2022年1月31日月曜日

介護と依存とヒトの心持ち

「介護ロス」とは何か? 昨日の話しに続ける。この場合の「介護」は仕事ではない。近親者の世話をすることを意味している。外に世話をする人がいないから、やむを得ず面倒を見ているってこともあろう。現在の介護サービスの仕組みからはじき出されているせいで家で面倒を見るほかないってこともあろう。だが、仕方なく世話をしているということであれば、被介護者が亡くなって「介護ロス」になるということは考えにくい。やむなく介護をするという実感は「介護」を機能的にとらえているから、それがなくなることは解放感につながる。負担に感じていた軛がとれて気鬱になることはないことを考えると、「介護ロス」に陥る「介護」には、介護することそのものが介護者の人生の核心に触れる重要性を持っていたからだと言える。

 その「介護者の核心に触れる重要性」を心情面で表現すると「愛している」とか「大切な人」というのであろうが、その心情面には必ずと言っていいほど反対局面の心持ちが張り付いているから、心情面で語り尽くそうとするとぐちゃぐちゃになって、向き合っている「介護的関係」がわからなくなってしまう。近親者が介護するのと介護者に介護を委託するのとの違いは、その心情面の猥雑さを取り払って「関係的な機能性」に絞って、見ていくことが必要になる。

 その一つの表現が「他人様の役に立っている」自己充足感と表現することができる。世話をするとか面倒を見るという「かんけい」から心情的な重みを取り払ってみていくと、「世の中の役に立っている」とか「世の中から必要とされている」という自己肯定感は、介護という振る舞いを支えるインセンティヴの一角を占める。利他的行為と表現されることでもある。それが日常のルーティンワークとなってくると、被介護者にとっては自然なこととなり、介護者の利他的行為によって日々繰り返し支えられているという感覚が希薄となる。そうあって当たり前のこととなるから、介護の出立点で被介護者の振る舞いから発せられていた「感謝」の面持ちも平生のこととなって希薄になる。ヒトって、そういう生き物なのだ。まして、介護者の日々の体調によって、介護者の振る舞いにも日々差異が生じたり欠け落ちたりすることも生じる。すると邪険にあしらわれたように感じられて、不快となる。まして自分の身が思うように動かせなくなっていることへの「腹立ち」があるから、ついつい介護者にぶつけるようになる。よほどの寛容さを持って向き合っていないと、介護者も苛立ちを押さえられなくなる。

 この「寛容さ」を自らの心中から引き出して身につけるには、自分がやっている介護行為が利他的行為と言うよりも利己的行為なのだと意識して自分に言い聞かせておくしかない。「この人の役に立っている」という自己充足感や自己肯定感という利他的行為は、「この人」があってこそ成り立っている。だからじつは、「(この人への)介護行為に自分が依存している」日常に浸っている感触が身に刻まれていく。これが「関係的な機能性」からみた介護者の心中に堆積する日常性なのだ。

 この堆積する「依存性」に気づかないでいると、「介護ロス」に陥る。自分の日常性を全部投入していた「業のような(介護という)振る舞い」が取り払われたとき、重荷からの解放というよりも、「お役目」が蒸発してしまった(自己)喪失感に襲われる。依存しているという自覚があるうちは、振る舞いの軸すべてを介護が占めることへの警戒感というか、用心深さが反照となって、生活の基軸は「わたし」自身にあることを担保している。つまり、この依存しているという自覚がないとき、「介護ロス」に陥る。暮らしの支えを失って気鬱にもなる。

 今の政府の主流が「自助」を基本としていることはよく知られている。「家族が支える」とき、日常の振る舞いを機能的にとらえることができず、しばしば心情面の混沌に巻き込まれる。そうなると、暮らしを含めた自身の限界ギリギリまで突き進んでしまう。限界を超えようかというとき被介護者を道連れに心中することが試みられ、事件となる。「家族」自体が、かつての大家族ではないし、世の中の企業の給与体系も、単身者が結婚して子を持ち家族をなして、その子の成長と共に家族が変容するのに合わせて昇級していくかたちから、すっかり形を変えてしまっている。にもかかわらず、「家族」が人の生涯を支えるというライフスタイルを思い描いて、家族が介護を担うという絵空事を人々に押しつける。それが「介護ロス」の引き鉄になっているとも言える。

2022年1月30日日曜日

三途ロス

「介護ロス」ということがあるらしい。長年介護してきた身近な人が亡くなったとき、その喪失感に耐えられず死にたいと思うそうだ。カミサンの友人が、長い介護をしてきた連れ合いが亡くなり、その後一年ほどは呆けたようになってしまった。やっとこのほど立ち直って、それ以前のような行き来が復活し、言葉を交わせるようになった。一回り以上若い60代の方だが、いまはかつての仕事にも就いて、いそしく働いている。その友人の話がそうであったという。推察するに、娘さんや孫達との支えがあって気持ちを盛り返したようだ。

 ふじみ野市の立て籠もり人質殺害事件も、直接動機としては介護していた母に死なれ、「この先いいことがないと思った」と犯人が話しているそうだ。メディアは、何か悶着があったらしいと訪問クリニックの医師や介護士と犯人の間に何かあったと探っているようだが、子細を省略してみると、「介護ロス」になって茫然自失。自殺の道連れに手近な人を巻き添えにしたとみてよさそうだ。介護生活に於いて、一番身近に付き合いがあったのはまさしく被害に遭ったクリニックの人たち。一人で彼岸に渡るのに耐えられず、巻き添えにするというのであってみれば、どんな悶着があったのかは、モンダイではない。

 大阪のクリニック放火殺人事件も(何が動機かわからないが)、独りの旅立ちに耐えられず多くの人を巻き添えにしたように見える。

 まず、自殺しようと思う心持ち自体に思いをやると、「この先いいことがない」と思う感懐を何とかしないといけないのかも知れないが、このように問うとずいぶん多くの後期高齢者は「ああ、俺だってそうだよ。いいことなんかあるものか」と応えると思う。いいことがあるから生きているワケじゃない。天から授かった命だから、それが尽きるまでは大切に扱う、それだけだと私は思っている。

 ふじみ野市の犯人だって、死にたいと思ったかも知れないが「この先いいことがあるかないか」を吟味したワケじゃあるまい。取り調べの警察官にあれこれ問われてふと口をついて出た言葉が、これだったと私は推察している。自殺したいと思っていたかどうかも、取調官に「なぜやったんだ」と問われたとき頭に浮かんできたからそう言っただけで、ただ単に鬱屈を晴らさなけりゃあ収まりが付かないと、何かに怒りをぶつけたい憤懣にとらわれていたに過ぎないという、ボンヤリした因果関係が案外正解なのかも知れない。当人だって、ワケがわからないに違いない。

 私自身の感懐を併せてみると、こんなことが言えるように思う。

(1)今の世の中、自分の命は自分のものだと思っている。ここが私と違う。

(2)自分の責任で世の中を渡っていっているが、自分の力で生きているワケじゃない。

(3)人生に運不運はつきもの。運否天賦は天に任せるしかない。

(4)人生も、出くわすコトゴトの善し悪しも、自分で決めるものではない。

(5)でも、犯罪被害者にはなりたくない。もちろん加害者にもなりたくはない。できるだけ社会の力で(2)を拡げて世の中を渡りやすくし、(3)の不運に苦しむ人が少なくなるように、公助、共助を整えるようにしましょう。


 今年の誕生日が来れば八十になる私が、わが人生を振り返って思うのは、自分の命は自分のものではないということ。死にたくなるほどの窮地に陥ることがあるのは、わからないでもない。名誉を守るってこともあろう。家族や愛おしい人を護るために命懸けでやらなければならないこともあるかもしれない。その結果、命を落とすことはよくある話しだ。だがそのときにも、自分の命は自分のものとして扱うという考え方は、発生しない。単独者として生きてきたわけで話しからだ。まして、生きていく間に身につけてヒトから人間として一人前に生きてきたのは、ヒトの築いてきた文化を全部{わたし}として背負ってきている。人類の文化が、この体を通過しているのが「わたし」なのだ。

 だが今の世の中、大人になってからだが、全部「自分の責任」で世の中を渡っているのは、間違いない。それは、社会に身をおいて、人々と関係を紡いでこそ渡って行けている訳で、自分の力で生きている訳ではない。それを自力で生きていたと錯覚するから、(3)のようなことに肚が決まらない。頑張ってもダメなときはダメ、他の人との競争に身を削って生きる社会であってみれば、自分の不運は他の人の幸運ということも、よくある話しや。貧乏籤を引いても、誰かにお裾分けしてるんやと思えば、腹も立たない。善し悪しも、人類史が発生してからの「原点」に思いを致せば、そもそもそれほど目くじら立てるほど良いことか悪いことかは、決められない。因果はめぐる風車じゃないが、ずうっと昔の顔を名も知らないご先祖さんがなんぞ悪いことをしたから、何十代も後の「わたし」に応報がめぐってきたと思っても構わないが、それは、自分の子や孫や子々孫々のことを考えて「いま」を生きていきなさいという「教訓」にすぎない。袖振り合うも他生の縁。彼岸で極楽に行けるからねと言うのも、善き振る舞いを肝に銘じることであって、天国があるかどうかはわからない彼岸のこと。

 となると、とどのつまり、(5)を心掛けるしかない。まずは社会的な仕組みをできるだけ整えることに尽力する。そして世の中の人の力と扶けを借りながら、自己責任で生きていけるように、公私に亘って活動する生き方をすることだ。私の好みを入れれば、心地よい文化を後の世代に遺せるように、社会関係をやわらかくつくりあげることを年寄りは心がけたいと願う。

 そうやって生きて行ければ、三途の川も独りで渡るのが怖くないってことになるんじゃないか。閻魔さまの審判に臨んでも、奪衣婆の再審議に出くわしても、(5)を心がけて振る舞ってきたよと思えば、他人を巻き添えにしなくても三途ロスにはならない。

2022年1月29日土曜日

数理的思考が限定する領域を見つめる

 数学研究者・森田真生の『計算する生命』(新潮社、2021年)は「(私の)わからない世界」を、理解できる地平から説きはじめて、思わぬ地点へ連れて行ってくれる。「わからない」ことが誘う不思議感が、私の身をおく日常から地続きなのに次元の違う(思わぬ)世界へ導き、「わからない」感触が媒介となって理解を扶けているように思う。

 数学研究というのがここからスタートしているのかと驚く。その記述は「数えることが起ち上げる人の思考とはどういうものか」を考察することから始まる。算数とか数学というのを私たちは、学校で学ぶ算術から始まっている思っているが、森田はヒトがものを数えるということをどう行ってきたかから第一章を開始している。数えることに数字が加わることが、「数」に関する観念のどのような変化を引き起こしているか。読み進めることが不思議を起ち上げ、そうかなるほどと「せかい」の広まりを感じつつ、なお、漢数字がアラビア数字になる変化が、現代数学の「計算する」機能性を格段に高めたことへ展開する。

 その筋道自体が、数学的だ。つまり、話しの運びが次へ次へと段階を踏まえて次元を変え、抽象化と機能性と数理的合理性とがわが身の裡で形づくられてきたさまが思い浮かぶ。図でイメージされる「数」が「式」となる過程も、和算の問題文のように文章で記される。ふと思ったのだが、x(10-x)=21を、文章で表現させるような「問題」を中学生に出したら、はたして解けるだろうかと新井紀子さんなら考えるかも知れない。

 運びの速度は速い。第一章ではじまった「数」は「式」を経てライプニッツやデカルトを経由して「方程式」という代数的な方法へと点綴されることによって、ギリシャ時代の数学が持っていた図の制約から解き放たれ、と同時にそれは、普遍的な方法として「数学」の純度を高めていくことに寄与している。高校で数学を学んだものは、しかし、すっかり手順が固められた形跡を身につけるべく、「計算する方法」として覚え込み、その意味合いを腑に落とすことなく辿ってきたなあと、わが身を振り返って慨嘆している。微分積分になって、かえって「計算」が容易になったという感触さえ抱いたことが甦る。

 あるモノを取り去るという意味で「0から4を引く」ことをあのパスカルも「0になる」と考えていたことが、数直線を思い描き、原点ゼロを設定することで視覚化する。17世紀のことだとは驚きだ。そこで一挙にマイナス概念が登場する。するとすぐに、では掛け合わせるとプラスになる「虚数」はどう表現されるだろうかと話が進み、二次元の座標軸から三次元方向に90度起ち上げて「√-1」を記し、掛け合わせることによってさらに90度回転して「-1」になるという離れ業を森田は示してみせる。虚数だけではない。-1×-1=1というマイナス掛けるマイナスがプラスになることを視覚的に説明するにも次元を付け加えることが有効になる。これは、コペルニクス的転回だ。

 こうした記述の一つひとつに森田は、ヒトの思考の次元がどう変わってくるかを算入して考えている。そのひとつ、第二章「1、演繹の形成」は、スタンフォード大学の数学史家リヴィエル・ネッツの著書を紹介しながらギリシャ数学に踏み込み、演繹のメカニズムを繙いて行く。ネッツと共にギリシャ数学の原風景に迫る「演繹の代償」と題された部分は、論証過程を可視化して図にしている。そこが私には「わからない」部分となるが、結論的に引用したネッツの文章は、それとなくわかる。

《ギリシャ数学の論証の背景にある理想は、真っ直ぐで途切れることのない説得の行為だ。皮肉なことに、この理想は、数学的な議論があらゆる文脈から抽象されて実生活における説得から切り離された人工的な作業になり変わったとき、はじめてより完全な形で達成されるのだ》

 これを私は、経済学の展開をしている専門家に重ねて受け止めている。経済的関係を数学的に考えて解析することが陥る陥穽である。数学的論理の展開を経済学に当てはめて語る人たちが、しばしば抽象化することによって実生活における場面からすっかり離陸してしまって、ヒトの要素を見落としてしまうことだ。演繹的ということに対する私の警戒心、経験的ということに重きをおこうとする私の傾きは、基本的にこのネッツの文章に表されている。そういう読み方が森田の意図することと外れているということはわかるが、そういう参照点として、この著書を読み囓っているのだ。

2022年1月28日金曜日

手探りの感触がやっと見えたか

 昨日(1/27)、東京都が「自宅療養者の健康観察を縮小する」と発表した。この感染の広がっている時に「どうして?」と、普通なら思う。だが、オミクロン株の重症化しないという知見と「自宅療養者の健康観察」を保健所が手がけることができなくなっているという事情に対応するために、自ら健康観察を行って体調が悪くなれば相談窓口に知らせて「緊急対応」へ切り替えるというもの。要は手が回らない。それに、デルタ株の場合自宅療養者から死者が出たのとは違うと「状況」を見ていると思われる。

 目くじら立てるよりも、やっと未知のウィルスに対する「統治的視点」を抜け出して、状況対応する手がかりを探り始めたと見て、私は歓迎している。統治的視点というのは、法制度的に整備された枠組みに縛られて身動きができない統治組織の殻を、やっと抜け出そうと踏み切ったと思った。政府はいまだそうだが、コロナウィルスが法定伝染病という指定を受ければ、それに応じた取り扱いをするという法の枠組みを変えることができないできた。もう2年にもなるというのに、法整備の機会を躊躇い、融通無碍に対応することを躊躇してきた。

 何故そうしたのか。行政執行権者としての「権威」を護ろうとしたり、その手順をデジタルにすすめる行政の体制がないのに、その手順にこだわり、感染者の全国状況把握さえ把握できない事態に陥った。中央政府が立てる机上のプランニングとその執行をする地方政府の行政手順のギャップに気づかなかった。執行権者と実務担当者とその間を行き交うワクチンや接種時期に関する齟齬を調整できなかった。

