国分功一郎・熊谷晋一郎『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究』(新曜社、2020年)をまだ読み続けている。その途中で、ちょっと密度の濃い小説を読んだことを思い出した。1年前に書いた記事だ。
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青山文平『跳ぶ男』(文藝春秋、2019年)。(ロックバンド・クイーンのフレディと異なり)音ではない。言葉を紡いだ作品だが、内腑に落ちていく密度が、同じように濃厚であり、私の現在に接着して、かつ、批判的である。
音ではないが、能舞台における所作・振る舞いをことばできっちりと分けていく。その綿密さと子細に届く視線が、読み手の姿勢をきりりと引き締める。そんな思いが生まれて来る小説であった。
《定まった型から外れる所作をすれば、それは能ではなくなる。初めから終いまで、能役者は型をつないで舞い切る。能に、「興に乗じて」はない。》
そのように5歳のころから教わってきた男が15歳から17歳になるまでのお話しであるが、死を覚悟して自らが育った「くに」の先々を切り拓く物語である。この男も、フレディ同様に、能一筋に生き、そこに自らの人生のすべてを投入する。その見切りと漂わせる佇まいの峻烈さが、わが身の現在に批判的に立ち現れるのである。
能というのが、死者と現世とをつなぐ展開をすることはよく知られている。お面をかぶるというのも演者の個体から雑味を取り去る仕掛けの一つという。それも、役者の勝手を許さない所作のカマエやハコビの子細を読みすすめると、ふだん歩いている己の歩き方がどこまで地面との緊張感を保っているかを問われていると思えて、手に汗がにじむ。
かほどに厳しく己を御してきたか。いや、程度のモンダイではない。彼の人のように己自身を見つめて来たかという次元の違いを突き付けられている。もちろん舞台となっている時代の大きな差異もある。人が生きるという、ただそれだけのことに、これほどの厳しい舞台設定を考えたことがあるか。そう思うだけで、ちゃらんぽらんに生きて来たわが身が、いかに人類史のごくごく一部だけを生半可にかじってきたにすぎないか、感じられる。
ま、この齢になってそう気づいただけでも、良しとするかという慰めしかことばにならない。青山文平の紡ぎだした言葉の、鮮烈に印象に残ったことば。「関わりにおいて密、交わりにおいて疎」。このことばの、彼岸からみた此岸への批判的な味わいを、心にとどめておきたいと思った。
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国分功一郎が「意志」と「覚悟」に触れて、ハイデッガーを解説している。ハイデッガーは、「意志」について三点指摘したという。「第一に、始まりであろうとすること……第二に、忘れようとすること……第三に、憎むこと」と。
面白い。「意志」が「始まりである」といわないで、「始まろうとすること」と表現しているのが、面白い。何の始まりか? 過去を切断して、、この先の現在と未来の始まりという意味であろうが、この表現のニュアンスには、その「意志」を持ったことが、新しい何事かの始まりになってゆくという気配が漂う。ふつう「意志」というと、「(何かを)する(決断)」を意味する。それが「過去」と手を切って新しいコトへ踏み出す「切断」になるとみている。「決断」といわず「切断」と「意志」がもたらすことを出来事、つまり事象と中道態的にみているところが、いかにも哲学者・国分功一郎の面目躍如である。国分功一郎の表現が「新しいコトへ成り行きが向かう」気配を、好ましいと私は思いながら読んでいる。「(第二の)忘れようとする」もそうだ。「(何事かへ向かう)意志」を抱いた途端、過去のことを振り返らず、「意志」に関すること以外を考えなくなってしまうというのも、「忘れる」とは書かず、「忘れようとする」とそうした気分が湧き起こって、自ずからそうなっていく気配を湛える。これが好ましく感じられるのは、私の中に「自ずからなる」振る舞い、「なるべくしてなる」行為こそを「じねん」として好ましいと身が感じているのだと思う。「意志」という言葉に画然として体現されている主体性よりも、そうなるべくしてなる行為こそが好ましいという私の抱懐する自然観とマッチする。
なるほど上記の、ハイデッガーのいう「第一」と「第二」は、「なるべくしてなす」「なるようになる」「じねん」へ誘っていくように見えるが、では、「第三に、憎む」というのは、」どう「じねん」に転轍するのであろうか。
それを国分功一郎は、「覚悟」と指摘している。ハイデッガーの「憎む」というのは、「意志」するとき、過去・現在・未来を接続する己が身を「憎む」「じねん」が底流している。それを「切断」し、「忘れようと」して、次なる一歩へ踏み出す始発点にしようと決意する文脈となるのであろうが、それを「覚悟」として取り出して改めて吟味すると、「覚悟」は己が身に染みこんでいる過去・現在・未来をまるごと引き受ける「決断」であると読み取っている。「意志する」ことによって生じた「憎む」が「まるごと引き受ける」ことへ転轍される、身の裡の心象の180度の転換が起こっている。そう私は、読み取って、腑に落とした。これが面白い。
そうして、その転換を違った風に行ってきたのが、一年前に読んだ青山文平『跳ぶ男』の主人公であると、私のどこかで閃いた。ハイデッガーとの違いの根柢には、身に染みこませて受け継いできた「自然感覚」の違いがある。ハイデッガーは、キリスト教文化の自然観を身に付けてきたが故に、そこからの離脱には、ひとまず絶対神から離脱するという跳躍台が必要であった。だが私は、自らをアプリオリに自然存在として内在的にみているから、「憎む」という媒介項を抜きにして、「(大自然の前に己を位置づけて)諦める」とか「分をわきまえる」という「自然」の感覚を備えている。だから、「まるごとの過去・現在・未来を引き受ける」こと自体を、「じねん」としているから、すんなりとわが身と一体化してしまう。つまりわが身そのものが、自然の内的存在というわけだ。
だからこそ逆に、それこそ「意志」なしで(成り行きに任せてちゃらんぽらんに)生きているかのようであり、かつ(その結果)「責任」も感じないという為体になってしまうのだと、振り返って思う。そういう私にとっての「意志」や「決断」「覚悟」の有り様が、『跳ぶ男』の主人公に体現されていて、わが胸を打った。その問いかけに応えないままにいることを、国分功一郎と熊谷晋一郎の著書を読みつつ、あらためて知らされたのであった。
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