2022年3月9日水曜日

容易に同調できない身の裡のわだかまり

 友人から、ウクライナ侵攻に関するユヴァル・ノア・ハラリの「寄稿」のURLが送られて来た。

《ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、2022年2月28日付の英国ガーディアン紙に「プーチンは負けた――ウラジーミル・プーチンがすでにこの戦争に敗れた理由(原題:Why Vladimir Putin has already lost this war)」と題した記事を寄稿しました》

 という、400字詰めで8枚くらいの記事。柴田裕之=訳。

「歴史に学べばプーチンの野望は必ず粉砕される、とのハラリさんの予見には勇気付けられますが、これからのウクライナの長い苦難を思うと胸が痛みます。/マンボーの延長で飲み会のできない呑気な年金生活者ですが、その無力さに歯噛みするばかりです」

 と友人の言葉が添えられている。そう言えば先月彼は「ウクライナへ行ってきます」とメールに書いてきた。「そりゃあエライ、私は〈痩せ蛙負けるな一茶ここにあり〉って声を掛けるくらいしかできませんが」と返信したのであった。

 ユヴァル・ノア・ハラリのプーチン敗北宣告は、プーチンの誤算がすでに証明されたとして、ウクライナの人々の抵抗を讃える内容。同時に、それを目にし耳にしている世界中の「読者」によびかけるもの。なぜ「敗北宣告」できるか。ちょっと長いが、引用紹介する。

《今後何十年も何世代も語り続けることになる物語が、日を追って積み重なっている。首都を逃れることを拒絶し、自分は脱出の便宜ではなく武器弾薬を必要としているとアメリカに訴える大統領。黒海に浮かぶズミイヌイ島で降伏を勧告するロシアの軍艦に向かって「くたばれ」と叫んだ兵士たち。ロシアの戦車隊の進路に座り込んで止めようとした民間人たち。これこそが国家を形作るものだ。長い目で見れば、こうした物語のほうが戦車よりも大きな価値を持つ。》

 虐げられた人々の様子は、何であれ無力な市井の民である私たちの共感を誘う。ハラリは、この状況を作り出したのはかつてナチスドイツの攻撃に耐えた物語を聞かされて育ったであろうプーチンという皮肉を記しているが、今回はヒトラー役に自らを模していることについてのプーチンへの問いかけはない。

 気になったのは、ハラリが賞賛するウクライナの人々の抵抗は、私たちもTV画像を通じて日々目にしている事実。情報が瞬時に駆け巡る世界に私たちは身を置いている。これが76年前と違うと、わが身の裡のどこかが反応している。市井の民は同時に、プーチンと共に歩んでもいるということだ。

 76年前の日本の市井の民はプーチンではなかったか。同じく市井の民でしかない(むろんまだ3歳の)私(の親父・お袋)たちがハラリの言葉に共感するのは、同じ世界に暮らしているという「情報共有」の感触が底流しているからなのか。ハラリの言葉にこころが共振するには、(私には)もうひとつ媒介項が必要ではないか。そんなぽつんと一点の疑念を残している。

 ハラリは、この賞賛の前段で次のように記す。

《……ウクライナ人が1人殺害されるたびに、侵略者に対する彼らの憎しみが増す。憎しみほど醜い感情はない。だが、虐げられている国々にとって、憎しみは秘宝のようなものだ。心の奥底にしまい込まれたこの宝は、何世代にもわたって抵抗の火を燃やし続けることができる》

 もしこれも「そうだ、そうだ」と共感するなら、韓国の従軍慰安婦問題や強制労働に対する、未だ続く反日感情を思い起こさないではいれらない。政府がいくら条約を結んで戦前の精算をしたと言っても、「秘宝のようなもの」は消え去ろうとはしない。ハラリがイスラエルの民であることを勘案すると、彼にはそう言うケンリがあるとは思うが、日本にいる私たちがそう簡単に(内心の)プーチン性を消し去って共振するのは、立場をわきまえない所業ということになろうか。そんな気が掠めるのである。

 ハラリは、「読者」に呼びかける。

《私たちの誰もがその意気に感じ、腹をくくって手を打つことができるだろう。寄付をすることであれ、避難民を歓迎することであれ、オンラインでの奮闘を支援することであれ、何でもいい。ウクライナでの戦争は、世界全体の未来を左右するだろう。もし圧政と侵略が勝利するのを許したら、誰もがその報いを受けることになる。ただ傍観しているだけでは意味がない。今や立ち上がり、行動を起こす時なのだ。》

 そう言えば、この友人は戦後の団塊世代の最後を飾る生まれだったか。76年前に終わった戦争のことを覚えていなくてもムリはない。私のわだかまりは、私たち日本の市井の民は情報が共有されているからといって、ハラリと同じような立ち位置でものを言っていいのかという「当事者(の歴史)性」にあるのかも知れない。それは同時に、いま私が身を置いている社会は、未だウクライナの民と同一化できるほど〈被害者的立ち位置〉をとれるのか。いやそうじゃあるまいと、身の裡が呟いている。

 もちろん私が踏み出す次の一歩が、市井の民の踏み出す次の一歩になることは間違いない。だが、それはもう一度、プーチン性をわが身の裡に探り返し、そこを踏み越えてでなければなるまいと感じている。だから、ハラリにすぐに乗っかれないのだと自問自答している。

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