 つまり、ウィルスの感染拡大に対する状況把握、それに対応する検査、陽性者の隔離や健康観察がどうおこなわれているかなどについての「現状」が把握できていないことなど、行政の手当がちぐはぐしていた。それは、なぜか。

 中央と地方が何をどう分け持っているのかという分業が(もっぱら中央政府に、それに依存する地方政府にも)自覚されていない。保健所業務が地方の首長によって決定される事柄であるにもかかわらず、中央政府がその決定に必要な「情報」を提供していないし、必要なモノや財源を提供しない。そんなに中央政府が自らの手柄にして取り仕切りたいのであれば、細々と指示をしてくださいという(地方から中央への)憤懣も、知事会の慇懃無礼な申し入れを見ていると感じる。積年の堆積した悪弊が露わになってきた。

 いうまでもなくその間に、オリンピックがあり、国際的な物資の滞りもあり、go-toキャンペーンという政治的動機も組み込まれて一層混迷を深めた。それは、これまで踏襲してきた統治のやり方や状況認知の方法やそれを社会的に共有する仕組みなどが、状況に対応するには劣化していることを示している。それらについて総括的な批判的見方が必要と、自らを振り返ることであった。

 新型コロナウィルス自体を、どう見立てるかも大きな「課題」であった。インフルエンザと同程度のモノだと見なすかどうか、あるいは法定伝染病として指定するにしても、程度に応じて融通無碍に仕組みを動かせるような組立にするという知恵が必要であった。つまり未知のウィルスと喧伝されていたにも拘わらず、旧来の仕組みで対応することしかできなかった。今回のコロナウィルス禍はそういう社会的カルチャーへの大自然からの頂門の一針であった。

 総じてウィルスへの対応について言うと、未知のウィルスに対応しているのだから、わがヒトの社会体制がどう向き合ったらいいかは、一つひとつ対応しながら、その知見を積み重ねて道を探るという(市井の庶民からすると)周知の経験主義的なやり方を採るしかない。それには、衛生医療体制に関して身につけている殻を破って、あらためて仕組みや運びを考えるくらいの覚悟を、為政者には持ってもらいたかった。「民度が高い」などと誇らしげに他の国をけなすなどは、見当違いも甚だしい。

 それがやっと、丸二年経って、これまでの法制度では取り仕切れないとわかった。それが、今回の「自宅療養者の健康観察」を本人に任せるという決定であった。つまり、「公助」ではどうにもならない。先ずはご自分で、自助でやってくださいという「公助頼りなき宣言」。それを発表すると知事の声も、力が無い。政府は未だに、「我が計画通りにコトは進んでいる」と言わんばかりの姿勢の高さを崩していないが、すでに「前倒し」というワクチン接種にしても、検査キットの配布にしても、モノが足りなくて口先だけのリップサービスになっている。うんざりするほどそうした事例を見せつけられてきた。

 だが心配めさるな。市井の民である私たちは、やっぱりそうだったかと冷静に受け止めている。2年を通じて、中央政府がこれほどに頼りないモノだったかと心底、肝に銘じた。自助、あるいは地域的な共助努力しか頼りにならないと、肝に銘じた。そういう意味で、行政の方も、最初から出直すように、一つひとつを経験主義的に積み上げて「状況対応」していこうとするようになったことを、喜びたいと思う。早く中央政府も、追いついてほしいものだ。そうでないと、もう社会保障と健康衛生の業務に、中央政府は要らない。全国知事会が中央政府に取って代われってことだって、言われ出すかもしれないよ(笑)。

2022年1月27日木曜日

制服組の苛立ちか編集者の物語か

 図書館で手に取った小説に珍しく「編集後記」が付いている。それを読むと「情報」は《「正しく処理されたかどうか」が重要》といい、ただの「情報」はインフォメーション、「正しく処理された情報」はインテリジェンス特別されると続ける。そして、

《近頃の日本人は荒んできた。民度が低くなってきた、とテレビなどで真剣に危機感を訴える人もでてきました》

 と記している。小説の「後記」としては、読み方を水路づけようとする意図が露わで、変な感じ。じゃあ本文はどうかと思って読んだ。門田泰明『存亡』(光文社、2006年)。

 陸上自衛隊の中央即応集団「打撃作戦小隊」、謂わばグリーンベレー。何処とも知れぬ外国からの、初め何を意図しているのかわからない散発的に、そちこちで始まる侵略の兆しに敏感に反応して、武力対応をする。その活劇のお話しであった。登場する「打撃作戦小隊」の若者たち、その報告を防衛大臣に揚げたときの、政治家や文民官僚たちの引け腰、及び腰の、見当違いな対応を滑稽に対象化し、現場の「小隊」の活躍を描く。若者たちの捨て身の熱意は描かれているが、為政者たちと市井の庶民と彼ら青年下士官たちのギャップの描き方が、すっかり別世界になっていて、漫画を読んでいるというか、ハリウッドの凄惨な活劇映画を見ているような気分であった。

 麻生幾の小説だったかに原子力発電所を北朝鮮ゲリラが襲うという想定の作品があったかと思うが、そちらはいかにもありそうなリアリティを湛えていたと思う。この「ありそうなリアリティ」の源泉は、たぶん表現の問題だと思うが、市井の庶民の日常と重なる感触が文面のベースに感じられるかどうかではないか。門田の作品は、そこに焦点を合わせていないから、登場する為政者や市井の民の胸中がどこかに行ってしまっているのだが、たぶんそれに気づいた「編集者」が「後記」を記して、リアリティの補充をしたのだと思う。だが、それって作家を編集者が利用してるっていうか、作家の褌で編集者が相撲を取ろうとしてる姿じゃないのか。

 編集者が、「後記」に記したような思いを持っているのであれば、門田の描くそちこちで起こる事態をインテリジェンスに高めていく(政治)過程を描けと作家を使嗾すればいい。それをしないで「後記」で埋め合わせようとするのはお門違いだ。

 現場の青年下士官は「職務専念」が、すなわち「命令」を受けて命懸けで事態に対応することと心得て、それがどのような扱いを受けているかに思いを及ぼさない。そうすることが、文民統制の本意とみているようにさえ思う。統制する側が、机上論に終始することは、どんな現場でもよくあること。昔、「兵士に聞け」という記録が出版されたことがあった。そこに記載された自衛隊員の言葉は、(その言葉の評価は別としても)誠実さに溢れていた。門田の小説から、もしそこだけを取り出せば、制服組の職務に対する誠実さが浮き彫りになるが、文官為政者に対する苛立ちは書き込まれていない。

 ここに現れているような編集者の「勘違い」とは、自分たちには見えているが、為政者や市井の民はみていないという(エリート性の)物語が底流していることだ。何故、自分たちにはインテリジェンスと見えていることが、ほかの人たちにはインフォメーションにしか見えないのか。そこを「平和惚け」と規定して誹っても、少しも解明したことにならない。それを探求することは、平和惚けの人たちの「情報処理」を分節化するだけでなく、自らの危機意識の「情報処理」の仕方をも描き出すことになる。それこそが、根柢から社会意識を組み立てていく民主的方法なのだと思う。

2022年1月26日水曜日

父権主義の殻を破る

 1年前の記事「もう一つのアン」に触れて、書き記す。

 カミサンが録画したTVドラマ「赤毛のアン」をチラ見した。昔日のイギリスの地方を舞台に、高校生になったアンたちが「新聞」を発行し、その土地の人たちに読まれ、アンの書いた(女性の自律に関する)論説が有力者の反発を引き起こし、同時に同級生への中傷として顰蹙を買い、展開していく。テーマはジェンダー・ギャップ、女はかくあるべしという身にしみ通った通念とのぶつかり合い。男と女、父親と母親、親と娘、女子と男子という入り組んだ「かんけい」が錯綜して、展開する。細かい点にまで視線が及び、イギリス社会を描くのに時代劇というよりも今風のドラマにさえ見える。

 いまのイギリスがどうなのかは知らないが、しかし、しっかりと共同体がひとまとまりになって紐帯を持っていると見える。まず高校生の発行する新聞が、その土地の人たちに読まれている。アンの論説に驚いて、新聞の掲載内容を評議委員たちの許可制にしようという動き、それを押し返そうと高校生が一計を案じ、母親たちがそれを支援するという運びは、過程や階級文化の保護膜がしっかりと作用している。

 思えば、高校生を一人前の人として遇するということを、現代日本でも未だしていない。18歳以上の選挙権が与えられてはじめて、高校生の政治活動との関係が論題に上るかと思えたが、それもまだ及び腰。学校における政治活動は、模擬投票というごっこ遊びに範疇を出ていない。

 だが社会は、TVドラマの「赤毛のアン」のように、高校生をも巻き込んで言葉を交わさなければならない様相を呈している。その受け皿というか、ステージさえ設えられていないのが、日本の現状である。学校は学校というネットワークだけで孤立している。街は市場という社会関係だけで広がっている。SDGsの「課題」についてさえ、市民が言葉を交わす「場」がどこにもない。そういうのをコミュニティというのか、と私は疑問に思う。

 マス・メディアは、自分の設えている「場」が舞台だと思っているのかも知れないが、そんな、いつも普遍的に語っている「舞台」なんぞは、市井の民が言葉を交わす「場」にはなり得ない。むしろ、時代劇の舞台である江戸の庶民の方が、身分制という保護膜にも包まれて、人が人と言葉をやりとりするのにふさわしい「場」を持っていたと言えるように思う。

 四民平等という言葉と引き換えに私たちは(百数十年かけて)、一気に保護膜を振り捨てて個人という姿で孤立無援の大海に身を投じたのかもしれない。コミュニティを壊してしまったのは、資本家社会的な市場経済だけではない。四民を一絡げにして「天皇の赤子」とみなしていった共同体制の作り、「家族」という保護膜に全面的に社会保障的な装置を押しつけてきた「公性」、地域共同体を統治制度として扱ってきた行政の「上意下達」システムなど、未だに残る政治や社会システムと資本家社会的市場との齟齬なども、市井の民に作用している。

 父権主義的に、「女・子供」を保護されるべき者たちとして扱う時代は、過ぎ去っている。女・子どもは、保護膜を失って、あるいはすでに殻を破り、自律への道を歩み始めている。父権主義的な振る舞いは、彼らを保護するものではなく、抑圧する作用をしているのだ。そういうことを、大人の男たちは肝に銘じなければならないと思った。

2022年1月25日火曜日

市井の老人の感懐

 一年前のブログ記事「無症状の異常」は、わが身のステルス病の記録である。

  ホルターを入れてからもう1年経ったのか。痛みが出るようなら来てくださいとは言われず、特に問題はありませんねといわれたのだったか。その後4月に遭難事故があって、心臓以外の痛みの心配をして過ごしたので、忘れていた。心臓の痛みと言えば、つい先週であったか、歩いている途中で、左胸の心臓の中央部辺りに一本針が通っているような「感触」が生じ、「こういうのを心臓が痛むというのだろうか」と思ったことがあった。つまりほぼ一年間、ステルス病は姿を隠したままであったということになる。PPKというのは、こういうことなのかも知れない。


 4月以来、山らしい山を歩いていない。何時測っても概ね40代であった脈拍も50代の後半。40代の数値が出ることはなくなった。つまり体も平地仕様に変わってしまっている。病もそれに伴って現れ方を変えているのかも知れない。ま、文字通り市井の老人になったのだね。そうなると、山ではなく平地を歩いて旅をするってことを、夢想している。


 最初に思いついたのは、四国のお遍路さん。18番目くらいまでだったかを、18年程前に歩いたことがあった。そこで中断。以来、山歩きが多くなってすっかり遠ざかっている。その頃の心境とはずいぶん違っている。ゆっくり、味わいながら歩けるような気がする。3月から4月にかけての時期が最良だが、このコロナウィルス。まだしばらくは、足止めを食らう。


 ま、オーバーコロナになったら、八十八カ所、1200kmをゆっくりふた月程かけて歩こうと思うと、そのためにも平地歩きの足腰を鍛えておかねばならない。これはこれで、市井の老人の内発的なモメントになる。そうやってともかく体だけでも、自律できるように保とうと意欲が湧く。これもまた、市井の老人の感懐だなあと、「老人」という無症状の異常を受け容れている。

2022年1月24日月曜日

「世界」を見る方法

  呉叡人『台湾、あるいは孤立無援の島の思想――民主主義とナショナリズムのディレンマを超えて』(駒込武訳、みすず書房、2021年)の「反記憶政治論」は、「台湾問題」に関する日本の関わりが現在も息づいていることを記している。

 連れ合いの仕事の関係で台湾で何年か過ごしたことのある私の知人が、「台湾の親日的空気は、どうしてなのだろう」と言葉を交わしたことがあった。蒋介石国民党支配の暴虐が酷かったからじゃないかとやりとりをしたが、それ以上踏み込んで考えることもなかった。呉叡人は《「親日」は極めて高度な自覚的な行為であった》という王育徳教授の長文を紹介している。簡略にいうと、こうだ。

 蒋介石が「日本人は悪い奴だ。日本人の教育は良くなかった。植民地支配でいいことは一つもなかった」というのに対して、「台湾の人たちはね、日本人に親切にすることによって、中国人にあてこすりをしているんですよ」

 この「あてこすり」を無用にしたのが、1996年李登輝による直接選挙による台湾総統選出であった。ここが台湾民主主義の出発点とされて、以来25年、台湾の民主主義は世界の最先端と評される程に成熟している。「成熟」とは台湾人の自律的統治が確立するという程の意味である。それまでは李登輝が総統として統治にあたる1988年までの国民党は、「中国全土を統治している」と虚構の上に成り立っていた。そこから、台湾は台湾人が統治していると(虚構を排して)リアルを見つめる大転換を経ることによってはじめて、自立への道を歩き始めたのであった。それまでの、日本による植民地統治、国民党の専制支配と中華民国という虚構、後者の暴虐への「あてつけ」としての「親日」、そしてたぶん台湾語と日本語と北京語の言葉の錯綜した時代を過ごしたことが身に刻んだ精神の錯綜が、台湾を見つめ語る者の立ち位置を複雑にしている。

 呉叡人は、台湾研究にもっとも先行しているのは日本だと見なした上で、台湾の独立を語る台湾人は日本の右翼の言説と重なる立場と見なされ、植民地肯定論とつながることを意味する。他方、植民地を否定的にみていた日本の左翼は、台湾を中国の一部とする大陸の共産党政権への共感もあってか、台湾の独立に否定的であった。台湾の自律を考える文脈は、政治化されて、左右の対立とか植民地の是非論へと転轍されて、錯綜混迷するばかりであった。

 これは、どちらも台湾人の自律を損なう考え方につながっていた。そこをくぐり抜けることが、台湾の民主主義と自律の基幹部にあたる一体性、台湾人ナショナリズムを醸成していくことには必須であった。その方法の一つが先述した「あてこすり」という「主体性を備えた抵抗の戦略」だといい、「歴史学主義」と名付けて、こう言う。

《歴史学主義は評価や批判を回避したりはしない。だが、評価と批判の前に、理解と認識に力を尽くすべきだと主張する。堅実な歴史認識の上に立った評価こそが責任ある評価と言えるのだ。これこそ歴史学主義が主張する批判の責任倫理である。》

 行間を読むと、こうも言える。

 日本の植民地支配がもたらした社会の中で育った人たちは、その後に占領的に専制支配を強行した後の植民者を批判するのに、前の植民者を持ち上げることによって戦略的「あてつけ」をすることができるが、それが戦略的に作用するには、身に刻んでしまっている文化性をきっちりと対象化していなければならない。そうすることによって、繰り出す戦略の物差しは、まず民族的なものとなり、かつ、「全人類的なもの、つまり普遍主義に基づいた進歩的、人道的な価値を備えたものでなければならない」。それは「自己に対する批判であって、歴史における被害者に対する批判ではない」と。

