ウクライナの戦争について、東洋経済オンライン(2022/03/11)の《「情報戦」でウクライナが圧倒的に優勢な理由》と見出しをつけた本田哲也記者の記事が目を引いた。読み手の方に「ウクライナが優勢」という表題を歓迎する気分も作用している。
本田はITのネットワークやSNSがもたらした「戦争」の変化をみつめて、3点の特徴を挙げる。
(1)ストーリーではなくナラティブが力を持つ世界が展開している。
(2)大きな物語ではなく、個人のナラティブが人々の心に響く。
(3)プロパガンダが通用しなくなっている。
《ナラティブとは「社会で共有される物語」のことだ。「ストーリー」が起承転結のフォーマットで一方的に語られるものであるのに対し、ナラティブは「共に紡ぐ」、つまり共創という特徴がある
と解説する。ロシアがナチス流のプロパガンダを駆使しているのに対して、ウクライナはSNSやITのネットワークを用いて、ナラティブを発信していて、優勢に立っているという。
ストーリーというのは「起承転結」を持つ、つまり完結した物語。それに対してナラティブは断片に過ぎない。
《ウクライナはロシア兵の捕虜のためにホットラインを開設した。その名も「come back alive from Ukraine(ウクライナから生きて帰る)」》
捕虜となったロシアの兵士が親たちとネットで言葉を交わす。これはTVでロシア兵が口にするのをいくつか耳にした。
「演習だと聞いていたのにウクライナに来ていた」
「母親と子どもを殺せと上官が命令した。私と直属の上司はそれを拒んで助けようとしたら味方から銃撃された。上司と母親は死んだが、私は子どもを連れて逃げ、今ここにいる」
という身につまされるような言葉も聞いた。この語り口は、いわゆる捕虜が敵の宣伝のためにそう喋らされているという風情ではない。あるいは、ひょっとしたらそうかも知れないが、「ホットライン」から漏れてくる言葉としては、胸を打つ。それは本田は、ナラティブは「社会で共有される物語」と分節化する。私流に言えば、世界の断片。神は微細に宿るという、その「断片」だから、余計私たちの心に響く。たぶんんこの「ひびき」は、視る者聴く者に問いかける余白をもっている。視聴する者が余白を埋めることによって「ものがたり」が完成する。それはつまり、発信者と受信者が共に(参加することによって)「共有」することが生み出す響きなのであろう。まさしく本田が「共に紡ぐ」と指摘する物語なのだ。
それを戦況に影響することとして捉えて本田は、《世論を味方に付ける》と読み取っている。だがいま日本の市井の老人としてみている私としては、そこにこそ「真実」を読み取るきっかけがもたらされていると感じる。明らかに発信者の能動的な「意図」が感じられるプロパガンダではなく、いまそこに起こっている国際情勢の真実を読み取るリテラシーが込められて提示されているのだ、と。
《ロシアによるプロパガンダや、ウクライナによるSNSなどでの情報発信という当事者に加えて、一般の人がどんどん参画してきてナラティブを作るという構造》
と、本田は指摘して、それを《「シチズンジャーナリズム」ともいえる》と述べる。
つまり、SNSやITネットワークは、それを通じて感知している人々を、ことごとく「当事者」として巻き込んでいる。そこでは恒に、「では、あなたはどうするのか」という問いが投げかけられ、当然、応答することが求められている。知らぬ顔の半兵衛を通すわけにはいかないというのが、私の身の裡に感ずる市井の民である。そう感じた点で、世界は変わりつつあるのかも知れないと、思う。
一匹の蝶のように、一つひとつ丁寧に、「わたし」の応えを重ねていく。そうすることが、いつか、メキシコで竜巻を起こすことにつながるかも知れないと、たぶんメキシコにいるであろう孫や子に呼びかけるように、綴っていく。
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