《従軍慰安婦問題とか徴用工問題を巡る韓国の、国民や政府のわけのわからない振る舞いを、とても奇異に思ってきた。「恨(ハン)」が生きるエネルギーという言い回しも、何だかわかるようでわからない国民性だと思ってきた。それを、日本人にもわかるように解き明かしている本に出合って、目下読んでいる途中である。》
と書き、オー・ダニエル『「地政心理」で語る半島と列島』(藤原書店、2017年)を読みながら考えたことを4回に亘って記したのは、1年半前、2020年。
「韓国人の非近代性の根拠」(2020-6-28)、「法と倫理の相互関係――日韓関係の鍵」(2020-6-30)、「法と倫理の相互関係(2)―「恨(ハン)」というエネルギー源」(2020-7-1)、「法と倫理の相互関係(3)―鬱屈の出口と身の土台」(2020-7-3)。
《「韓国人の非近代性の根拠」の記述で「非近代性」と読み取ったものと、私の身の裡に沁みついた「近代性」とを、出来得るならば同じ俎上に上げて考えてみたいと思っている。》 でも、「わかるようでわからない国民性」というきもちは、いまも持続している。それが「国民性」という括り方のせいなのか、「恨(ハン)」という心理的な解析に疎遠なせいなのか、判然としないまま、放っておいた。
その後、鈴置高史『米中の「捨て駒」にされる韓国』(ニケ系日経BP社、2016年)と『米韓同盟消滅』(新潮社、2018年)を目にして、氷解したことがあった。それは、儒教と法治の関係について岡本隆司京都府立大学教授の説明を孫引きで知ったことであった。
岡本隆司は、人が納得する理路について、天理、事理、法理などがあるが、儒教が浸透している社会では、情理が最優先されるという。情理というのは、大多数の人が「なるほどな」と納得できる判断、法の条文が情理によって解釈されること。儒教国家では裁判でも感情を優先するのが当たり前ということと説明する。儒教の徳治主義というのは、徳によって国を治めるという情理の理念から来た統治形態を指し、つまり、法理や事理よりも「なる程然るべく」と感情が得心することが最優先というのだ。
これは「わかりやすい」と同時に、「従軍慰安婦」や「徴用」の問題が、条約や政府同士の合意文書によって片づかないワケを説明している。感情が最優先されるとなると、「問題」は何回でも蒸し返される。外交交渉で、一度落ち着いた事案も条約も、最優先の「感情」には敵わない。なるほど韓国の大統領府も、司法当局の裁決を黙ってみているわけだ。もしそれに手を突っ込んで、大統領府が「火中の栗を拾う」ようなことをしたら、大統領府が「感情」の落ち着き先まで面倒見なければならない。
いやじつは、自国政府が条約を結んだのであれば、その案件は自国政府がとことん面倒を見るのが、近代的な国際関係の法理である。西欧の近代的政治の出発点とされるのが、1648年のウェストファリア条約だといつか話したことがある。カトリックとプロテスタントという宗教的対立を抱えたもの同士が、共存してやっていく道筋をつけたことから「近代国際関係の出発点」のメルクマールとされたのだが、30年に亘る宗教戦争を終結させてやっと、(情理を超えて)異質なもの同士の関係を築く流路を設けることができたのであった。
その異なった感性や感覚、規範や論理が共存する道を政府が避けて通るということは、政府もまた、「情理」を最優先とする社会規範を体現していると見なければならない。つまり私が、「韓国の前近代性」とみたことは、儒教という積年の中国や韓国における知恵の結晶が、彼ら国民の身にしみて受け継がれてきている文化的な体質になっている。岡本隆司にいわせれば、《韓国、中国と西欧や日本とでは統治に関する考え方自体が根本から異なる》のである。
これを引用して紹介した鈴置高史は、情理は
《「どうあるべきか」という観念論を振り回す。法よりも情を優先する。人間や国の関係をすべて「上下」でとらえる》
と特徴を剔抉し、
《日本人と異なり韓国人は自分の感情を率直にさらけ出す。激しい言葉にいちいち驚いていたらきりがない》
と、文化的な差異が、誤解・正解を含めて、底流しているという。それが、
《西欧型の法治を導入はしたが、自信がついてくると、地の儒教的法治がどんどん顔を出してくる》
と、21世紀に入る頃から経済的に上昇してきた現代韓国の振る舞い方を説明する事例を、韓国人の著者による指摘を紹介して、「西欧型の法治は窮屈」と受け止めている韓国民には、国際法理は(西欧型であるが故に)いかようにも覆すことのできるコトと考えていると裁断する。