《その日が到来すれば、あるいは台湾人と日本人はともに、自己愛と広闊さに満ちた被植民者意識も、傲慢で偽善的な植民者意識も捨て去り、矢内原忠雄の悲願である「虐げらるるものの解放、沈めるものの向上、而して自主独立なるものの平和的結合」の真の意義を改めて理解し始めることになろう》

 と、呉叡人は進む先を拓いて見せている。人と人とが関わり合うときに避けられない「対立」を克服してともに歩く姿を、哲学的に述べていると思った。

2022年1月23日日曜日

慟哭の絶対的関係と生存への欲望

 韓国の国際関係への振る舞い方の根源に「恨/ハン」があるとみてきた。法理よりも情理を「正しい」と感じている彼らの体感を、日経記者は「中二病」と呼んだ。しかし、私は、その位置から身を動かすことのできない(大国中国に朝貢する以外に生き延びる道を持たなかった)地政学的な悲哀を感じ、長きに亘る苦悩の堆積が韓国民の「情理」として肌身に染みついていると思った。

 では、韓国と同じように地政学的な位置に身を置き、目下韓国よりも厳しい対応を為されている台湾はどう考えているのかと思いをめぐらして手に取ったのが、呉叡人『台湾、あるいは孤立無援の島の思想――民主主義とナショナリズムのディレンマを超えて』(駒込武訳、みすず書房、2021年)。

 台湾の出版社から2016年に公刊された本書の冒頭には、2020年5月20日に書き下ろされた著者の「フォルモサ、香港、日本に献げる」と題された「日本語版への序文」が、ある。2016年本書公刊の時、香港では2014年の雨傘運動があり民主派が香港の大多数の住民を巻き込むように展開する民主化運動が盛り上がっていた。しかし、この序文が書かれた9日後の2020年5月29日には、香港民主化デモが国家安全法や国歌条例案に抗議して展開されたが、ついにこれを最後に鎮圧されてしまった。また、この年に公になったコロナウィルスの蔓延にいち早く取り組み効果的な防疫をしたにもかかわらず台湾がWHOから外され、国際的な公ネットワークから閉め出されるという事態にあった。

 呉叡人は、こう記す。

《世界秩序の再編、歴史の暴風がやってこようとしている。未来は依然として予測しえない。だがわたしたちはすでに暗闇を歩み続けることに慣れ、虚妄の希望を抱かないですむまでに強靱となった。……わたしたちがしようとしていることは、ひたすらこの道を歩き、孤立無援のポリスを建設し続け、際限ない疫病を治療するように、わたしたちのポリスを自由で、公正で、美しく、世界の精神と触れ合うものとしていくことである。》

 この序文だけでも本書の湛える慟哭の響きがひたひたと伝わってくる。

 そうして一つ、私が感じ取ったことがある。

 呉叡人にとっての「自由」は、ただ単に、台湾人がどういう政治体制の下に暮らすかという次元の「課題」ではない。むしろ、人がいかなる(精神の、魂の)生き方をするかという実存の有り様に哲学的に向き合っている、その正面の喫緊の問題が「台湾」なのだ。そういう意味で言えば、まさしく人類史的に人が切り拓き辿ってきた到達点を保持するのか、突き崩してしまうのか、そういう問題として東アジアの「わたしたち」の前に屹立している。まずここで、「中二病」と評される韓国とは次元を異にする。

 呉叡人は、シカゴ大学の政治博士。ベネディクト・アンダーソンの教えを受け、彼の著書『想像の共同体』の中国語訳を手がけている。アンダーソンとの往復書簡の文章に表されるやりとりもまた、際立って文学的であり、呉叡人とアンダーソンの間に揺蕩う心情が「自由で、公正で、美しい世界の精神」と触れ合っていると感じさせる。

 本書中の「賎民(パーリア)宣言――あるいは台湾の悲劇の道徳的意義」は、戦後体制にも鋭く批判的な目を向けている。

《第二次大戦後の主権国家体制は、ナショナリズムの原則の実現ではなく、国家主義の理念の拡散である。いわゆる”The United Nations”とは、全人類の永久平和を守る諸民族の自発的な連合ではなく、むしろ国家を形成する権力を独占し、現実における権力のバランスを維持するための主権国家のカルテルである》

《新たな帝国が国民国家の形式を借りて甦り、「民族統一」または「民族解放」の名の下で「歴史的領土」や「無主の地」を虎視眈々と狙っている今日において、これらの弱小民族は孤立無援の状況の中でもがき、座して斃れるのを待ち、もしくはある種の歴史的偶然の発生――例えば帝国の忽然たる崩壊――をあてもなく待つことしかできない》

《……国家を持たない者、または国家が存在したとしても主権国家体制から承認されない者は孤立無援となり、屈辱を嘗め尽くすことになった。その結果、帝国の狭間ではかえってさまざまな形態の弱小ナショナリズムが芽生え、成長しつつある。奴隷はいまだ叛乱を続けており、理性はなおも完成していない。にもかかわらず、帝国の指導者たちは早々に歴史の終わりを宣言した。これこそが現代台湾の悲劇の世界史的根源をなすものである》

 この戦後世界体制の批判的剔抉は、植民地状態の本国・日本が敗戦を迎えたため、何処に帰属するかに触れずに(サンフランシスコ講和条約で)「解放」された植民地・韓国と台湾が、戦後世界体制の布いた枠組みのままに「抑圧」されたことを指摘している。この点を見てとれなかったが故に私は、戦後覇権を握っていた国の「無責任」と思っていたのだが、そうではない。戦後体制が「新たな帝国の…主権国家体制の…カルテル」であってみれば、小さな地域の抗争と混沌は取り上げる必要も無い断片でしかなかったのだ。

 これは、モノゴトの本質を見極めるためには、最底辺の存在に光を当てて見て取る必要があることを示している。台湾という(目下)周知の、喫緊の地政学的領域に身を置いて焦点を当てるからこそ、世界体制の現在がくっきりと浮かび上がってくる(余談だが、その点でベネディクト・アンダーソンの「教え」と異なると呉叡人は往復書簡の中で指摘している)。

 因みに、韓国のナショナリズムについて呉叡人は、次のように記している。

《韓国においては、封建的王国から国民国家への転換の胎動は十九世紀末に出現していたが、現代韓国の民族意識は日本統治時代における反日的ナショナリズムによる動員の過程で成熟したものであり、統一された民族意識に基づいて統一的な国民国家が築かれたわけではない》 

  これは、韓国がいつも「反日」によって自分の自画像を描き、繰り返し自らの立ち位置を確認していることを説明している。つねに「反日」に訴えるのは、「恨み/ハン」に根差すというよりも、ナショナリズムの成立過程がもたらした(身にしみている)統一性の土台を為しているからなのだ。日本を反照しなければ近代の自らを語り得ないという悲哀のかたちである。

 呉叡人は、「台湾の悲劇」を道徳的意義において意味づける。

《台湾の悲劇の道徳的意義は、ひとつには主権国家体制における賎民階級の一員として、国際政治において牢固として打ち破ることのできない現実主義の真理と、賎民の境遇を無視するあらゆる理想主義の高言と道徳的教条の偽善を、他の排除されたすべての賎民の存在と共に見届けることにある。台湾人であるわれわれは構造的な懐疑主義者たらざるを得ない。われわれは一斉の高尚な価値を評価し直さないわけにはいかない》

《台湾の悲劇の道徳的意義は、もうひとつには、構造的な懐疑主義がニヒリズムに陥ることはなく、逆に一種の苦痛を伴う覚醒を通じて生存への欲望――希望ではなく、生存への欲望――に至らしめるということである。……生存への欲望は酩酊ではなく、苦痛を伴う覚醒である。一切を超越するものではなく、現世のものである。賎民が受け続ける屈辱と蹂躙は、彼らを苦痛で苛む。苦痛はかえって彼らを覚醒させる。賎民は未来永劫、自身のつよく面する滅びの影によって、生命を渇望し、存在を渇望する。この残酷で、無意味で、荒唐無稽な、しかしかくも美しき現世への存在を渇望する。この種の渇望において覚醒する生存への欲望は、無意味で残酷な現世に対してその意義を求めているのであり、この生存への欲望に対する承認を要求している。それが賎民による「自由」の追求の形である》

 と悲痛な、しかし崇高さを湛えた言葉で締めくくっている。

 この、腸を断つような思いを象徴する言葉を呉叡人は「風来自由心」と、「南明の朱氏の最後の末裔が1683年、台湾陥落の際に書き残した絶筆」を掲げる。「不道徳な世界により孤立無援の状況に追い込まれつつも、善へと向かうよう迫られた、屈強で誇り高いすべての賎民に(献げる)」と。

 このギリギリの場に身を置いて、ニヒリズムに陥らず、善へ向かう道徳的意義を堅持する気高さに、胸を衝かれる。「台湾有事」を「日本の有事」ととらえるのではなく、この「善へ向かう道徳的意義を掲げる」崇高さにとって「(人間の)有事」であると考えて振る舞うことが日本列島においても必要ではないか。そんな気が内奥から湧いてくるように感じている。

2022年1月22日土曜日

中二病

《従軍慰安婦問題とか徴用工問題を巡る韓国の、国民や政府のわけのわからない振る舞いを、とても奇異に思ってきた。「恨(ハン)」が生きるエネルギーという言い回しも、何だかわかるようでわからない国民性だと思ってきた。それを、日本人にもわかるように解き明かしている本に出合って、目下読んでいる途中である。》

 と書き、オー・ダニエル『「地政心理」で語る半島と列島』(藤原書店、2017年)を読みながら考えたことを4回に亘って記したのは、1年半前、2020年。

「韓国人の非近代性の根拠」(2020-6-28)、「法と倫理の相互関係――日韓関係の鍵」(2020-6-30)、「法と倫理の相互関係(2)―「恨(ハン)」というエネルギー源」(2020-7-1)、「法と倫理の相互関係(3)―鬱屈の出口と身の土台」(2020-7-3)。

《「韓国人の非近代性の根拠」の記述で「非近代性」と読み取ったものと、私の身の裡に沁みついた「近代性」とを、出来得るならば同じ俎上に上げて考えてみたいと思っている。》 でも、「わかるようでわからない国民性」というきもちは、いまも持続している。それが「国民性」という括り方のせいなのか、「恨(ハン)」という心理的な解析に疎遠なせいなのか、判然としないまま、放っておいた。

 その後、鈴置高史『米中の「捨て駒」にされる韓国』(ニケ系日経BP社、2016年)と『米韓同盟消滅』(新潮社、2018年)を目にして、氷解したことがあった。それは、儒教と法治の関係について岡本隆司京都府立大学教授の説明を孫引きで知ったことであった。

 岡本隆司は、人が納得する理路について、天理、事理、法理などがあるが、儒教が浸透している社会では、情理が最優先されるという。情理というのは、大多数の人が「なるほどな」と納得できる判断、法の条文が情理によって解釈されること。儒教国家では裁判でも感情を優先するのが当たり前ということと説明する。儒教の徳治主義というのは、徳によって国を治めるという情理の理念から来た統治形態を指し、つまり、法理や事理よりも「なる程然るべく」と感情が得心することが最優先というのだ。

 これは「わかりやすい」と同時に、「従軍慰安婦」や「徴用」の問題が、条約や政府同士の合意文書によって片づかないワケを説明している。感情が最優先されるとなると、「問題」は何回でも蒸し返される。外交交渉で、一度落ち着いた事案も条約も、最優先の「感情」には敵わない。なるほど韓国の大統領府も、司法当局の裁決を黙ってみているわけだ。もしそれに手を突っ込んで、大統領府が「火中の栗を拾う」ようなことをしたら、大統領府が「感情」の落ち着き先まで面倒見なければならない。

 いやじつは、自国政府が条約を結んだのであれば、その案件は自国政府がとことん面倒を見るのが、近代的な国際関係の法理である。西欧の近代的政治の出発点とされるのが、1648年のウェストファリア条約だといつか話したことがある。カトリックとプロテスタントという宗教的対立を抱えたもの同士が、共存してやっていく道筋をつけたことから「近代国際関係の出発点」のメルクマールとされたのだが、30年に亘る宗教戦争を終結させてやっと、(情理を超えて)異質なもの同士の関係を築く流路を設けることができたのであった。

 その異なった感性や感覚、規範や論理が共存する道を政府が避けて通るということは、政府もまた、「情理」を最優先とする社会規範を体現していると見なければならない。つまり私が、「韓国の前近代性」とみたことは、儒教という積年の中国や韓国における知恵の結晶が、彼ら国民の身にしみて受け継がれてきている文化的な体質になっている。岡本隆司にいわせれば、《韓国、中国と西欧や日本とでは統治に関する考え方自体が根本から異なる》のである。

 これを引用して紹介した鈴置高史は、情理は

《「どうあるべきか」という観念論を振り回す。法よりも情を優先する。人間や国の関係をすべて「上下」でとらえる》

 と特徴を剔抉し、

《日本人と異なり韓国人は自分の感情を率直にさらけ出す。激しい言葉にいちいち驚いていたらきりがない》

 と、文化的な差異が、誤解・正解を含めて、底流しているという。それが、

《西欧型の法治を導入はしたが、自信がついてくると、地の儒教的法治がどんどん顔を出してくる》

 と、21世紀に入る頃から経済的に上昇してきた現代韓国の振る舞い方を説明する事例を、韓国人の著者による指摘を紹介して、「西欧型の法治は窮屈」と受け止めている韓国民には、国際法理は(西欧型であるが故に)いかようにも覆すことのできるコトと考えていると裁断する。

 そしてそれが、現下の国際情勢の元で、力をつけてきている中国と手を結び、中国に対抗しているアメリカの力をうまく利用して米中の力の均衡世界を泳ぎ渡る「離米従中」へと、朴槿恵政権の2015年から舵を切ったと見なしている。

 2015年9月3日中国が開催した「抗日戦勝70周年記念式典」に朴槿恵大統領が米の制止に耳を貸さず列席したことである。プーチン大統領やカザフスタンのナザルバエフ大統領と席を列べて、習近平の陣営に与することを示したのであった。離米従中というよりも、(中国に朝貢をしていた)かつての半島の関係に戻ろうとしているのかと思ってしまう。まだ北朝鮮との緊張状態があるというのに、やはり、同一民族という身にしみこんだ痕跡は、儒教的な情理に遵(したが)うと、否定しようもないようである。

 鈴置高史は、韓国がアメリカとの同盟を見限って中国と手を組むことへと向かっているとみているが、この日経記者によると、日本の外務省も韓国研究者の多くも、「まさか(そんなことがあろう筈がない)」と信じていない反応をしていたそうだ。たしかに、外から見ていると、いつも喧嘩腰の北朝鮮に対して韓国が警戒を解くとは考えられない、と普通なら思う。だが文在寅大統領になって、はっきりと親北路線をとっている。

 でもなぜ、アメリカとの同盟関係を無いかのように振る舞えるのか。これも、「情理優先」からみると、一つの解がわかる。南北分断の元凶はアメリカだ。朝鮮戦争は北朝鮮からの攻撃で起こったことではあっても、それは民族的心情からすると当然のこと。北が悪いわけではない。その分断が続いているのは、アメリカの世界覇権のせいとなると、同盟というよりも反米が「情理」に沿うというのだ。中国を統一朝鮮の後ろ盾と考えると、力をつけてきた中国に身を寄せるのは不思議ではない。

 こうして鈴置高史は、(韓国メディア)中央日報論説委員・㐮冥福の言葉を使って「韓国は中二病」という。

「中二病」? 聞いたことがある言葉だ。ネットで見ると、

《中学校2年生ぐらいの子供にありがちな言動や態度を表す俗語。自分をよくみせるための背伸びや、自己顕示欲と劣等感を交錯させたひねくれた物言いなどが典型で、思春期特有の不安定な精神状態による言動と考えられる。医学的な治療を必要とするような病気や精神障害ではない。》(ジャポニカ、日本大百科全書)

