お正月に孫従兄弟妹が爺婆のうちに来て、互いに学校の話を交わしている。大きい方は高校3年生、小さい方は中学1年生。中学生従妹が教科の得手不得手を話していて、高校生の従兄が「じゃあリケジョだね」と言ったのが、とても印象に残った。実は私も高校3年のクラス分けの時、希望して「理系クラス」に入った。すでに(大学で)経済学を勉強することを決めていたので、数学Ⅲは勉強していなくてはならないだろうと思ったこともあったが、2年次から始まった物理が面白く得意でもあったからだ。3年の担任の教師は(大学で)「これからは原子物理学の時代。経済学なんかではあるまい」と志望変更を奨めてくれたが、耳を貸さなかった。でも、リケジョはわたしの血筋を引いていると、ちょっとうれしくなった。ところが国語が苦手と言っているのを聞いて、おやおやと思い、思い浮かんだことがあった。
ひとつは、AI研究者の新井紀子さん。この方は、東大入試に合格できるロボット「東ロボ君」の制作を行っている途中で気づいたことを『教科書が読めない子どもたち』という本にした。ロボットに人間が負けるかどうか議論するよりも、子どもが読解力をつけることが大切だと力説している。彼女は(子どもたちが)「数学ができないというより、問題文を理解していない」と気づき、全国2万5千人の(高校生の)基礎的読解力を調査したところ、「3人に1人が、簡単な文章が読めない」ことを発見して、ここをどうにかしないことには、将来の日本は暗いと、読解力をつけるための支援活動に力を入れている。
孫妹がリケジョであるということは(受験学力的には)基礎的読解力を有しているとも言える。だが、受験のためだけに勉強しているわけではない。まして、国語が苦手というのが身に染みこむと、長い文章を目にしただけで「もうダメ」と思い込んで読む気力を失う「バカの壁」が心裡に出来上がってしまう。とはいえ、国語が得意だから(大学で私は)国文学を勉強しようと思い込むのも、「バカの壁」の逆側面。人が生きていくということは、言葉を身につけ、言葉を交わし、人類が築いてきた文化をことばを遣って受け継いでいっている。つまり「人間とは言葉だ」と言ってもいいくらい、言葉はヒトのクセなのだ。それに習熟し、人類の築いてきた文化を身に携えていくことが「生きる」こと、つまり人生だといっていいくらい。
そう言っていて、もう一つ思い出したことがある。数学研究者の森田真生のこと。彼は1985年生まれだから、いま36歳か。この人のことが目にとまったのは、雑誌「新潮」2013年9月号で彼が「数字を遣わない数学をしたい」と話していたから。そのとき私は森田が紹介していた「人工進化」の研究に関心を持ち引用したのだが、数学研究者がこのような考え方をしていることに興味を惹かれた(詳しくは藤田敏明『うちらぁの人生 わいらぁの時代』pp226-227を参照)。天才的数学者といわれていた岡潔の『日本のこころ』に触れて森田真生が、人が身を置く自然=「せかい」のすべてのことを一つにつなげて感じ取ることのできる「ことば」を数学的にとらえ(数字を遣わないで)表現したいと考えていることが、ひたひたと伝わってきた。その、部分部分、つまり断片の感懐は、私自身が紡いできた「人間」や「社会」や「自然」や「せかい」を摑まえた言葉と重なって、そうだその通りだと膝を打つような気持ちになった。
学校で学ぶのが受験学力だけなら、こんなことは言えないが、まさか中学生が(その若さで)それっきりに自分の身を限ることはない。人類史が築き上げた文化を、もっとも手際よく表現する(美しい)方法として数学を採用するというのは理解できる。同時にそれが、庶民に共有される「ことば」として広く受け継がれ伝わることを、今私の歳のせいであろうが、願う。そういう意味で、「数字を遣わない数学」の語り口を身につけるのが素敵だと思った。ぜひ、国語に関する「バカの壁」を築かないで、受け継いでいる人類史の文化を思い浮かべながら、中学生活を送ってねと、伝えたいと思った。
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