韓国の国際関係への振る舞い方の根源に「恨/ハン」があるとみてきた。法理よりも情理を「正しい」と感じている彼らの体感を、日経記者は「中二病」と呼んだ。しかし、私は、その位置から身を動かすことのできない(大国中国に朝貢する以外に生き延びる道を持たなかった)地政学的な悲哀を感じ、長きに亘る苦悩の堆積が韓国民の「情理」として肌身に染みついていると思った。
では、韓国と同じように地政学的な位置に身を置き、目下韓国よりも厳しい対応を為されている台湾はどう考えているのかと思いをめぐらして手に取ったのが、呉叡人『台湾、あるいは孤立無援の島の思想――民主主義とナショナリズムのディレンマを超えて』(駒込武訳、みすず書房、2021年)。
台湾の出版社から2016年に公刊された本書の冒頭には、2020年5月20日に書き下ろされた著者の「フォルモサ、香港、日本に献げる」と題された「日本語版への序文」が、ある。2016年本書公刊の時、香港では2014年の雨傘運動があり民主派が香港の大多数の住民を巻き込むように展開する民主化運動が盛り上がっていた。しかし、この序文が書かれた9日後の2020年5月29日には、香港民主化デモが国家安全法や国歌条例案に抗議して展開されたが、ついにこれを最後に鎮圧されてしまった。また、この年に公になったコロナウィルスの蔓延にいち早く取り組み効果的な防疫をしたにもかかわらず台湾がWHOから外され、国際的な公ネットワークから閉め出されるという事態にあった。
呉叡人は、こう記す。
《世界秩序の再編、歴史の暴風がやってこようとしている。未来は依然として予測しえない。だがわたしたちはすでに暗闇を歩み続けることに慣れ、虚妄の希望を抱かないですむまでに強靱となった。……わたしたちがしようとしていることは、ひたすらこの道を歩き、孤立無援のポリスを建設し続け、際限ない疫病を治療するように、わたしたちのポリスを自由で、公正で、美しく、世界の精神と触れ合うものとしていくことである。》
この序文だけでも本書の湛える慟哭の響きがひたひたと伝わってくる。
そうして一つ、私が感じ取ったことがある。
呉叡人にとっての「自由」は、ただ単に、台湾人がどういう政治体制の下に暮らすかという次元の「課題」ではない。むしろ、人がいかなる(精神の、魂の)生き方をするかという実存の有り様に哲学的に向き合っている、その正面の喫緊の問題が「台湾」なのだ。そういう意味で言えば、まさしく人類史的に人が切り拓き辿ってきた到達点を保持するのか、突き崩してしまうのか、そういう問題として東アジアの「わたしたち」の前に屹立している。まずここで、「中二病」と評される韓国とは次元を異にする。
呉叡人は、シカゴ大学の政治博士。ベネディクト・アンダーソンの教えを受け、彼の著書『想像の共同体』の中国語訳を手がけている。アンダーソンとの往復書簡の文章に表されるやりとりもまた、際立って文学的であり、呉叡人とアンダーソンの間に揺蕩う心情が「自由で、公正で、美しい世界の精神」と触れ合っていると感じさせる。
本書中の「賎民(パーリア)宣言――あるいは台湾の悲劇の道徳的意義」は、戦後体制にも鋭く批判的な目を向けている。
《第二次大戦後の主権国家体制は、ナショナリズムの原則の実現ではなく、国家主義の理念の拡散である。いわゆる”The United Nations”とは、全人類の永久平和を守る諸民族の自発的な連合ではなく、むしろ国家を形成する権力を独占し、現実における権力のバランスを維持するための主権国家のカルテルである》
《新たな帝国が国民国家の形式を借りて甦り、「民族統一」または「民族解放」の名の下で「歴史的領土」や「無主の地」を虎視眈々と狙っている今日において、これらの弱小民族は孤立無援の状況の中でもがき、座して斃れるのを待ち、もしくはある種の歴史的偶然の発生――例えば帝国の忽然たる崩壊――をあてもなく待つことしかできない》
《……国家を持たない者、または国家が存在したとしても主権国家体制から承認されない者は孤立無援となり、屈辱を嘗め尽くすことになった。その結果、帝国の狭間ではかえってさまざまな形態の弱小ナショナリズムが芽生え、成長しつつある。奴隷はいまだ叛乱を続けており、理性はなおも完成していない。にもかかわらず、帝国の指導者たちは早々に歴史の終わりを宣言した。これこそが現代台湾の悲劇の世界史的根源をなすものである》