 とある。続けて、

《このことばが初めて使われたのはラジオ番組のコーナーにおいてであったが、そのコーナーの終了後、2000年代なかばになってから、インターネット上の掲示板などで広まったとされる。インターネット上では、自己中心的な発言や幼稚な言動を揶揄(やゆ)する表現として使われている。》

 とあったので、思い出した。伊集院光が、自らの悩み多き時代を語るついでに口にした言葉だったか。苦い思いを振り返っていう伊集院に、うん、うん、気持ちはわかると、わが身を重ねて共感したこともあった。だからネット上の、「揶揄する表現」は、他者のそれに向けられたときであったろう。

 韓国民もただ単に「恨/ハン」の心情だけに回帰しているわけではなかろう。近代化を成し遂げ、経済的にも苦境を脱して、日本に肩を並べるように成長してきたのだから、むろん自信を持っていい。と同時に、苦境に立つ北朝鮮をどう合併して民族統合を果たすのか、アメリカ任せで時を過ごすわけにも行くまい。そのとき、苦境を脱した現在の韓国と、四面楚歌のような渦中にある北朝鮮の強権体制とどう折り合いをつけるかは、北の統治体制が崩壊でもしない限り韓国流で取り仕切ることはできまい。まして文在寅大統領の北との付き合い方を見ていると、(なぜか)いつも北の方が一歩先んじているという「上下」を感じる。

 つまり韓国民は、現在の(韓国流)自由民主を選ぶか、30年余前までの軍事政権に似た専制統治体制を選ぶか、その岐路に立たされていると言える。むろん統一となれば、現在の経済的レベルは、東西ドイツ統一の比ではないくらい、重荷を背負うことになる。それを乗り越える「情理」を南北統一路線が獲得できるかどうか。

 東アジアにおける日本の立ち位置にも、当然影響が及ぶ。そうした岐路に隣国が立つのと符節を合わせて、我が国も「選択」が迫られることになる。いや、もうその動きは始まっていると、隣国の大統領選の(政策論議はまったく見当たらないが)報道を耳にしている。

2022年1月20日木曜日

22日のseminarを中止します。

  明後日、22日(土)に予定していた36会seminarの開催について、参加予定の方々に次のようなメールを送った。

皆々さま 困りましたね。オミクロン株の感染について、今日明日にでも首都圏に「蔓延防止措置」が出されそうです。報道では、若い人たちに幌勝手いた感染が、高齢者へ移りつつあるともいっていて、何だかいやな感じがしています。

「会えるときに会っておかないと」という言葉に刺激され、コロナとも共生して行くしかないかと思って、seminarを継続設営していますが、さてどうしようかと迷っています。H.M.さんは、1/26(水)に胃癌の手術だそうですが、今回も顔を見る、見せると思って、参加の返事をくれているわけです。「蔓延防止措置」とはいっても、外出自粛とか都県境を越えないようにという要請が出なければ、実施しようかと思ってきました。皆さんのご意見をお聞かせください。

 会場の「ももてなし家」は、このご時世だから、キャンセルになっても構いませんと鷹揚に構えてくれています。20日(木)には開催是非を連絡すると伝えていますので、できれば明日くらいまでにご意見をお聞かせください。


 回答がありました。それを見て、seminar中止を決め、皆さんに、次のように連絡しました。


 seminar参加予定の皆々さま  コロナウィルスの感染拡大の勢いは、すさまじいですね。これが、単なる(年間死者数1万人の)インフルエンザだとしても、こういう鰻上りの数値が毎日報道されると、心静かにseminarを迎えるってわけにはいきませんね。まして未だ、正体がよくわからないウィルスです。今年傘寿を迎える高齢という基礎疾患を持っている私たちとしては、慎みたいところです。危うきに近寄らずという君子ではありませんが、残念ながら今回は中止として、3月に落ち着くのを期待したいと思います。

 なお、皆さんにお伺いした「ご意見」への回答、ありがとうございました。

 要点を掲載します(到着順、行換えは省略)。

★ フミノさん 2022/1/18

  本当にお世話になります。 できることなら是非是非お願い申し上げます。

★ keiさん  2022/1/18

  (前略)私は今回のセミナーは中止した方がよいと思います。わが小さな診療所においても、この1週間の発熱の患者さんは増え、少数ですが、コロナ陽性の患者さんも出ています。攻めてきた!!と実感しています。この時期の発熱の患者さんには、人手と時間を取られ、医療崩壊の入り口を見ている感じもしています。 22日は、多忙が予想されますので、セミナーは不参加とさせて頂きます。マスクと手洗い、換気で予防するほかありません。(後略) 取り急ぎ

★ norikoohyaさん 2022/1/18

  このご時世の中、三六会の取りまとめ、大変お世話になっています。この所の爆発的な感染数を見ると、年寄は無理をしないで、おとなしくしているのが何よりと思います。会える時に会うのも、この先の楽しみにして…。正直、私は少し迷ってました。〈次の機会にて実行〉派です。

★ ミドリさん 2022/1/18

   まさに進退窮まれり状態ですね。 オミクロン株はデルタ株に比べると症状は幾分軽いようですが、感染力が強い。全く敵も手を変え形を変え襲って来るものですね。感染力が強いという点では 中止したほうが賢明かと考えます。市中にはほぼオミクロンが行き渡っていると考えたほうが良いと思います。マンちゃんの手術前の激励会も兼てと思いましたが、彼に感染することが一番怖いです。積極的中止論者ではありませんが “ 君子危うきに近寄らず”と理解しマンちゃんの全快祝いまで延期してはどうでしょうか。見えざる敵に一喜一憂し(喜)は無いか。世界中の人々の生活を一変させたコロナウイルス “出て来い! 一刀両断に打ちのめしてやるわ“ とほざいてみたところで 見えざる敵に届くわけもなく。空しく、天をあおいで、どうか感染しませんようにと小さくつぶやくだけです。貴君の問いの答えになっていませんよね。よろしくお願いいたします。

★ トシヒコさん 2022/1/19

 オミクロン株がとうとう7000人を突破、この調子だと1万人を超えるかも。幹事さんとしては、難しいですよね。私は、いつものように取材に歩いています。一昨年は、取材を申し込んでもノーでしたが、20日も2件、25日、26日も取材に出かけることにしています。大手企業は、会社に出ていない人が多くて取材が難しく、オンライ取材になることが多いですが、皆さんウイズコロナに慣れたようで、取材拒否が少なくなりました。こんな具合ですから、「やるよ」と言われたら出席します。コロナ禍で外出機会が減少して、運動量が少なくなり転倒したとか転倒不安が増大しているといった高齢者の話も聞きます。嫌な年代になりました。

★ ツチダさん 2022/1/19

 おはようございます。36会、余りにも感染力が強くなりましたので、出席、残念ですが中止します。

★ タツコさん 2022/1/20

 昨日発表された「まんえん防止等重点措置」の政府や都の見解を考えると22日のセミナーは止めたほうがいいように思います。「人流よりも、大勢集まることを控えてください」と尾見会長がおっしゃっていましたし。解除されたのち、日を改めて開催するのは如何でしょう?

 ご回答を見て気づいたこと。

 私も含めて男たちは、〈ま、この状況は致し方ないか〉といわんばかりに「(状況の中に身を投じて)適応」しようとしています。それに対して女たちは、まず身構えて(状況を外に置くように)様子を見て、適応の道筋を思案しているようです。こういう見立ては、「ジェンダー・ギャップ」だとミドリさんは言うでしょうか。

 善し悪しは脇に置いて、世の中と対する時に身を置く関係場面が違うことが、長年積み重なってこういう状況への向き合い方の違いが身についたのではないかと思います。逆に言うと、男たちは、前のめりに適応しようと振る舞うことで状況が切り拓かれることを期待しているようです。対する女たちは、まず身を護る拠点を現在地に確保してから、状況への適応を「思案する」用心深さを身に刻んでいるようです。

 たぶんそれらが相乗して、人類史は(おおむね男社会ではあったが)ここまで生き延びてきたと思います。今回も(大自然によって)それが試されているのかも知れません。

 とまあ、大上段に振りかぶることでもありません。第六波がどれほどのものか見極めましょう。またオミクロン株というのが、インフルエンザ同様に(といっても、年間一万人の死者というのは、やはり衝撃的ですが)向き合えるのかどうか、様子を見計らって振る舞いましょう。

 ご心配おかけしました。ありがとうございました。今回は、実施を見送ります。

 お体に気をつけてお過ごしください。 事務局・fjt

2022年1月19日水曜日

大きなイベントの中止、懲りずに頑張って

「根室バードフェスティバル2022」が、今年も中止の憂き目に遭った。もっとも去年は、全面中止。今年は主たる行事は中止。地元の人たちが行う講演会などは実施するという。4日間、毎日組まれていた探鳥ツアーは、どれも取りやめとなった。宿を取り、往復の航空券をとって進めてきたこちらの参加者の方も、去年に引き続き、それぞれキャンセルの手続きを取った。残念。

 もちろんオミクロン株感染拡大が勢いづいているからだ。北海道はまだ「蔓延防止措置」になっていないが、首都圏ばかりか、全国的に拡大の趨勢は、当分止みそうもない。

 おっ、今日(1/17)は減ったじゃないかと思ったら「今日は昨日の日曜日の数値だから、検査をやってないのよ」と脇から声がかかる。そんなものか? 確かにその翌日(1/18)の火曜日は、全国の感染者数が3万人を超えた。2月前は、埼玉県も一桁になろうかというところだったから、昨日の1600余の感染者数は驚天動地なのだが、茹でガエルではないが日々の比較で直近相対的に見ているから、思った程ではないと感じていたりする。

 まったく、感性ってのは、いい加減だなあ。でも、そのいい加減さがあるから、こんなにピリピリとした世の中を、自助を看板に生きていけるのかも知れないと、矛盾した感懐を抱いている。

 大きなイベントの中止は、参加者の方よりも、その実施を準備してきた方々の方が、遙かに大きな打撃を受けているに違いない。毎年恒例行事になっていたとは言え、根室観光協会が中心になってバードウォッチング・ツアーを4日間も設営する。初日の釧路空港到着便の参加者を乗せて、午後5時過ぎまであちらこちらを経巡る。翌日は早朝5時半に出発してやはり夕方5時半頃に帰着する。最終日は、朝から経巡って釧路空港の帰りの便に間に合うように空港へ送り届ける。その間の、宿は参加者が予約するが、昼食などは主催者がツアーに組み込んでいる。ま、謂わばお任せ探鳥ツアー。それでも、4日間飽きることなく楽しめるというのが、この地の冬、極寒季の探鳥の旅であった。

 去年も今年も、一緒に行こうと予約していた探鳥の強者たちも、キャンセル止むなしと受け止めてはいる。だが、実は彼らはこちら埼玉周辺の探鳥会では主催者側に回る人たち。根室の準備をしてきた人たちの心痛が、我がことのように感じられているに違いない。私のような、門前の小僧が「残念」と感じているのとは、別様の「無念」の思いを感じ取っていると思われる。

 主催者ばかりか宿の方たちも含めて、根室の人たちには、懲りずに頑張ってほしいと願っている。

2022年1月18日火曜日

情報社会と自助、自粛の判断

 オミクロン株の感染拡大が止まらないから、蔓延防止措置をとるかどうかで、自治体も政府もあたふたとしている。いや実は、私たちもあたふたしている。22日にseminarを予定しているからだ。

 デルタ株が広がっていたときも、何故広がっているかを根拠を含めて明快に示す発言はなかった。為政者が「飲食店の酒類提供」を槍玉に挙げるように「悪者」にしたが、それとても、2年も前からのことなのだから、適当な(地域を限った)「社会実験」を行って、比較するだけでもいいからデータを集めればいいものを、誰も手をつけなかった。

 コロナウィルスの感染が、昨年十月初め頃から着実に減少していったときにはじめて専門家が、「なぜかわからない」と明言して、私たちは霧が晴れるというのではないが、やっぱりそうかと腑に落とす妙な納得をしたことがあった。何というか、経験的な直感を崩すような科学的な知見というか、論理的な実証を、誰も見ていないのだと確信するような、ヘンな情報取得であった。

 それがオミクロンになって、一層加速されている。まず私たちは、自治体や政府の発表する施策が、マス・メディアの後を追っていると、はっきり感じている。かつて政府や自治体の官僚はシンクタンクであり、かつ、情報の先行的取得者だと思ってきた。だから逆に、彼らが何かを隠しているんじゃないかと疑心暗鬼にもなったのだが、ここ何年かの行政の流れを見ていると、もうそういうエリートの象徴のような特権を、彼らは持っていないと感じる。それどころか、統計処理不正もそうだが、情報の先行取得者という誇りもこだわりもないことがわかってきた。

 そうやって自助しかないと考えるようになって、オミクロンの「恐さ」の真贋を見極めようとすると、公表されるデータから読み取らなければならない。そう考えていて気づくことが、ひとつある。新型コロナウィルスが登場したとき、その死亡者数はインフルエンザの年間死亡者数とさほど変わらないのに、何を恐れることがあるのかと息巻くコメンテータが結構いたことである。もしインフルエンザの感染者数を、日々集計して、都道府県ごとに発表して死亡者数を公表していれば、私たちはインフルエンザをどう受け止めるだろうか。おそらく、コロナウィルス同様に、増えた減ったと発表ごとにハラハラしてTVを観、マスクはもちろん、ワクチン接種をしたかどうかで、店舗への出入りも規制しようという話しが持ち上がっていたのではなかろうか。

 つまり私たちは、コロナウィルスの感染状況を知ることによって、適切に「恐れる」ことをしてきた。そうして、その「恐れ具合」がどれほど感染防止に効き目があるかないかを、経験的に判断するという「知見」を高めていこうとしている。それには、いろいろな「動き」が蓄積されなければならない。報道もそうだが、実際に公共交通機関を使って移動し、マスクをして人との距離も取り、だがときどきは会食して、無事であったことを確認し、酒が入ったことで(こりゃあ、ちょっとしゃべりすぎたな)と反省しながら、しかしそれでも感染はしなかったと確認している。

 さあ、今週末のseminar開催を、予定通り実施とするかどうか、参加回答者のご意見を伺いながら、でも「やるよ」ということは事務局が発しなければならない。正念場だ。

2022年1月17日月曜日

平均も中央値もない幸運

 一年前の今日(1/16)、一週間後に開催予定であった36会seminarの「開催中止」のご案内を行った。そこには、次のように記している。

                                    *****

皆々さま

 寒中お見舞い申し上げます。併せて、新型コロナウィルス禍中、お見舞い申し上げます。

 Seminarを予定していた1月23日(土)が間近に迫っていますが、開催のお知らせをする言葉が出て来ません。開催のお知らせもしないで「中止」というのも、何だかなあと思いますね。それもこれも皆、コロナ禍のせいにしてお赦し下さい。                  

 コロナウィルスが勢いを増していることは、日々の報道で、ひしひしと感じられます。たしかに「緊急事態」だと思います。では政府の「緊急事態宣言」がコロナウィルスのどこをどう抑えようと意図しているのかとなると、ピンときません。/庶民大衆に「密を避け、外出自粛を」と呼びかけた「規制」を(密かに)破った政治家たちは、5人以上「会食」の人数が問題なのではなく、ウィルス感染の防備を整えているかどうかがモンダイなのだとか、人と会うのが役目なのだからと居直っています。/8時以降の外出は「誤解」だそうです。昼夜を問わず外出するなという意図だそうですが、政府はそうは口にしません。なぜかメディアが言葉を補足しているのです。いかにも日本語の特性文化なのでしょうか、直に言わせるな、推察せよということのようです。/若者中心に感染が広がっていることを政府は力説していません。コロナウィルスに感染した若者の「無症状」も面倒な「後遺症」をもたらすとメディアが広報をはじめていますが、政府はそうは言いません。対応策が後手であると思われないかと気を遣っているようにみえます。つまらないこだわりです。

