2022年3月2日水曜日

座高って、なあに?

 久々に浦和の街へ出る。コーヒーを買いに来た。浦和駅東口のパルコ前のロータリーにはたくさんの人が行き交っている。日差しが明るい。気温ももう春の気配に暖かい。

 前を歩く若い女の子が目に入る。まるでタイツのように身についたジーパンを履いて、さかさかと私を追い越していく。その脚が木の小枝のように細く長い。これで身体を支えるのは難儀だろうと思う。そうだ、いつから日本人の脚は長くなったろうと疑問符が一つ頭に浮かぶ。そう言えば、小学生の頃から高校を卒業するまで、身体計測の時に「座高」を計っていた。身長と座高の関係は調べたことはないが、あの頃は、お前は足が短いと、身長の割に座高が高い友人をからかったり、からかわれたりしたことを思い出す。

 いま「座高」という項目はなくなったらしい。その話をするとカミサンは、

「そうよ、そもそも座高って何のために計ってたの?」

 と、逆襲に出た。そう言えば、何のためだろう。

「椅子に座って座高の高いものが後の方に座るためかな」

「そんなこと、したことないわよ」

 と、子どもの頃は背が高い方であったカミサンは思い当たらない。私は背が低かったから、そう思ったが、でも、そんなことをした覚えは、あったようには思わない。

「ヒトが動物であることを忘れないためじゃないか」

 と私が最終的な思い付きをいう。そうだそれに違いない、と。

「どうしてそんなことをすんのよ?」

 と、とりあってくれない。

「でもね、動物の身体って計るのは座高だよ。頭の先から尻まで、尻を回って後ろ足の先までを〈身長〉として計るなんて、聞いたことがないよ」

 と返すと、〈つまんないことをいう〉という顔をして、黙ってしまった。

 そうだよきっと。動物と同じに計測していないと、種としてのヒトの変化を見損なってしまうかも。キリンなんかは、では、どう計るのを体長と呼んでいるのだろう。頭の先から尻までか、踵から頭のてっぺんまでの高さか。そう考えると、キリンは「体高」というかも知れない。体温はライオンは「体高」は問題にしないかな。それらも、「なんのためにけいそくするの」と問われると、動物学者はどう応えるだろう。その種の一般的な大きさを知るため、というか。とするとヒトだって、一般的な大きさを知るために「座高」が必要なんじゃないか。もちろん実用的目的なんか、埒外に置くのが研究ってもんだ。

 でも「なんのために」といえば、身長だって、何のために計るのよ。体重だって、何のためだよと思う。計らなくたって、背が高い、体重があるとかないというのは、みればわかる。身長や体重が身体の管理にかかわる項目として計測するというのなら、座高もそうじゃないか。

 じゃあヒトの大きさは、人間工学とかに用いるから測らなければならないが、ゴリラはサルの大きさは、「身長」なのだろうか、「座高」なのだろうか。二足歩行になったから身長、四足歩行なら座高というか。それともライオンのような地上生活は座高、樹上生活はまた別というのかいわないのか。面白いが、その面白さは、生活形態とかかわるから一口には言えないところにあるのかも知れない。

 身体計測から「座高」が消えたというのは、ヒトがはっきりと動物と区別されたということ。ヒトはただ存在することではなく、目的的に存在する種になったという証しなのかも知れない。

 えっ? ヒトの目的的ってなんなの?

 それは、いまさらいうまでもないこと。社会機構の中に身を置いて、ただただ働くこと。他の動物や植物や微生物やウィルスなどの生き物とその類いも含めて、彼らとは別の地球の主人になり、自然体系を含めて勝手に作り替えてよろしいと絶対神の許可を得た存在。そういうヒトの「自立宣言」が「座高」の廃止ってこと。そのうち、神をも廃止して「独立宣言」をするようになると、頭も無用になるかも知れない。

 えっ、頭無用って、どういうこと?

 心配ご無用。AIというヒト以上に性能の良いメカニカルな「活物/いきもの」が生産と物流をやってのけ、社会を動かし、ヒトは本当に(食料調達も、文化の継承という面倒なことも無用となって)動物に還って、戦争もせず、幸せに暮らすのだ、とさ。

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