この戦後世界体制の批判的剔抉は、植民地状態の本国・日本が敗戦を迎えたため、何処に帰属するかに触れずに(サンフランシスコ講和条約で)「解放」された植民地・韓国と台湾が、戦後世界体制の布いた枠組みのままに「抑圧」されたことを指摘している。この点を見てとれなかったが故に私は、戦後覇権を握っていた国の「無責任」と思っていたのだが、そうではない。戦後体制が「新たな帝国の…主権国家体制の…カルテル」であってみれば、小さな地域の抗争と混沌は取り上げる必要も無い断片でしかなかったのだ。
これは、モノゴトの本質を見極めるためには、最底辺の存在に光を当てて見て取る必要があることを示している。台湾という(目下)周知の、喫緊の地政学的領域に身を置いて焦点を当てるからこそ、世界体制の現在がくっきりと浮かび上がってくる(余談だが、その点でベネディクト・アンダーソンの「教え」と異なると呉叡人は往復書簡の中で指摘している)。
因みに、韓国のナショナリズムについて呉叡人は、次のように記している。
《韓国においては、封建的王国から国民国家への転換の胎動は十九世紀末に出現していたが、現代韓国の民族意識は日本統治時代における反日的ナショナリズムによる動員の過程で成熟したものであり、統一された民族意識に基づいて統一的な国民国家が築かれたわけではない》
これは、韓国がいつも「反日」によって自分の自画像を描き、繰り返し自らの立ち位置を確認していることを説明している。つねに「反日」に訴えるのは、「恨み/ハン」に根差すというよりも、ナショナリズムの成立過程がもたらした(身にしみている)統一性の土台を為しているからなのだ。日本を反照しなければ近代の自らを語り得ないという悲哀のかたちである。
呉叡人は、「台湾の悲劇」を道徳的意義において意味づける。
《台湾の悲劇の道徳的意義は、ひとつには主権国家体制における賎民階級の一員として、国際政治において牢固として打ち破ることのできない現実主義の真理と、賎民の境遇を無視するあらゆる理想主義の高言と道徳的教条の偽善を、他の排除されたすべての賎民の存在と共に見届けることにある。台湾人であるわれわれは構造的な懐疑主義者たらざるを得ない。われわれは一斉の高尚な価値を評価し直さないわけにはいかない》
《台湾の悲劇の道徳的意義は、もうひとつには、構造的な懐疑主義がニヒリズムに陥ることはなく、逆に一種の苦痛を伴う覚醒を通じて生存への欲望――希望ではなく、生存への欲望――に至らしめるということである。……生存への欲望は酩酊ではなく、苦痛を伴う覚醒である。一切を超越するものではなく、現世のものである。賎民が受け続ける屈辱と蹂躙は、彼らを苦痛で苛む。苦痛はかえって彼らを覚醒させる。賎民は未来永劫、自身のつよく面する滅びの影によって、生命を渇望し、存在を渇望する。この残酷で、無意味で、荒唐無稽な、しかしかくも美しき現世への存在を渇望する。この種の渇望において覚醒する生存への欲望は、無意味で残酷な現世に対してその意義を求めているのであり、この生存への欲望に対する承認を要求している。それが賎民による「自由」の追求の形である》
と悲痛な、しかし崇高さを湛えた言葉で締めくくっている。
この、腸を断つような思いを象徴する言葉を呉叡人は「風来自由心」と、「南明の朱氏の最後の末裔が1683年、台湾陥落の際に書き残した絶筆」を掲げる。「不道徳な世界により孤立無援の状況に追い込まれつつも、善へと向かうよう迫られた、屈強で誇り高いすべての賎民に(献げる)」と。
このギリギリの場に身を置いて、ニヒリズムに陥らず、善へ向かう道徳的意義を堅持する気高さに、胸を衝かれる。「台湾有事」を「日本の有事」ととらえるのではなく、この「善へ向かう道徳的意義を掲げる」崇高さにとって「(人間の)有事」であると考えて振る舞うことが日本列島においても必要ではないか。そんな気が内奥から湧いてくるように感じている。
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