 都知事が(感染拡大を抑えるには)「人の往来を止めることです」というのが唯一、そうだよなあと響きます。でも、日々の暮らしそのものの「密」度が高い首都圏では、ほんとうに街を封鎖するロックダウンでもして、外出を抑えてしまうのでなければ、「止める」ことなどできません。法改正をして施策に強制力を持たせようと政府与党は立案作業をしていますが、知事の強制権限に実効性をもたせるための「罰則」には言及するものの、強制を効果あらしめるための「財政保障」には触れていません。国家の強制力とは無理やり従わせることにほかなりません。それによって進路を誤った75年前の国家のトラウマを未だ引きずっているのだと傷ましく思います。知事の強制権限にしてから、「勧告」と名づけて「強制」とは表現できないのです。

 いずれにせよ私たち年寄りは、現状況に適応して自己防衛するしかありません。世の中の移ろいに、過ぎ越し日に積み重ねたわが身の無意識を見いだしつつ、せいぜいご近所の散歩程度を欠かさず、御身大切に、元気にお過ごしくださいますよう、お祈り申し上げます。(後略)

                                      ****

 今年は、1/22(土)にseminarを予定しており、今のところ実施しようと準備を進めています。去年に較べて今年のコロナは収まっているかというと、そうではない。むしろ日々の感染者数は、多いんじゃないか。でも実施する。参加者は今年の誕生日を迎えると80歳という高齢者ばかり。

 去年と何が違うのか。ワクチン接種を2回終えている。デルタ株がオミクロン株に変わっている。なにゆえに感染が拡大しているか、分からないことが分かっている。「公助」が当てにならないことを身を以て知った。つまり、「自助」というか、自分で用心して行動する以外に防ぎようがない。その用心というのは、マスク、手洗い、間隔、換気。用心する場所は、公共交通機関と人混み。

 seminarの会場になると、なぜか(7月以降の3回では)同じ高齢者ならばもう一蓮托生という気分が働いて、(マスクはしているが)気分的には家族のように振る舞っている。

 私の気持ちには、もう一つある。そろそろ80歳。ここまで幸運に恵まれて人生を送ってきた。ここで、seminarを機に(コロナに罹って)身罷ったとしても、悔いを残すことはない。だいたい平均寿命を生きたんだからと、「私が平均寿命を生きる」ってことには何の意味も根拠もないのだけれども、そう自足して肚も決まった。この平均寿命を生きるって発想が、そもそも私たちの年代の特異なセンスじゃないかと、わが身を振り返って思っている。公平とか公正という感覚のどこかに、概ね平均的なところをどなたもが到達できるようになるという気分が根付いているのだ。それが、何に由来するのか、何時そうしたセンスがわが身に侵入してきたのか、皆目わかりませんが、我が人生を振り返ってみると、あることに気づく。もちろんこれは、誰もが平均でなければならないと「出る杭は打たれる」ことに向かう同調圧力というものではない。むしろ、平均以下の人々が、平均に到達するように支援するのが公助であり共助であると、底辺に目配りして世の中全体を「高めていく」指向性を持っている。その私の思考性は1980年代のバブル経済へ向かう途上までは、世の中の進展と符節があった。「一億総中流」と謂われた時代は、そういう意味では、私の公平・公正センスを育てた社会的な規範感覚が働いていたと思う。

 例えばこんな話があった。イギリスに進出した日本企業の社長が社員食堂で社員と共にお昼を摂るということをしたことが驚きの目で以てみられたとニュースがあった。労働者と同じ場で社長がお昼をとるというのは、「非礼である」とイギリスではみられたのだ。「会社」に対する捉え方も同じで、株主である資本家よりもそこで働いている従業員が会社の経営の運命共同メンバーと見なされていた。だから、社長と従業員の給料の差も、せいぜい数倍~十倍という程度であった。

 だが、その後の「失われた*十年」を見ていると、平均がどんどんズレて行っている。例えば所得をとると、優勝劣敗がどんどんと進んだ。豊かな者はますます豊かになり、貧しい者はますます厳しい貧困に陥った。2021年の一人当たりのGDP速報値をみると460万円ほど。世界22位だが、これは平均である。では「中央値」は何処にあるかと見ると、254万円。大雑把に言うと、1億2500万人の人口の中央値は、5250番目の人の年間所得は平均値の55%程になる。極少数の超高額所得者と大多数の超少額所得者が排出されているのだ。もっと簡単に言うと、中央値は、平均値の半分程になっている。

 いやはや、平均寿命という年齢の話しを、所得の話しにするなんて、奇妙奇天烈そのもの。だが、私の身に宿るセンスを解析するには、そういう奇天烈な入口から入らなければならないのだ。私はこうしたセンスが、同世代の人たちに共有されていると思っている。それを普通だと思っていたら、どうもそうではないらしい。私たちの世代の過ごして培ってきたセンスは、特異な時代が生み出したもの、一般的ではないと感じるようになった。

 おやおや、コロナウィルスの話しが逸れてしまった。自助努力でseminarを開催するという私たちの心持ちをご披露したかっただけ。でも、こういう事々に出逢うごとに自分の歩いてきた道筋が浮かび上がってくる。不運に出逢わなかったという幸運に恵まれたことに感謝したい。これには「平均」も「中央値」もない。

2022年1月16日日曜日

ヒトの暮らしの現場を見よ

 昨日の話に続ける。朝日新聞1/15の森田真生さんの記事と同じ面に新井紀子さんも登場していた「新井紀子のメディア私評」のことに触れる。《日本のモノづくり 想像力働かせた「コトづくり」を》と見出しをつけた彼女の文章は「メディア私評」の最終回らしい。「次の場へと転がっていこうと思う」とお別れの挨拶を記している。「教育のための科学研究所」の所長という仕事から別の何かに研究拠点を移すのかも知れない。

 最終回のメディア私評のテーマは、「モノづくり」で優れていた日本の製造業は、そのつくられたモノの使用を通じてヒトの暮らしの何がどう変わっていくかを視野に収めていなかったのではないかと指摘するものだ。モノをつくるというのはそれを使うヒトの暮らしを変える。日本のバブル時代の、つまり1980年代から引き継いだ製造業の隆盛は、文化の流れを追うように、需要のあるモノを次々とつくって世に送り出してきたから、モノがヒトの暮らしというコトを変えるコトに思いを馳せていなかったと言える。

 だから、1990年代以降の世界の文化的潮流の変わり様に対応しようとしないで、モノだけを見ていたことが、バブル後の「失われた*十年」につながったと新井紀子は読んだ。そこでモノづくりからコトづくりへ向かうようにと提言するのが、今回のメディア私評の趣旨であった。

 彼女は1980年代前半に登場したウォシュレットが、コトづくりの模範事例だと持ち上げている。その背景には、ウォシュレットが女性の暮らしを確実に変えた様子を、行く先々のトイレに現認して確信したことを取り上げる。つまり、ウォシュレットという温水便座のモノづくりが、《臭く、寒い、汚い「不浄の場」から「楽しい空間」に変えた画期的なコトづくり》へつながったと評価している。日本の製造業に、そのようなモノを使うヒトの暮らしを変える視線をという提案は、ただ単に需要のあるモノを開発せよというのではなく、ヒトの暮らしが(この先)どのように変遷していくとみているのかを問う、哲学的な視線を持てと示唆しているのである。

 それは、ヒトの暮らしの現場を見よという直言ではないか。モノづくりだけではない。立法も行政もまた、机上の思索と立案というのではなく、日常現場に足を運んでヒトの暮らしをじっくりと見据え、それに今何をどう不都合と感じているか聞き取って、策定に臨んでほしいと提案しているように聞こえる。デスクワークだけをベースとする学者の研究業績もそうだ。物事を手順に従って組み立てるだけではなく、それを用いるヒトの暮らし方がどう変わってくるのかを組み込んで、制度設計も細かい施行手順も組み立ててくださいよと、私なら話しを拡げていきたい。

 いつであったか、カミサンがTVのチャンネルを切り替えていたとき、国会中継が流れていた。その瞬間、「人がやることですから・・・」という大臣の声が聞こえ、「ちょっと止めて」とチャンネルを回すのを止めてもらったことがあった。質問者が何を聞いたのかはわからなかったが、コロナウィルスとマイナンバーカードとデジタル化のことではなかったか。発言者は山際経産相。こういう政府答弁を耳にしたのは久しぶりだという思いが湧いた。こういう人を大臣に据えているだけで岸田内閣に対する信頼感は、グンと増すと思った。「人がやること」には、推進する作業現場の人の姿が組み込まれている。その不確実性を参入すると、そう機械的に、形式的に、予定通りにコトが進むとはいえないという言葉の含みが、好ましい。

2022年1月15日土曜日

わからない世界の心身一如

 つい先日(1/12)の本欄「リケジョの心得」で取り上げた新井紀子さんと数学研究者・森田真生さんが、昨日(1/14)の朝日新聞の「寄稿」欄に登場していて、偶然とはいえ、なにか社会的な土台が共有されているような気分。というか、私と社会が共鳴共振して同期しているメトロノームって感じがして、愉快になる。

 森田真生さんが「寄稿」。紙面の3分の2を遣って「自分でないものの力」とコラム主見出し。「共に在るということ」とコラム袖見出し。記事そのものの中の見出しは「祖母の記憶を宿す手」「堂々巡りの始まる朝」「宛先を超えていく声」「地球の表層で知らずに支え合う命」と見出し4本が並ぶ。

 この見出し群を見ただけでは、この「寄稿」が何を書いているのか、わからない。見出しは、森田真生に「寄稿」を依頼した編集者の読み取りたい心持ちが現れているのだろうが、それが彼の書きたいものを読み取っているのかどうかは、私には分からない。

「二年前に亡くなった祖父が、亡くなる直前まで読んでいた絵本がある」と始まる。祖父の思い出を語る言葉の中に、庭のサザンカが登場する。それに寄るメジロ、カッコウやシジュウカラ、ヒヨドリの声も響き、太陽を浴びるカエデやギンモクセイも共演して、それらが皆、祖父として森田の心裡に甦る。祖父のように生きる、祖父と共に生きる、それは大地を含む自然そのものとして自らも生きていることを感じている姿と読める。

 この「独立研究者」という肩書きの森田真生が、数学研究者として「数字を遣わないで数学する」ことを標榜して社会活動をしている人と分からなければ、何故こんな文章が大新聞の一面を飾るのか「わからない」と思う。だが森田を少しかじったことのある門前の小僧は、数理世界の裏側に張り付いている「せかい」の根柢に、自然世界をまるごとのままにとらえた「混沌」が感じ取られているのではないか。その感触を、分節化して数理に置き直してしまうときに捨象されてしまうもろもろのことを惜しむが故に、「混沌」を混沌のままにとらえ措いて、しかしその「混沌」に近接する極限にまで感覚を鋭敏にさせて(数理的に)迫ってみようとしているのではないか。

 だから、この文を読んでコンパクトに見出しをつける切り取り方は好ましくない。むしろ「(何を言っているか)わからない」ままに、その「せかい」に身を浸して、感触を味わう。それが、「森田真生のせかい」に触れる礼節ではないかと私は感じた。

 それじゃあ、わからないままではないか。そう。「わかる」というのが、筋道をつけて、論理的に理解できるということだとすると、「わからないまま」におくことが、向き合い方として正解。言葉にすると損なわれてしまうことがある。そういう領域のことに森田は触れている、触れようとしている、そう感じていることだけを伝えようとする。と、まるで祈るように、関わりのあるありとあらゆることへの「感謝」が、ふつふつと湧いてくる。それしかないなら、それで十分。そう見切っているのかもしれない。

 いやそうじゃないか。わたしが、そう見切っているのだ。そうして、「わからない」ことを愉快だと感じている。まるで森田真生が「祖父の読んでいた絵本」を、繰り返し巻き返し読むように、そうして、読むごとに胸中に現れてくる場面は変わり、心裡に描き出される感傷は像がぼやけ、まるで世界が一つになったかのように「こんとん」として感じ取られる。それは、もう一歩先には、「わたし」自身の端境、輪郭がぼやけて「こんとん」と一体になって自然に溶け込んで感じられる。心身一如というのは、こういう感触のことかと、世界と個我の一如を感じるのであった。

2022年1月14日金曜日

属人性とルール

 seminar準備の話を続ける。第14回「野球の何が私を魅了してきたか・大リーグのすごさを読み解く」を読み直していて「★ 審判の属人性が色濃いアメリカ野球」で講師が「アメリカの審判って、スリーボールの時にボール球が来てバッターが自分で判断して歩き始めると、必ずストライクっていう」と、審判しているのは私だと権威を示す属人性が目にとまった。去年は大谷フィーバーで大リーグの画像をたくさん観させてもらったが、その中で目にとまったのが、上記の審判の「権威誇示」であった。大谷投手が投げた明らかな内角のストライクにボールの判定をした。次の一球を大谷は同じところに投げた。それを審判は、またボールの判定を下し、敵応援団からも大きなブーイングが起こったという場面。映像は審判の判定違いをくっきりと示している。seminarの話を聞いて以来ずーっと内心に蟠っていた疑問が、ムクムクと頭をもたげる。

 この、アメリカとの違いは、なんだ? 日本の私たちは、野球の審判というのは、人がやるけれども客観的に判断基準があるみている。つまり、審判は「神に変わって」判定を下している、と。だがアメリカでは、そんなところに神はいないといわんばかり。審判が判定するとみている。つまりルールというのは「(審判の)支配」であるという原義をきっちりと押さえている。ところが日本人の心性は、八百万神の一人である野球審判の神が下す判定を、依代である審判が口にすると考えているようだ。そこには「支配」という、人と人の関係がもたらす要素が欠落して、自然のことと受け止めている。

 この両者の違いは、人と人とが結ぶ社会関係においても、支配という上下の関係や強弱の関係が基本だということをないかのように受け止める心性につながっているのかも知れない。だから逆に、「支配」が恣意性を感じさせると酷いなあと受け止める心持ちにつながる。アメリカの審判のような「恣意的な振る舞い」は、日本では受け容れられない。だが「支配」ってそういうものよと見ているアメリカ人は、トランプ前大統領のように自分のために嘘をついて有罪となった元政府高官を「恩赦」するという暴挙を、隠そうともせず平然と行う。もっとも、安部宰相も似たようなことを財務省の高官らに対してやっていたか。日本も、事情が変わってきているのかも知れない。

  そんなことを考える一つの基点となっているのが、seminarのまとめという定点である。そういう観測点の足場をつくっておいて良かった。そう思いながら、振り返っている。

2022年1月13日木曜日

seminarの「まとめ」という定点観測点

 seminarの準備をしている。2013年に始まったseminarが隔月に開催され、7年を経て振り返ってみた『うちらぁの人生 わいらぁの時代』(日本出版ネットワーク、2020年)は、どんな意味を持ったろうかと自問するのがテーマ。

 いろんな方がさまざまな「お題」を展開したseminarに触発された「私的メモ」というのが、上記の本の中身なのだが、読み返していると、そのときに気づかなかったことが湧き起こってくる。