そしてそれが、現下の国際情勢の元で、力をつけてきている中国と手を結び、中国に対抗しているアメリカの力をうまく利用して米中の力の均衡世界を泳ぎ渡る「離米従中」へと、朴槿恵政権の2015年から舵を切ったと見なしている。
2015年9月3日中国が開催した「抗日戦勝70周年記念式典」に朴槿恵大統領が米の制止に耳を貸さず列席したことである。プーチン大統領やカザフスタンのナザルバエフ大統領と席を列べて、習近平の陣営に与することを示したのであった。離米従中というよりも、(中国に朝貢をしていた)かつての半島の関係に戻ろうとしているのかと思ってしまう。まだ北朝鮮との緊張状態があるというのに、やはり、同一民族という身にしみこんだ痕跡は、儒教的な情理に遵(したが)うと、否定しようもないようである。
鈴置高史は、韓国がアメリカとの同盟を見限って中国と手を組むことへと向かっているとみているが、この日経記者によると、日本の外務省も韓国研究者の多くも、「まさか(そんなことがあろう筈がない)」と信じていない反応をしていたそうだ。たしかに、外から見ていると、いつも喧嘩腰の北朝鮮に対して韓国が警戒を解くとは考えられない、と普通なら思う。だが文在寅大統領になって、はっきりと親北路線をとっている。
でもなぜ、アメリカとの同盟関係を無いかのように振る舞えるのか。これも、「情理優先」からみると、一つの解がわかる。南北分断の元凶はアメリカだ。朝鮮戦争は北朝鮮からの攻撃で起こったことではあっても、それは民族的心情からすると当然のこと。北が悪いわけではない。その分断が続いているのは、アメリカの世界覇権のせいとなると、同盟というよりも反米が「情理」に沿うというのだ。中国を統一朝鮮の後ろ盾と考えると、力をつけてきた中国に身を寄せるのは不思議ではない。
こうして鈴置高史は、(韓国メディア)中央日報論説委員・㐮冥福の言葉を使って「韓国は中二病」という。
「中二病」? 聞いたことがある言葉だ。ネットで見ると、
《中学校2年生ぐらいの子供にありがちな言動や態度を表す俗語。自分をよくみせるための背伸びや、自己顕示欲と劣等感を交錯させたひねくれた物言いなどが典型で、思春期特有の不安定な精神状態による言動と考えられる。医学的な治療を必要とするような病気や精神障害ではない。》(ジャポニカ、日本大百科全書)
とある。続けて、
《このことばが初めて使われたのはラジオ番組のコーナーにおいてであったが、そのコーナーの終了後、2000年代なかばになってから、インターネット上の掲示板などで広まったとされる。インターネット上では、自己中心的な発言や幼稚な言動を揶揄(やゆ)する表現として使われている。》
とあったので、思い出した。伊集院光が、自らの悩み多き時代を語るついでに口にした言葉だったか。苦い思いを振り返っていう伊集院に、うん、うん、気持ちはわかると、わが身を重ねて共感したこともあった。だからネット上の、「揶揄する表現」は、他者のそれに向けられたときであったろう。
韓国民もただ単に「恨/ハン」の心情だけに回帰しているわけではなかろう。近代化を成し遂げ、経済的にも苦境を脱して、日本に肩を並べるように成長してきたのだから、むろん自信を持っていい。と同時に、苦境に立つ北朝鮮をどう合併して民族統合を果たすのか、アメリカ任せで時を過ごすわけにも行くまい。そのとき、苦境を脱した現在の韓国と、四面楚歌のような渦中にある北朝鮮の強権体制とどう折り合いをつけるかは、北の統治体制が崩壊でもしない限り韓国流で取り仕切ることはできまい。まして文在寅大統領の北との付き合い方を見ていると、(なぜか)いつも北の方が一歩先んじているという「上下」を感じる。
つまり韓国民は、現在の(韓国流)自由民主を選ぶか、30年余前までの軍事政権に似た専制統治体制を選ぶか、その岐路に立たされていると言える。むろん統一となれば、現在の経済的レベルは、東西ドイツ統一の比ではないくらい、重荷を背負うことになる。それを乗り越える「情理」を南北統一路線が獲得できるかどうか。
東アジアにおける日本の立ち位置にも、当然影響が及ぶ。そうした岐路に隣国が立つのと符節を合わせて、我が国も「選択」が迫られることになる。いや、もうその動きは始まっていると、隣国の大統領選の(政策論議はまったく見当たらないが)報道を耳にしている。
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