「介護ロス」とは何か? 昨日の話しに続ける。この場合の「介護」は仕事ではない。近親者の世話をすることを意味している。外に世話をする人がいないから、やむを得ず面倒を見ているってこともあろう。現在の介護サービスの仕組みからはじき出されているせいで家で面倒を見るほかないってこともあろう。だが、仕方なく世話をしているということであれば、被介護者が亡くなって「介護ロス」になるということは考えにくい。やむなく介護をするという実感は「介護」を機能的にとらえているから、それがなくなることは解放感につながる。負担に感じていた軛がとれて気鬱になることはないことを考えると、「介護ロス」に陥る「介護」には、介護することそのものが介護者の人生の核心に触れる重要性を持っていたからだと言える。
その「介護者の核心に触れる重要性」を心情面で表現すると「愛している」とか「大切な人」というのであろうが、その心情面には必ずと言っていいほど反対局面の心持ちが張り付いているから、心情面で語り尽くそうとするとぐちゃぐちゃになって、向き合っている「介護的関係」がわからなくなってしまう。近親者が介護するのと介護者に介護を委託するのとの違いは、その心情面の猥雑さを取り払って「関係的な機能性」に絞って、見ていくことが必要になる。
その一つの表現が「他人様の役に立っている」自己充足感と表現することができる。世話をするとか面倒を見るという「かんけい」から心情的な重みを取り払ってみていくと、「世の中の役に立っている」とか「世の中から必要とされている」という自己肯定感は、介護という振る舞いを支えるインセンティヴの一角を占める。利他的行為と表現されることでもある。それが日常のルーティンワークとなってくると、被介護者にとっては自然なこととなり、介護者の利他的行為によって日々繰り返し支えられているという感覚が希薄となる。そうあって当たり前のこととなるから、介護の出立点で被介護者の振る舞いから発せられていた「感謝」の面持ちも平生のこととなって希薄になる。ヒトって、そういう生き物なのだ。まして、介護者の日々の体調によって、介護者の振る舞いにも日々差異が生じたり欠け落ちたりすることも生じる。すると邪険にあしらわれたように感じられて、不快となる。まして自分の身が思うように動かせなくなっていることへの「腹立ち」があるから、ついつい介護者にぶつけるようになる。よほどの寛容さを持って向き合っていないと、介護者も苛立ちを押さえられなくなる。
この「寛容さ」を自らの心中から引き出して身につけるには、自分がやっている介護行為が利他的行為と言うよりも利己的行為なのだと意識して自分に言い聞かせておくしかない。「この人の役に立っている」という自己充足感や自己肯定感という利他的行為は、「この人」があってこそ成り立っている。だからじつは、「(この人への)介護行為に自分が依存している」日常に浸っている感触が身に刻まれていく。これが「関係的な機能性」からみた介護者の心中に堆積する日常性なのだ。
この堆積する「依存性」に気づかないでいると、「介護ロス」に陥る。自分の日常性を全部投入していた「業のような(介護という)振る舞い」が取り払われたとき、重荷からの解放というよりも、「お役目」が蒸発してしまった(自己)喪失感に襲われる。依存しているという自覚があるうちは、振る舞いの軸すべてを介護が占めることへの警戒感というか、用心深さが反照となって、生活の基軸は「わたし」自身にあることを担保している。つまり、この依存しているという自覚がないとき、「介護ロス」に陥る。暮らしの支えを失って気鬱にもなる。
今の政府の主流が「自助」を基本としていることはよく知られている。「家族が支える」とき、日常の振る舞いを機能的にとらえることができず、しばしば心情面の混沌に巻き込まれる。そうなると、暮らしを含めた自身の限界ギリギリまで突き進んでしまう。限界を超えようかというとき被介護者を道連れに心中することが試みられ、事件となる。「家族」自体が、かつての大家族ではないし、世の中の企業の給与体系も、単身者が結婚して子を持ち家族をなして、その子の成長と共に家族が変容するのに合わせて昇級していくかたちから、すっかり形を変えてしまっている。にもかかわらず、「家族」が人の生涯を支えるというライフスタイルを思い描いて、家族が介護を担うという絵空事を人々に押しつける。それが「介護ロス」の引き鉄になっているとも言える。