一年前(2021-3-27)のブログ記事《「かんけい」の気色》を読んで、気になることがあった。
(1)冒頭の「今月で仕事をリタイアする若い人」というのが誰か、思い出せない。コロナ禍もあって、誰彼と会ってはいるわけではない。電話で言葉を交わしたのだろうか。「大宮第三公園」というのは居住地近くを示している。ごくごく狭い私の人間関係。にもかかわらず思い当たらない。どういうことなのだろうか。惚けが進行しているってコトか。
(2)《座標軸の原点は、「わたし」である。それは認識の原点ということであり、「せかい」の原点でもある。》というのは、論理的な規定。ヒトが成長過程で経験的に取得するのは、日々、関わりを持ち、言葉を交わし、他のヒトの応対を感じ、それに対して応答し、それがまたどうヒトの反応を引き起こすかを遣り取りしながら「せかい」を紡ぎ出していく。かかわっている相手の応対によって、「わたし」も「せかい」も移り変わる。論理的な規定は、あたかもかっちりと「規定」が形成されるとそれが保持され続けるように思えるが、実世界ではそうではなく、日々の応答によって感知される「かんけい」によって「わたし」も「せかい」も変容する。と、一般的に言ってしまうとそりゃあそうだろうと思う。だが、もっと具体的に考えてみると、移り変わるというほどスマートに言えることではなく、「わたし」は混沌の渦中にいる。いったい何のために生きてんだろうとか、「わたし」ってなんやと、暗中模索、五里霧中、つかみ所のない「せかい」に「わたし」が浮遊して落ち着きどころが分からず、自分がいやになることも多い。逆に言うと、「せかい」は日々、つくり直されている。「わたし」も日々つくられている。とすると、一貫性っていうのは、なんだ? 私は「わたし」だという確信の根拠って、なんだ? その問いがいつもつきまとう。自問自答が繰り返され、積み重ね、突き崩されていく。
(3)《「科学的」「客観的」事象はどう捉えることができるのか》という問いに関して、その見解を《(信じている人の数の多さ)というのではなく、(エビデンスとか限定した場での論理的正当性とか説明の簡潔さという)権威(の多数派)が作用している》と、支持するヒトの数という「量」ではなく「質」だと言ってはいるが、「量」の多寡のイメージが張り付いている。これは、ちょっと違う。ここでいう「質」も(2)と同様、事々に「科学的」「客観的」であるかどうかを吟味することによって、移り変わる。そして、行き着くところは、「わたし」は何をもってコレを「科学的」「客観的」と判断しているのかと、自身の判断の確信の根拠を自問自答するところへ行き着く。
(4)つまり、他のヒトがどう「その見解」を支持/反対しているかは、どうでもいいことだと気づく。「質」というのは、結局自分自身の確信の根拠を問うことに行き着く。その自問自答へたどり着く蓋然性をもう少し論理的に組み立てて説明する必要がある。さらに、「確信の根拠」というとき、「情報」をどう受け止め、どのように組み立てて、どのような物語りにしていっているかが、問われているのだと思う。
(5)そうしたときに、物語の「質」は自己完結する(起承転結が明々白々に出来上がっている)ストーリーではなく、読み手、受け取り手、応答する人たちとの相互的な物語り(ナラティヴ)が、「かんけい」的には相応しい。遣り取りが発生するのだ。ということは、相互性を保った物語りか、自己完結する物語(ストーリー)かという話しの見立てが、まず見極めの一つの指標になる。これは、オードリー・タンの「オープン・ガバメント」の考え方にヒントを得ている。政策を立てていく過程そのものが、具体的な問題を組み込み、時間的な処理も含めて優先順位を検討し、実際にかかわる人たちがひとつひとつ解決に近づいていく時期と方法を見立てながら、立案し、予算執行して行くプロセス。それこそが、日々、一つひとつ具体的に民主主義を実行する過程であり、そのやりとり(フィードバックと専門家はいう)が、人々の確信の根拠となり、信頼を築いていくのである。これは民主主義の不可避性をも示すことである。
(6)《はじめに言葉ありき、と語りはじめることの嘘くささと、でもそうだよなあ、はじめに言葉ありきだよなあ、と感じる真実味の実感とが身の裡に溶け合ってひとつになっている》次元で、ヒトとのコミュニケーションが交わされるとき、その遣り取り自体の中に「わが身の存在の社会性」が浮かび上がる。「関係的実存」の繰り返す確認でもある。
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