄弟の逝去の訃報も青天の霹靂。わが身のどこかに、ど~んと響きを伝えている。夢であったらいいのにと思いながら、奥様にお悔やみの手紙をしたためた。
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