 たとえば、第6回の「現代物理学の容貌」で聞いた量子論や素粒子論や第22回の「人がたどり着いた宇宙」などは、「わからない世界が(何処か向こうに)ある」という恰好で「せかい」を描き自分を位置づけているという感触を、感じさせる。そこへ第20回の「音楽しろうと雑学」が「可聴域を超える音を人は聞いている」と、生物としてのヒトを自然の中に放り込むと、俄然、「わからない世界」がわが身の足下から起ち上がるような気分につながる。するとこの講師が「神話伝説の黄帝が樂師を呼び音曲を弾かせるとたちまち兵士が元気になった」という話しの、音と生物としてのヒトの親密な成り立ちが埋め込まれていることに思い至る。それは、オノマトペを得意とする日本語に親しんできた私たちの成立事情にも思いが及ぶ。ひょっとするとオノマトペというのは「ことば」をリズムや響きやメロディとして聞いているのであって、言葉の意味とかテーマとかは二の次ではなかったか。発生的には「ことば」の大きさや響き、リズムやメロディで〈なにがしかのこと〉を伝える役を果たしていた。二の次というのは、それが進化・深化し微細な表現として練り上げられていったが、その過程で初期の大きさや響き、リズムやメロディが忘却されていっているんじゃないか。そういう風に、言葉に関してわが身に堆積してきた痕跡が、薄皮を剥がすように現れてくる。それが、「36回seminar私記」をまとめた効果。つまりわが身が気づかぬままに体験している領域を、読み返すことによって対象化しているわけである。

 seminarというネットワークは、「わたし」というヒトに堆積している人類史的な文化が、私の裡側で意味を持って起ち上がる。堆積して裡深くに沈んでいるニューロンが、seminarの「ことば」に触発されてつながり、表面に浮き上がってくる、その触媒になっている。そうか、ネットワークというのは外の人と人との関係だけでなく、わが身の裡に張り巡らされている文化の痕跡が互いに繋がり会っていることを、まるごとの混沌から掬い出してくる「網」なのだ。そう感じるのが、面白い。

 別の「触発」もつながる。第13回「建築を楽しもう」は、建築家が人が住む心地よさという合目的性を探求することと同時に、それが人の紡ぐ関係を規定してしまうという機能性を、どう打ち破っていくかと苦闘している様子を伝えていた。ザハ・ハディドの名も、ここで登場していた。「建築家ってヘンじゃないか」という言葉も、ここで遣われている。それもあって後に、荒川修作という建築家がおしゃべりしているのに気が止まった。

「中央線の上の土地を全部買う」という。「第二の東京をつくる」「つくったら武蔵境の上はビーチにする」「ビーチにしたらどうなると思う」「七十歳のおじいさんと八十歳のおばあさんが、そこで日焼けをしているんだ。それで、おじいさんがおばあさんに『お前の裸が見たい』って言うだろう。そしたらおばあさんが『何言ってんのエッチ!』って答える。それを見た子どもたちは、俺も早く年取りたい、って思うんだよ」

 何という破天荒な建築家だ。seminarで紹介された「塔の家」という建築家の住まいも珍奇であったが、荒川修作の発想は桁違いにむちゃくちゃだ。その彼が設計したという「養老天命反転地」がどんなものか、ネットで覗いてみたことがある。岐阜県の養老町のそれは、なかなか面白い。知らなかったなあ、こんな建築家。世の中面白いと思う。

 第11回「髪結い政談・東アジアの困ったモンダイ(1)」は、2014年。後続の(2)がない。だが2020年の1月・第二期・第11回で「日本の『防衛』という問題」で、濱田守さんが新橋に溢れる中国人とのことを、好悪取り混ぜてレポートした。それからさらに2年、中国の問題は「困ったモンダイ」という以上に、緊迫する様相を呈している。世界がどうなるのだろうということでもあるし、日本はどうしたらいいのだろうと目が離せなくなっている。世のこうした趨勢を、肌身に感じる入口にseminarがあるというのは、まさしく平穏に過ごした「わいらぁの時代」が特異であったことを示している。

 それはともかく、私にはどう解いたらいいか分からない疑問がある。中国と台湾のこと。台湾が中国の一部だと中国政府がいうのは、支配領域のことだろう。だが(経済的にも政治的にも)別々の独立領域であることは、戦後、あるいは1949年から後を考えても明らかである。にもかかわらず「台湾は中国の一部」というのは、日本の植民地であった台湾が、日本の敗戦によって日本領から剥奪され元の中国に返還されたものと考えられているためでしょう。だが、はたしてどうつながっているのか、私にはわからない。サンフランシスコ講和条約では「日本は台湾と澎湖諸島を放棄する」とある。このとき中国大陸では国民党軍と共産党軍が争っていて決着はついていない。つまり台湾は、帰属先が決まらない無所属の地になった。そうして1949年に国民党軍は台湾に逃れ、そちらを占拠して中華民国を名乗る。それを中国として国連の代表権を与え、それが後に中華人民共和国へと移し替えられ、現在の中国の地位へと繋がったである。この過程が元になって台湾は中国であると国際社会が認めたとされているのであろう。だがそれ以降も台湾は独立した経済圏と支配領域をもってきている。

 国家として自律しているという正統性は、国際社会の承認が前提ということならば、その場で争わねばならない。中国政府が、あの手この手で台湾を孤立させようと画策しているのは、そのためであろう。ならば台湾もまた、中国との政治的一体性を受け容れるのがイヤであれば、徹底して国際社会にその存在を訴え続けていかねばならない。それは、貿易であれ、防疫に関する国際機関への所属であれ、折に触れて、一つひとつ関係を取り結ぶ外交を展開するしかない。独立するかどこかに帰属するかは、誰が決するでもない、一つひとつの繰り返される取引や交わす外交文書や会議などで自律していることを証してみせること、それ以外にない。

 つまりこれは、戦後的な国際秩序が(日本を「敵国条項」で特異扱いしている国連が)タテマエとして保っている条項もまた、現実の展開において機能しているかどうかが問われて、その実態に合わせて国家・地域の自律性を判断していく流路が必要ということなのだろう。私たちの日常においても、そうやってタテマエを崩し、実態の関係に目を向けていくことが必要とされている。その判断の一つひとつが、メンドクサイことではあるが、いちいち根源から問い返して自ら答えを出していく作業となる。

 そんなことを続ける面白さを感じさせてくれるのも、定点観測点のような指標を『うちらぁの人生 わいらぁの時代』として立てておいたからであったと、感慨深い。

2022年1月12日水曜日

リケジョの心得

 お正月に孫従兄弟妹が爺婆のうちに来て、互いに学校の話を交わしている。大きい方は高校3年生、小さい方は中学1年生。中学生従妹が教科の得手不得手を話していて、高校生の従兄が「じゃあリケジョだね」と言ったのが、とても印象に残った。実は私も高校3年のクラス分けの時、希望して「理系クラス」に入った。すでに(大学で)経済学を勉強することを決めていたので、数学Ⅲは勉強していなくてはならないだろうと思ったこともあったが、2年次から始まった物理が面白く得意でもあったからだ。3年の担任の教師は(大学で)「これからは原子物理学の時代。経済学なんかではあるまい」と志望変更を奨めてくれたが、耳を貸さなかった。でも、リケジョはわたしの血筋を引いていると、ちょっとうれしくなった。ところが国語が苦手と言っているのを聞いて、おやおやと思い、思い浮かんだことがあった。

 ひとつは、AI研究者の新井紀子さん。この方は、東大入試に合格できるロボット「東ロボ君」の制作を行っている途中で気づいたことを『教科書が読めない子どもたち』という本にした。ロボットに人間が負けるかどうか議論するよりも、子どもが読解力をつけることが大切だと力説している。彼女は(子どもたちが)「数学ができないというより、問題文を理解していない」と気づき、全国2万5千人の(高校生の)基礎的読解力を調査したところ、「3人に1人が、簡単な文章が読めない」ことを発見して、ここをどうにかしないことには、将来の日本は暗いと、読解力をつけるための支援活動に力を入れている。

 孫妹がリケジョであるということは(受験学力的には)基礎的読解力を有しているとも言える。だが、受験のためだけに勉強しているわけではない。まして、国語が苦手というのが身に染みこむと、長い文章を目にしただけで「もうダメ」と思い込んで読む気力を失う「バカの壁」が心裡に出来上がってしまう。とはいえ、国語が得意だから(大学で私は)国文学を勉強しようと思い込むのも、「バカの壁」の逆側面。人が生きていくということは、言葉を身につけ、言葉を交わし、人類が築いてきた文化をことばを遣って受け継いでいっている。つまり「人間とは言葉だ」と言ってもいいくらい、言葉はヒトのクセなのだ。それに習熟し、人類の築いてきた文化を身に携えていくことが「生きる」こと、つまり人生だといっていいくらい。

 そう言っていて、もう一つ思い出したことがある。数学研究者の森田真生のこと。彼は1985年生まれだから、いま36歳か。この人のことが目にとまったのは、雑誌「新潮」2013年9月号で彼が「数字を遣わない数学をしたい」と話していたから。そのとき私は森田が紹介していた「人工進化」の研究に関心を持ち引用したのだが、数学研究者がこのような考え方をしていることに興味を惹かれた(詳しくは藤田敏明『うちらぁの人生 わいらぁの時代』pp226-227を参照)。天才的数学者といわれていた岡潔の『日本のこころ』に触れて森田真生が、人が身を置く自然=「せかい」のすべてのことを一つにつなげて感じ取ることのできる「ことば」を数学的にとらえ(数字を遣わないで)表現したいと考えていることが、ひたひたと伝わってきた。その、部分部分、つまり断片の感懐は、私自身が紡いできた「人間」や「社会」や「自然」や「せかい」を摑まえた言葉と重なって、そうだその通りだと膝を打つような気持ちになった。

 学校で学ぶのが受験学力だけなら、こんなことは言えないが、まさか中学生が(その若さで)それっきりに自分の身を限ることはない。人類史が築き上げた文化を、もっとも手際よく表現する(美しい)方法として数学を採用するというのは理解できる。同時にそれが、庶民に共有される「ことば」として広く受け継がれ伝わることを、今私の歳のせいであろうが、願う。そういう意味で、「数字を遣わない数学」の語り口を身につけるのが素敵だと思った。ぜひ、国語に関する「バカの壁」を築かないで、受け継いでいる人類史の文化を思い浮かべながら、中学生活を送ってねと、伝えたいと思った。

2022年1月11日火曜日

変容する人が面白い

 来週末に予定されているseminarの運びをメモしながら、カミサンがみているテレビドラマをチラ見した。フジテレビの制作ドラマ『ミステリという勿れ』第1回の録画。チラ見なのに途中から、台詞から目が離せなくなった。いや、台詞から耳が離せない、か。

 容疑者の「ボーッと生きている」大学生、容疑者として取り調べられているのに、警察署の警察官に問いかける言葉が、何とも哲学的。それを耳にした警察官の心象が緩やかに変わっていくのが、上手い演技で表現される。大学生の口にする言葉の立ち位置も明快。視聴者も容疑者でないことは共感をしながら、ではどうやって謎を解き明かしていくのだろうと興味をそそられる。つまり、容疑者が謎解きをする運びに、哲学的な(容疑者の)言葉によって変容していく警察官の姿が重ねられ、なるほどと得心する場面にうなずきながら観ていった。

 むろん現実にそういうことはあり得ないとは、思う。何しろ警察官がそこまで容疑者とのやりとりを受け容れるほど、警察官は鷹揚じゃないし、耳を傾ける「関係」を築こうとしない。原作は誰だと思って調べたら、何と田村由美作の連載漫画だという。どうか、ならばあり得ない展開があっても不思議ではないし、それがじつは、あらまほしき市民と警察官の関係を表現していて好ましくうけいれたとしても、全部了解よと鷹揚に読める。

 主人公の言葉が、しかし、警察官に受け容れられていくプロセスは、現実の市民と警察官ばかりでなく、社会を共有して生きている市民の日頃の「かんけい」を抉り取っているからであると腑に落ちる。

 言葉は普遍的であることがつよいと(なんとなく)たちは思い込んでいるけれども、そうではない。個別のことに関して発せられる言葉の強さが、そのことばの普遍性を強めているのであって、それは、ありとあらゆる場面で繰り返し発せられることによって普遍的に成り、それが発せられることがなくなると瞬時に普遍性の座から滑り落ちる。個別と普遍とは、そういう関係にあるのだと示しているかのようであった。

 そこが、面白い。そこが面白かった。変容する人が面白いというのは、やりとりする言葉に耳を傾けて、それが身に染みこんで行く過程が見えることへ、惹き込まれていく我が関心が振動するからだ。

2022年1月10日月曜日

移ろう言葉の幅

 昨日(1/9)の朝日新聞「社説余滴」《「人民」って一体誰のこと?》を読んで、ちょっと驚いたことがあった。筆者は国際社説担当の古屋浩一。中国に留学して中国語を学んだときのことを記している。

《例えば「人民」という単語。英語でピープル、日本語では人々と訳されることも少なくないが、中国では反体制以外の人とか、「敵対勢力」ではない人といった意味を持つ。》

 えっ? じゃあ、私が遣ってきた人民というのは、何だったのか。私がはじめてこの言葉に出逢ったのは、小学校高学年であったか。リンカーンのゲティスバーグ演説の一節「人民の人民による人民のための政治」だったと思う。その頃は「国民」と同じ意味だと思ってきた。高校生になる頃、「国民」が日本国籍を持つ人と考えると、それとは違う在日定住者の人たちを含めるときに人民と謂うのだと思うようになった。つまり「国民」より広い範囲を概念が「人民=ピープル」。

 大学へ行って後に、人民という言葉が英語のピープルほど日本語としてこなれていないと感じることが多くなった。左翼用語の趣が強い。かといって古屋浩一が指摘するように「人々」と訳すと、市民とか大衆と謂うよりも狭かったり、国民さえも含まれたり含まれなかったりする。「人々」は遣う文脈によって自在に幅を変える。ということは、英語でピープルという概念を表す言葉が「人民」以外に日本語にはなかったと気づくようになった。

 しかし中国語の「人民」が《反体制以外の人とか、「敵対勢力」ではない人といった意味》とは思いもよらなかった。そうか、共産党が人民の前衛として先見的に(アプリオリに)国政を指導する(専制的)立場を手に入れるには、共産党が「人民」を囲い込み先取りする必要がある。それには「反体制」とか「敵対勢力」を予め排除することが欠かせない。なるほどそう考えると、「中国には中国流の民主主義がある」と(中国政府の)謂うことが詭弁ではなく、彼らの世界観を示している。

 とすると、香港の民主派は「民主」ではなく、政府や権力側に対する異議申し立てはことごとく排除するべき言説であり、愛国的ではないと規定できる。チベットや新疆ウィグル族の民族的伝統は、もし中央政府が漢族的文化伝統を国家的アイデンティティと見なすようになれば、それも排除の対象となる。今それが中国国内で進行しているといえようか。

 でもこれって、既視感がある。昭和初期の日本の為政者が採っていた世界観と同じ響きを感じる。「人民」は「臣民」であり、「天皇の赤子」という感触なんであろう。それに反対するものや敵対勢力というのは、当然の如く排除の対象になる。国体を脅かすという意味で愛国的でない。そこを判断基準とすると、近代市民社会の世界観には似つかわしくない。何が? 異質な考え方や感じ方を認めない、同質な人たちだけが身を寄せ合う共同体を思い起こさせる。

 そうやって近代社会の成立期を思い起こしていると、西欧では17世紀の半ば、30年戦争とその終結を画期するウェストファリア条約の締結に突き当たる。宗教戦争でもあった西欧中を巻き込んだ長年に亘る戦争の結果、カトリックもプロテスタントも相互に棲み分けて認め合うはじめての国際条約が結ばれた。つまり、「敵対する」ものたちがヨーロッパという領域に共存することを、先ずは領邦国家ごとに承認し合い、後にそれが市場経済の広がりと市民の誕生に伴って個人の信仰の自由にもつながっていった。つまり、異なる思想信条、異なる価値観を持った人たちが「市民」として関係を紡ぐ社会規範が育まれていくことになった。

