3月seminarの案内をした。1月には「蔓延防止措置」が出たせいで実施できず、延期していた。今回は、予定の3/21に「措置解除」されれば実施ということで、案内に踏み切った。11月seminar以来となる。歩きながら11月の「お題」ジェンダーギャップを考えていて、言い落としていた一つの視点を思い起こした。
オリンピック組織委員会・森喜朗会長の発言が「女性蔑視」と問題になったとき、傍らにいた橋本聖子や丸川珠代は異議申し立てをしたわけではなかった。もちろん自分たちを引き立てた「父親みたいな人」だったから、たぶん〈全く(いつもの調子のつまらないジョーク)しょうがない人だね、この人は〉くらいは思ったかも知れない。つまり、森の個人的資質に属する問題とみていて、これがオリンピック委員会の根幹にかかわる社会問題とはみていない。橋本も丸川も当事者とは考えていない。
ところが欧米からの強い反発ではじめて、森会長の個人資質の問題ではなく、日本のオリンピック委員会の姿勢を問われる問題だと、はじめて認識したみたいであった。これは、どういうことか。森個人の資質問題とみるのは、橋本聖子や丸川珠代の問題ではないということ。つまり、彼女たちは、この問題の当事者ではないといっているようなものだ。
私は、森の発言を軽いジョークと受け止めていた。無論私は、あのような発言はしない。「女の人が発言すると会議が長くなる」などというのが、「女性を馬鹿にした」発言であることはいうまでもない。だから余計に、(エライさんの下手な)ジョークと受け止めていた。「女性蔑視」といわれて最初、森は(何を言われているか)わからなかったようだった。取り巻きも別にそう感じた気配がなかったから、いっそうそう感じたに違いない。つまり、この時点で、この問題は森個人の問題ではなく社会問題として取り上げられなければならなかったと言える。
社会問題として取り上げるとは、どういうことか。森の発言が「いいかわるいか」というよりも、そのような発言がジョークとして通用する社会とは、どういう社会なのか。そこにおける女性の地位は、どう扱われているとみたらいいかと、「研究する」ことである。
もちろん誰が、何について、どう発言するかで、切り取る局面は異なる。なぜ異なるか。発言者が、どういう立場の男なのか、女なのか。会議における女性の発言をジョークにする、つまり「からかう」というのは、男たちにとって「嗤う」ことなのか。それはどういう意味を持っているのか。なぜ女性の発言は「嗤い」の対象となり、男性の発言は「まっとうの発言」と受けとられるのか。そう考えていくと、男・女という概念に優劣の序列を持たせていることが浮かび上がる。
そうやって「研究」していくと、例えば次のような特徴が浮かぶ(と私は思っている)。男は、序列秩序が明快であることに順応性を示し、女性は序列秩序に構わず(言いたいことを)発言する。つまり男は、森が会長であり、彼の実績が(自分に比して赫々たるものであると)認められるとか、会議の場に提案されていることが事務局提案であり(当然ながら)会長らの根回しを経ているとみとめられるとか、異議申し立てをしていいかどうかを忖度して、沈黙を選ぶことが少なくない。ところが女は、その提案が(裏付けの権威を得ているかどうかを斟酌せず)言うべきことを口にする。あえて男女に分けて、会議における発言の特質を(私の経験則で)腑分けすれば、上記のようなことが言える。
これって、女性差別か?
これは、女性差別と言うよりは、会議における序列秩序の裏付けをどう評価するかという問題である。それはとりもなおさず、「会議」が何を審議するために開かれているかを規定する、根本問題でもある。「根回し」を当然とする社会風潮は、或る種日本のお家芸といわれてきた。会議の(例えば国会の審議などの)場では、予め、序列秩序は(発議・提案者の)「原案の権威」として組み込まれている。それは多数派の意向かも知れないし、幹部の意思かも知れないし、閣議決定かも知れない。だが、会議の場で(その集団の)意思を明確にし、異論を闘わせ、細目を詰めて「草案」を練り上げていく論議を交わす場であれば、「原案」の権威は脇に置いて、いろんな方面からの異議を受け、遣り取りを交わすことは避けて通れない。
この各方面の意見を戦わせて意思集約をしていくというのが、民主主義である。だが日本の民主主義は、そのようなものとして定着しているところとそうでないところが、まだら模様になって入り乱れている。
一つの例を挙げる。高等学校の職員会議で学校の運営方針が練り上げられ、年間行事から学年方針まで全体の職員会議で討議され、調整し、承認・決定していくという手法の会議を、私は、長年に亘って経験してきた。だから、議事の進め方においても、「原案」を必ず提案し、異議を受け付け、論点を整理し、論議が紛糾すれば継続審議にしたり、原案を練り上げて再提案して貰ったり、時に会議の場で修正して、決定するということを長くやってきた。その子細が、教師たちの考え方の差異を明らかにし、人柄を浮き彫りにもし、その人の教師としての力量評価につながったりもした。遣り取りを交わすうちに(学年などの場合)、いろんな資質を持った教師たちがだんだんチームになっていく面白さが感じられ、それがいっそう教師たちの結束につながっていった。
ところが私が退職する頃、職員会議は協議決定機関ではなく、指示伝達機関だと(文科省から)教育委員会当局を通じて下達があり、私が退職して後に、実際そのように職員会議の運用が変更されていった。こうなると、発言の性格も異なってくる。異議の申し立ても、無用になることが多くなる。教師個々人の胸の内を探ってみると、〈上意はわかった。それを実際に(わたしが)行うかどうかは、また別の問題次元〉となる。面従腹背という言葉も、見え隠れするようになった。教職員の(それぞれの)意思は問題にならず、指示が実行されるかどうかだけが問題になる。つまり会議が、元々ある(にちがいない)教職員間の意思・意見の違いを付き合わせて「研究」していく性格から、意見の違いは問題ではなく、指示に従うかどうかだけが取り沙汰される風潮が蔓延る。こうして、「討議決定する会議」は学校から召し上げられ、教職員は学校長の下僕になった。
このケースが何をもたらしたかは、また別の問題だからここでは触れないが、オリンピック委員会の森会長が経験してきたことは、日本の政治家たちの取り仕切っている「会議」は、上意下達の会議だったに違いない。森会長にとって、(事務局から根回しで聞いていた)「原案の権威」を前提にしない女性の発言は、時間を長引かせるばかりの猥雑なことと思われたに違いない。
森会長の発言は、ジェンダーというよりも、会議そのものの性質とか、オリンピック委員会の運営そのものの上意下達性を問題にしなければならないことだったのではないか。逆に言うと、ジェンダーの問題は、それほどに根幹部分にかかわっている。もしジェンダーの問題にするなら、「会議」において意見を言う女性を単なるお飾り(ま、言わでもがなの余計なことを私もいわせて貰うわと時間を取って発言する)として受け止めている森会長のセンスを、「女性蔑視」と指弾しなくてはならない。
ジェンダー・ギャップの問題となると、社会そのものがジェンダー・ギャップを俎上にあげるほど成熟しているのかと、私は疑念を持っている。成熟していないから、口にするかどうかという表層のデキゴトとして扱われてしまう。それ以前の、民主主義的な意見交換と討議の習性を、社会全体がきちんと付けていかねばならないと、現役時代を思い起こしているのである。
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