 近代政治哲学からみると、ホッブズ、スピノザ、ジョン・ロックが思索活動を行った時期と重なる。そのとき、自然権とか社会契約とかを突き合わせて、主権とか立法権とか行政執行権と謂った近代政治哲学の概念が形づくられていった.それを私たちは、明治以降の西欧思想の流入と第二次大戦敗戦後の民主化政策の中で受けとってきたのであった。

 江戸時代という安定した社会規範の期間が長く続いたことが、西欧近代を受け容れるときに異質な人たちとの共存という要素を意識しないまま、統治システムの形として理解することに傾いたのかも知れない。また、西欧の文化的一体性を「キリスト教」とまるごと一つと考えて理解したことが天皇制国家日本という精神的支柱を打ち立て、「天皇の赤子」として人々を統合していく道筋を意識的に歩んだのであったろう。つまり、異質な人たちの共存という要素を見失ったまま「近代社会」へ突入し、それを成熟させていったと勘違いしていたのが、戦前日本の統治感覚であった。その意味で、「天皇の赤子」が「共産党の指導」に変換されただけの現在の中国政府の国家的組立は、むしろ西欧の絶対王制の支配に近い統治感覚だといわねばなるまい。

 とは言え、中国語の「人民」感覚が時代遅れと誹ることは適切でない。アメリカにしても、トランプが登場して以来、政治的対立勢力は「敵」であり、排除するべきと謂う「ピープルの分断」が公然化している。それに掻き回された世界政治が、皆トランプ・タイプに移りつつある。というか、これまで被っていた近代市民社会の規範の装いを脱ぎ捨て、自己利益を剥き出しにして、脅しと懐柔とをもって外交交渉に臨むことが恒となった。

 中国が(遅れてきた近代国家として)遠慮がちに振る舞っていた時期は終わり、経済的な地位の向上と併せてあからさまな#me-firstを、手順さえも我が儘に追求してきている。それはじつは、近代政治哲学が積み上げてきた「ことば」が、もはやその始まりの出来事(西欧の17世紀)を離れ、漂流してきたことをしめしている。そしていまや、人類史的に積み上げてきた古層が現れ、それに直面している私たちは、あらためて近代政治哲学の言葉を、人類史始原の原点に遡って吟味し直さねばならないところに立たされている。

2022年1月9日日曜日

我が家の火消し

 一年前(2021/1/8)のブログ記述「空言疎語の緊急事態」が、今も生きている。「人の流れを止めることです」と今年、小池都知事は言わないけれども、今のオミクロン株感染拡大の勢いは、昨年の日ではない。一日ごとに、2倍、5倍、10倍と増えていく数字の変容は、それを目にするごとにコロナウィルスの勢いをどう躱すかと考える以外、方途がない。インフルエンザと同じと言われても、数字でみえるから、「軽症です」という言葉も自己欺瞞に聞こえる。

 アメリカが1日に百万人を突破したと報道がある。日本はそうなると、たぶん、PCR検査も追いつかないということになって、医療崩壊以前、つまり事態にまるで対処できないとなるに違いない。

 カザフスタンで燃料が値上がりしたことがきっかけで暴動に発展し、鎮圧する警察や軍と衝突が起きて死者が出ているとニュースが流れている。むろん日頃の「抑圧」が溜まっていたからであろうが、ちょっとしたことがきっかけで憤懣は暴発する。日本はそうはならないと思っていても、はて、何処までそれが通用するか。

 中国の気配が、怪しい。北京五輪を盛り上げようとしているが、他方でウィルス感染の拡大を抑えるために、強圧的な手立てを講じている。外出禁止を護らないものに対して、扉を溶接するような強硬手段は、行政者の「執行権」のアルゴリズム(手順)が「正ー反」の二極しか持ち合わせていないからであろう。そういう強硬な執行権を行使したところが、そりゃああまりにも酷いと、SNSなどを通じて非難が起こる。慌てて溶接を溶いたときくと、そうだよね、そういうやりとりが行政者の文化性を少しずつ変え、生活者の気風を受け容れる統治者のアルゴリズムを生み出していくのだと思う。中国のように大きな地域の、多様な民族を一括する統治感覚では、「正ー反」二極の統治手順が横行してしまう。つまり、各地に「憤懣」が溜まっていく。まして北京五輪の機に、コロナウィルス感染の拡大を世間体というか、世界に向けた中国式専制統治の喧伝の正統性として見せようという魂胆が絡まると、「習おじさん」への親近感が一挙に「反乱」へ結びついて暴発する可能性を生む。

 今中国が安定的なのは、ちょうど1980年代末の日本経済のような様相だからだ。「一億総中流」と日本では呼んだが、中国は「共同富裕」がそこそこ実感できるほどの経済的な浮揚感が人々の間にある。それが続いている間は「憤懣」は限定的になる。だが、バブルが弾けるように経済的な纏(まとい)がとれてしまうと、一気に専制的な統治は「正統性」を失って「天命革まる」気配が表層化する。

 もちろんそうした事態を察知すると、「憤懣の暴発」を逸らそうとする統治者側の意図が働く。一番手軽なのは、「外圧」によって我が国が危機に立っているという緊急事態だ。そうなると、行政権が法治の枠組みを超えてでも最大限に発揮されても(国民の)支持を得ることができると、世の統治者たちは知っている。どこで「外圧」が働くか。習おじさんが大一番を賭けるのであれば台湾ということになる。もしここで有事となると、北京五輪どころではなくなるから、ま、今はそこまでは踏み込むまいが、反米や反日が一番手っ取り早いことは、確かだ。

 となると、ご近所の騒乱は、必ず飛び火する。対岸の火事ならぬ、我が家の火消しが必要になる。元宰相は、すでに外野に身を置いているつもりなのか、気軽に隣国を挑発する言動を繰り返している。彼にとっては(たぶん)自国民が心を一にして統治者に結集することを願っているのであろうが、その結果、互いに角突き合わせるようになっては、またぞろ90年前の盧溝橋事件になりかねない。それが我が家を全滅に追い込んだことは周知のこと。我が家の火消しというのは、我が家が心を一にすることではなく、我が家がクールに事態を見計らう「火消し」を意味してもいる。

 統治者にはゆめゆめ、それを忘れぬように願いたいものだ。

2022年1月7日金曜日

正月完結の「FIN」、初雪

 昨日(1/6)、雪雲が西からやってくるとニュースがながれる。埼玉はどんよりとした曇り空が広がる。リハビリが終わって図書館へ立ち寄り、本を返却しまた借り出して帰宅するまでの2時間ほども、空模様は変わらない。帰宅してみると、関東地方南岸は雪になったとTVが画像を添える。

 さいたま市はお昼も2時頃から雪になった。粉雪のような小粒が落ちてくる。たちまち垣根の頭、駐車場の車が白くなる。子や孫たちが帰り、久々の骨休めって感じに、雪がよく似合う。そう言えば孫たちは、コタツに潜り込んで、まるで爺婆に炬燵は要らないかのように振る舞っていたなあ。

 7時前に車で出発した息子家族は、雪に向かって東海道を西へ走るようだったんじゃないか。芦屋からやってきた孫は、独りでキャリーバッグを曳いて9時半頃に電車に乗った。東京駅に荷物を預け秋葉原をぶらついて何か買い物をするといっていたが、もう新幹線に乗ったろうか。慎ましい振る舞いに頑として自分の好みを譲らないつよさが感じられ、たくましくなった。

 5時頃、駐車場の雪かきをしている音がする。まだ雪は降り続いている。どれ、と玄関から外へ出てみる。車道へ向かう歩道に雪が積もっている。シャーベット状のそれは、いかにも滑りやすそうに感じられる。これで夜の冷え込みがくると、間違いなく滑る。雪かきスコップを出して車道までの雪を脇へどける。何年前であったか、同じように雪が積もったとき、車道までを除雪したのに、すぐに元の木阿弥というように降り積もって覆われてしまったことがあった。あのとき雪かきは面白かった。だが、これが毎日続いて、しかも放っておくと、家から出られなくなったり家が潰れるという雪国にあっては、面白いってもんじゃないだろうとも思い、村上春樹がどこかでそんなことを書いていたことを思い出していた。人生って、雪かきみたいなものよと言っていたんだっけ。

 息子から「道中なかなかの降雪でした」とメールが入っていた。芦屋の孫からは「無事家に着きました」と、これもメール。年寄りの正月がすっぽりと雪に包まれて完結の「FIN」という文字が流れていった感触であった。

2022年1月6日木曜日

2022年1月22日(土) 36会 seminar ご案内

 コロナウィルスの勢いが盛り返してきました。「1月下旬が第六波のピーク」という専門家の(11月の)予測が、見事に的を射ているような気配になってきました。

 皆さま、お変わりなく元気にお過ごしでしょうか。

 さて、36会seminarを予定通り開催しようと思います。ただし、「蔓延防止等」の注意報が出されて都県境を越えないようにとなった場合は、やむなく中止することにします。


日 時:2022年1月22日(土)13:00~14:30

場 所:新橋・鳥取岡山アンテナショップ「ももてなし家」2階

講 師:藤田-k-敏明

お 題:『うちらぁの人生わいらぁの時代--古稀の構造色 36会seminar私記』


 一昨年5月末に上梓し、皆さんのお手元に届いた上記「お題」の本、まったく藤田の「私記」なのですが、戦中生まれ戦後育ちの私たちの生きてきた人生と時代を総覧する記述に溢れています。このseminarが実施されるに至った由来と、それを私記にまとめる過程で出くわした「新型コロナウィルス禍」が示唆することを、奇しくも(コロナウィルスの)第六波が襲ってきている中で考えてみることになりました。

 ニュー新橋ビルの「世の花」が「行き交う同窓生の十字路」となり、濱田夫妻のホスピタリティ豊かな人柄などに育まれて「36会」という塊が形をなし、やがて「seminar」となって今まで続いてきたのです。どのように十字路に関わってきたか。濱田夫妻とどのような話を交わしてきたのか。それが、どうseminarにつながってきたのか。いろいろお話を伺いながら、「うちらぁの人生」と「わいらぁの時代」を振り返ってみたいと思います。

 それと同時に、新型コロナウィルスの時節になって、人生と時代の特徴が浮き彫りになってきたと思います。敗戦後という私たちの生きてきた(平和な)時代がむしろ特異であったと教えているようです。では、私たちが抱いている「民主主義」とか「平和」とか「人権」というのも特異なのでしょうか。そんなことが気になり、そうやって考えはじめてみると、「自由」や「平等」ということも、一体何を指してそう呼んでいたのだろうと次々と疑念が湧いてきます。そうして、それを面白いと感じている「わたし」に出逢います。

 そして、そうだ、それがseminarなのだと思っていることに気づくのです。  

 皆さんはどうお考えですか?

                                      *

 さて、参加の是非をお聞かせください。

 この会食を「新年会」とすることに、幹事の三宅さんは慎重です。お酒が出ないことになるかも知れないからです。もしお酒がダメなときは、いつもの会食になるとお考えください。

「ももてなし家」には一週間前(1/15)に人数を知らせます。1/14までにご返事を頂戴できれば幸いです。よろしくお願いします。

   2022年1月6日  36会seminar事務局・藤田-k-敏明

2022年1月5日水曜日

一転してスノーホワイト

 1/4の奥日光。おや、ガスってると思ったのは、私の勘違い。粉雪があまりに多くガスが張ったように視界を閉ざしていたのだ。それが分かったのは、風が強くなってから。建物や木々にあたって風が舞い、粉雪が濃く薄くカーテンのように揺れ動く。強い風の時には積もった雪も巻き上げて一面が真っ白。スノーホワイトの状態になる。

 それを観ながら、朝食。バイキング。いつも食べ過ぎる。孫たちはさっさとお腹をいっぱいにしてスキー場へ出かけたい様子。息子が、レンタルしたりリフト券を買ったりの世話をしてくれるので、私たちはゆっくり食事を終え、9時頃までのんびり過ごす。今日また、赤沼から小田代ヶ原経由で湯滝へ出て湯元まで歩こうと思っていたが、カミサンは吹雪く雪を観て(今日は休養日)と決め込んだ。

 じゃあ、孫たちが滑っているのを一度は観ておこうと完全装備をして外へ出て、スキー場へ向かう。ところが、リフトが動いていない。リフト券売り場のレストランに行くと、大勢が列をなしている。孫たちはテーブルに座ってスマホをいじっている。聞くと、リフトの整備が遅れてまだリフト券を販売していないのだという。動き始めたのは9時45分。これで一日券は一日券じゃあと誰か文句を言うわけでもない。リフトに乗って上へ行った孫が降りてくるのを観てから引き上げようと待っていた。新雪の初滑り3人目くらいに二人の孫が並んで滑ってくる。ここ2年やってなかったと心配していた孫も、滑り降りてくる分には、様になっている。

 またリフトで上がるのを見送って、部屋に戻った。ここのスキー場は、レストランなどが整備されていない。リフト券売り場のレストランも、唐揚げと焼きおにぎりだけ。カップ麺にお湯のサービスはあるが、所謂賑わっているスキー場は、丼物からラーメンやカレーなどは常備食のようだったと、昔を思い出す。要するに滑ることに特化していると言おうか。宿泊宿が多いから、その客が滑るスキー場ってわけで、整備されていないのかも知れない。ま、初級者やお子様向けのゲレンデがほとんどだから、これで十分と考えているのかもしれない。

 彼らにはお昼を自分たちで調達するように言い置いて、私は部屋に戻って本を読んだ。お昼に何か食べようかとフロントへ行ってみたが、お弁当や麺類は前日に注文しておく仕組み。結局売店に置いてあった菓子パンを買い求め、サービルのコーヒーを頂戴して済ませた。カミサンは、こんなところへ来て1日のんびりするなんて初めて、ともってきた小説を読みふけっている。外は相変わらずの強風と粉雪。

 午後、湯元の町中を歩いた。スノーブーツを履いたが、深い雪にバランスを崩しそう。ストックを持って湯の湖畔を辿っていると、ピッケルをもった夫婦とおぼしき二人連れが「お尋ねしますが」と声をかける。小峠から刈込湖への入口が分からないという。じゃあ、案内しますよといって、泉源へ向かう。夏道は通れるかと聞く。この積雪では夏道はなだれていて危ないかも知れない。蓼の湖へ下ってから、谷を詰めるルートが安全だというと、蓼の湖を知らない。もう2時を過ぎている。

 泉源の登山口から十人ほどの若い人たちがやってくる。スノーシューを履いて刈込湖まで行こうとしたが、膝まで埋まる雪のラッセルに手こずって小峠から引き返してきたそうだ。こちらのご夫婦を観て、「ピッケルは役に立ちませんよ」という。私は時刻を話して、蓼の海まで行くのも考えものだと思うと話して、別れた。

 1時間ほど歩いて宿へ戻る。3時過ぎ。風呂へ入る。孫と同室の息子が孫が帰ってきたので、風呂に行ってからやってきた。孫たちはこの風にも負けず、リフトが終わる頃まで滑りに滑ってきた。部屋に戻るとすぐにスマホのゲームに夢中になっていたというから、若い人たちの好みとタフさは、私たちには分からない。

 大人はワインを開けて、私たち夫婦のどちらかが没後の話しをする。

 一日中粉雪が舞い、強い風が吹いていた。

2022年1月4日火曜日

戦場ヶ原は天晴れな雪原だった

 1/3、東北道を奥日光へ走る。今回私は車の運転をしない。息子が私を乗せて運んでくれた。その車が(たぶん)「自動運転・ステージ2」じゃないかと私は思っている。高速を走るときに95km/hに設定しているそうだ。アクセルは踏まない。ハンドルに手をかけてはいるが、3車線の真ん中車線を走っている分には、ほとんど手がかからない。前の車が速度を落とせば、自ずとこちらも速度が落ちる。たいてい前の車は制限速度かそれ以上で走るから、車間が開く。すると横合いから割り込む車もいるが、それもさかさかと先へ行ってしまう。前を走る車がいなくなることも多かった。なんと、暢気な運転気分ではないか。それで百㌔走って、5㌔しか差がつかない。時間にするとわずか3分だ。いつのまにか、自動運転車はそこまで来ている。

 つい先月だったか、「自動運転・ステージ4」の法律案が整ったと報道があった。これから市街地の実地走行が始まるだろう。そうなると、市販されるのは3年か5年くらい先か。う~ん、もうちょっと急いでほしいが、そろそろ八十歳になる身。免許を「返納」なんてしないで、免許なしでも乗れる時代が来るような気分も、まもなく味わえるかも知れないとうれしくなった。

 中禅寺湖半からこちらは、道の傍らに積もった雪が残ったり除雪された雪があるけれども、道路の路面は乾いている。赤沼に車を止める。赤沼茶屋の空き地が埋まるほど車が止まっている。赤沼トイレの前の駐車スペースも、ビッシリと車。奥の駐車場が閉鎖しているものだから、ここに止めて、小田代ヶ原や戦場ヶ原に向かっているに違いない。入口から、雪がビッシリと積もっている。12月には雪が降らないとスキー場の心配していたが、下旬の後半になって積もり初め、今、湯元スキー場は50センチの積雪、滑降可。

 孫を先頭に戦場ヶ原へ踏み込む。木道の上の雪もトレースができるほどよく踏まれている。だが、凍っていないから、運動靴でも一向に不都合はない。孫のすぐ後をばあちゃんが歩いて、湯川のマガモの話しやオオバンやヒヨドリを見つけて指さし、何かを話している。30分ほど歩いて戦場ヶ原の中程に来る。風も強くなく、空は青い。男体山から大真名子山、小真名子山、太郎山、山王帽子山、三ツ岳と奥日光の名山が山嶺を連ね、戦場ヶ原を箱庭のように区画して見せている。

 そこから引き返すようにばあちゃんは話している。だが、このまま、泉門池に出て、そこから来た戦場ヶ原を通って光徳入口へでるのも、40分くらいで行けると私は踏んだ。息子が車を取りに戻り、光徳入口で待ち合わせると即決。やはり運動靴の孫たちはさかさかと先へ急ぐ。ばあちゃんは遅れ気味だが、ま、若い者には適わないと放っておく。

 ところが、泉門池から先が湯滝へ向かう道と北戦場へ向かう道が分岐している。そうだ、それを言ってやらないと面倒になると思い、私が追いかける。孫たちは分岐のところで立ち止まって待っていた。ばあちゃんを待って、再び北戦場の方へ向かう。戦場ヶ原の雪と違い、歩いた人が少ない。ときどき深い雪に足を取られそうになる。

 今は閉鎖されている湯滝への木道辺りで孫が立ち止まっている。どうした? と目で問うと、指さして、声を出さず口だけを動かす。サルがいるといっている。ほほう、サルを観たか。それは良かった。そこから右へ曲がって行くんだよと声を出さずに指さすとそちらへ向かう。立ち止まっては、二人で何かおしゃべりしながら、傍らの雪をつついている。

 歳の近い従兄弟ってこともあるが、コロナ前には受験で途絶えることはあっても毎年2回ほど雪の奥日光や霧ヶ峰で逢っていた。高校1年生と3年生、15歳と18歳。170センチと180センチ。二人とも私より背が高くなった。背も伸び盛り、食べ盛り。お昼を食べてまだ2時間も経たないのに、お腹が空いたと父親と話している。うらやましいくらいの食欲。それがすぐに背の高さに反映するのだから、若いってのはすばらしい。

 およそ40分と踏んだ歩行時間は約1時間かかった。でも待ち合わせに不都合はなく、チェックイン少し前の時刻に宿に着いた。

2022年1月3日月曜日

久闊を叙する

 コロナウィルスのせいもあって、ここ2年間会う機会を持たない方もいて、年賀状は久闊を叙す近況報告のようになった。私は昨年4月の遭難救助されたということだけを記したから、しばらく逢っていなかった山の仲間ばかりか、もうここ二十年近く話したことのなかった友人から「大変でしたね」と見舞いのような電話やメールを頂戴した。共通の友人が創作した「小説」のことも話題になり、祝賀会でも開きたいねと話が弾んだ。「久闊を叙す」というのはこういうことなんだと、わが身がやっていることを振り返って思った。

 今年傘寿を迎える同い年の山の友人は、今も山の会の人たちをかたらって山歩きを続けているだけあって、遭難救助ということにビビッドに反応した。5月に書き記して私の山の会に人たちに送った「遭難ご報告」をメールに添付して送り、参照してもらっている。今年91歳になる山の先輩が、山歩きは難しくなったが、平地は2時間ほど毎日歩いているとあって、そうかその年までそうでなくちゃあ、(あと十二年か)と思いを新たにしている。

 こうして、新しい年を迎えたと思うのは、わが身を世界に位置づけるのに、ほかの人々と共通の「時間軸」を尺度にしているからだ。つまり「時間」は私の身の外にありながら、私の世界とかっちりと組み合っている。これが「私の時間」なんだと、その特有性を忘れないように肝に銘じる。

 そういうことでいえば、すでに彼岸に渡っている家族や友人や知人とも、(生きていればいくつになったろうと)賀状こそ出さないけれども心裡で言葉を交わしている。これも久闊を叙するだとすると、新年という時の刻みもなかなか捨てたものではない。これまで去年・今年貫く棒のようなものと、生きているわが身の暮らしの継続性の慥かさとみていたが、そうではない。ちょうど宇宙のようなもの。量子物理学者が「時間は存在しない」と世界観を提示しても、そうだよね、でも、「私の時間」は地球上の人類の時間として物語り化されて、棒のように貫いているんだよねと、超越的な世界の慥かさをもわが身に引き寄せて感じている。面白い。

 こうして正月3日を迎えた。今日はこれから奥日光へ出かける。宿を取って雪の野山を歩こうという恒例の正月だが、はたしてどの程度、どれだけ歩けるか。リハビリのチェックも兼ねて、わが身の回復度を推しはかるハイキングになる。

 今度お会いするのは速くて5日になる。ではでは。

2022年1月2日日曜日

元日の富士

 新年の元旦、意外と早く孫たちが起きてきて、お雑煮を頂戴し、正月らしい居住まいになった。このあと坂戸にある浅場ビオトープへ鳥などを観にカミサンが案内することにしていたが、どうしたわけか、脚がぴりぴりと警告を発し始めた。息子一家が来ていることや正月を迎える準備でストレスが溜まったのかなと私は思ったが、本人の自覚は違った。年末ギリギリの26日まで東奔西走の鳥観三昧で、毎日1万5千歩以上も歩きずめだった疲労が現れたのだそうだ。今日無理すると3日からの奥日光で歩けなくなると鳥見を諦めた。

 そういうわけで、お屠蘇を後回しにして、見沼通船堀を経て芝川調節池へ白鳥を観に行こうと山歩に出た。孫娘はカミサンの双眼鏡を首にかけ、あっ、ヒヨだ、ムクだ、シジュウカラだと覗いている。雲一つない晴天が広がる。人影は、あまりない。正月らしい風景に町は鎮まっている。井沼方公園を抜け、カイツブリが浮かんでいるのを観る。

 JR 駅近くの交差点も渡る人がまばら。見沼代用水西縁から川床を工事中の通船堀に沿って芝川へ向かう。セグロセキレイ2羽が、石を敷き詰めその上を金網で覆った川床を尾羽を震わせながら飛び歩いている。芝川にはオオバンがぷかりぷかりと流れに身を任せるように浮いている。風がある。

 武蔵野線をくぐって調節池へ入る。背の高い枯れ草を抜けて調節池を取り囲む土手に出ると風の強さが、いかにも赤城颪という風に吹き付ける。関東平野の冬。芝川沿いに設えられた調節池を吹き抜ける強い風は、平野部の広さとそれを取り囲むように縁取る北西部の山岳地帯を越えてきた日本海側からの贈り物でもある。調節池に9羽の白鳥が来ているのを観ようと思っていたが、葦や萱の原にアオサギやダイサギ・チュウダイサギが群れて立っているほかは、鳥の姿が見えない。鵜も鴨類も芦原の陰に身を隠して風を避けている。

 中程へ来て振り返ると見事な景色が見える。孫たちは寒さもあって立ち止まっておられず、土手の上を駆けっこしている。孫娘は土手を降りて池中の草地を歩いている。

「ここ々へ(上がって)来てごらん」

 と声をかけ、傍らに来たときに、ほらっ、振り返るよう指さす。

「ええっ、どうして? どうして見えるの?」

 と、驚きの声を上げる。後ろから来る兄孫や父親に声をかける。

「みて、みて! フジサン! 富士山だよ! どうして見えるの?」

「近いからだよ。百㌔くらいかな」

「ええっ、でもすご~い」

 と感に堪えぬように叫ぶ。スマホを出して写真を撮っている。父親が少し離れたところから子どもたちを撮っている。

「離れてね、ズームするとお前たちと富士山がうまく入るよ」

 ああ、これでハクチョウは観なくてもいいやと私は思う。

 夏目漱石が「元日の富士に逢いけり馬の上」と詠んだ句をもじって「元日の富士に逢いけり調節池」と年賀に記した通りになった。いや、めでたい。

 強い風を避けて調節池を離れ、ここから見沼田んぼの東縁に沿って通船堀の方へ引き返そう。

 見沼代用水の東縁沿いも人影は少ない。向こうから破魔矢をもった親子連れが歩いてくる。おや? この辺りに神社はあったかな? 川口市木曽呂の朝日神社か、吉峰神社か。

 スマホが震える。電話が来ている。だが、上へなぞってもなかなか通話状態にならない。やっているうちに切れた。また鳴り始めた。今度は兄孫がすっと私のスマホを覗いて、指を出し、横へなぞる。うまく聞こえ始める。芦屋の娘からだ。

 二番目孫が出て「おめでとうございます。お年玉ありがとう」という。一緒に歩いている兄孫が「シンチャンはいつ来るの?」といっていたので、電話を代わる。しばらくおしゃべりをしている。また私が出ると、今度は芦屋の孫娘が出てお年玉の礼を言う。これは歳も近いこちらの孫娘と代わる。何かひそひそと話をしている。私は手近のトイレに行ってくる。戻ってきてもまだ、話しが続いていた。

 また私に代わる。今度は婿さんが出て向こうの親御さんの近況を伝える。昨日、歳末の仕事を手伝っている孫兄弟と舅と婿さんの居並ぶ姿の写真を送ってきていた。皆さんがおそろいの仕事着で並ぶと、生まれ年代順に背が高くなっているのがよく分かる。背が一番小さいのは、舅さん。私と同じ年代なのだが、でも仕事を孫たちも手伝うようになって、安堵の笑顔が微笑ましい。一番上の兄孫が出て礼を言い、

「ばあちゃんは?」

 と聞く。この子は、小さい頃から「さいたまばあちゃん」の婆ちゃん子だ。もう23歳にもなるのに、小さい頃から「ばあちゃんは?」という。

「家にいるから、そちらに電話して。今で歩いてるんだよ」

 と応えておいた。後で聞くと、すぐにかかってきたらしく、スマホの画面で皆さん顔を出して言葉を交わした。婆ちゃん子も、ときどき東京へ来ているそうなので、寄りなさいといっておいたと笑顔であった。

 こうして、2時間余の初散歩を終えた。年賀が届いていた。返事を出さなければならないのが、私に2通、カミサンに3通あった。お昼になってやっと、お屠蘇を頂戴した。順調な年の初めの滑り出しであった。

2022年1月1日土曜日

あけましておめでとうございます

 今年は(なぜか、なんとなく)素直に「おめでとうございます」と言えそうです。別に何かめでたいことがあったわけではありません。息子一家が来ているからなのかなあ。

 昨日は、例年のように蕎麦を打ちました。去年までは高知県梼原町の蕎麦だったのですが、蕎麦を作っていた姉が病の床に伏し作れなくなりました。寄る年波には勝てないってことですね。代わりに、山へ出かけたり鳥観に出かけたときの道の駅などで手に入れた蕎麦粉を使うようになりました。信州、甲州、隠岐の島、秩父、茨城の蕎麦粉といろいろ。

 ところが何処の蕎麦粉かによって仕上がりが全然違うのに、いつも戸惑っていました。8割から9割が蕎麦粉というのだけを貫いて、水の加減とか捏ね具合とか湯がき加減を変えてみるのですが、しまった打ち上がりにならないのが悩みでした。ときにはボロボロになってまとまらないこともありました。

  孫ももう大きくなり身長も伸び盛り。大人よりも多く食べるだろうと、いつもの3・5倍多く打つ。一辺には難しいので、ふた塊に分け、一つの蕎麦を捏ね上げた塊を傍らに置いてもうひと塊を打つ。両方が出来上がってから、ふた塊をそれぞれに延べて切り、湯がいていきました。それが、思わぬほどうまくいったのです。

 最初のひと塊を捏ね上げて打ち終えそうになったとき、台所の蛍光灯の一本が消え他と、かみさんの声がしました。買い置いた予備の蛍光管を取り替えるのに、私の手は粉まみれで使えません。背の大きくなった孫を呼んで蛍光管を取り替えてもらいました。その要領を、「ほらっ、そこに椅子を出して、そう、もうちょっと向こう。両端の、そうそう、そこを押してカバーを取り外して・・・」と口添えしながら無事に取り替えたのですが、その間、塊となった蕎麦を放っておいたのが良かったのでしょうか。蕎麦が風邪を引くというのが、未だどういうことなのかよく分かりませんが、塊にして寝かしておくことだと思っていたのですけれども、そうではないようです。

 もうひと塊は、水加減がちょっといい加減だったためか、終わり頃に(あっ、しまった)と思うほど、水が多くなってしまったようでした。柔らかくなり何だか頼りない手応えに狼狽えながら、でも捏ね続けて何とかそれらしくまとめ上げました。これもまたどういうわけか、上手くいってしまいました。

 食べる方は、一段落したところで、一番の食べ手の孫がもういいわと席を立ったので、ちょっと多すぎたかなと心配しました。ところが、私たちが食べている間に、ひと休みした孫がまた蕎麦に手をつけ、結局、完食。やあ上手くいったと、私はご満悦でした。

 ただ一つ、う~んそうかと思ったのは、カミサンが両方の蕎麦のできあがりを食して、こちらの方がいいといったのは、後から捏ね上げた塊の方だったのです。そちらは少し柔らかくなったかなと私は思っていました。ところがカミサンは最初の塊の方が少し固いと言って、私を驚かせたのです。つまり私がいつも、腰がしっかり締まるように打とうと思っていたのは(カミサンにとっては)固すぎるということに、はじめて気づいたのです。

 いや、それだけのことです。あとは、いつものように私は夜9時には床につき、孫たちは紅白歌合戦をみて遅くまで起きていたのでしょう。私にとっては、朝5時頃に目が覚め、ただ正月だから、昨日とは着ているものをあらためて、いまこうしてタイプを打っています。

 去年は、コロナウィルスの感染状況と政府の頑ななgo-toキャンペーンなどに、何をしてんだろうと不審感を抱いていたせいでしょうか、「めでたさも中くらい」どころか、めでたいと言えない気分でした。それが今年は、もうすっかり政府に愛想を尽かしてしまっったのか、それとも「自助」が「with-コロナ」の領域に達したのか、「去年-今年貫く棒のような」気分になっています。

 さて、そろそろ孫たちも起き出してきたようです。

 今年もよろしくお願いします。