来週末に予定されているseminarの運びをメモしながら、カミサンがみているテレビドラマをチラ見した。フジテレビの制作ドラマ『ミステリという勿れ』第1回の録画。チラ見なのに途中から、台詞から目が離せなくなった。いや、台詞から耳が離せない、か。
容疑者の「ボーッと生きている」大学生、容疑者として取り調べられているのに、警察署の警察官に問いかける言葉が、何とも哲学的。それを耳にした警察官の心象が緩やかに変わっていくのが、上手い演技で表現される。大学生の口にする言葉の立ち位置も明快。視聴者も容疑者でないことは共感をしながら、ではどうやって謎を解き明かしていくのだろうと興味をそそられる。つまり、容疑者が謎解きをする運びに、哲学的な(容疑者の)言葉によって変容していく警察官の姿が重ねられ、なるほどと得心する場面にうなずきながら観ていった。
むろん現実にそういうことはあり得ないとは、思う。何しろ警察官がそこまで容疑者とのやりとりを受け容れるほど、警察官は鷹揚じゃないし、耳を傾ける「関係」を築こうとしない。原作は誰だと思って調べたら、何と田村由美作の連載漫画だという。どうか、ならばあり得ない展開があっても不思議ではないし、それがじつは、あらまほしき市民と警察官の関係を表現していて好ましくうけいれたとしても、全部了解よと鷹揚に読める。
主人公の言葉が、しかし、警察官に受け容れられていくプロセスは、現実の市民と警察官ばかりでなく、社会を共有して生きている市民の日頃の「かんけい」を抉り取っているからであると腑に落ちる。
言葉は普遍的であることがつよいと(なんとなく)たちは思い込んでいるけれども、そうではない。個別のことに関して発せられる言葉の強さが、そのことばの普遍性を強めているのであって、それは、ありとあらゆる場面で繰り返し発せられることによって普遍的に成り、それが発せられることがなくなると瞬時に普遍性の座から滑り落ちる。個別と普遍とは、そういう関係にあるのだと示しているかのようであった。
そこが、面白い。そこが面白かった。変容する人が面白いというのは、やりとりする言葉に耳を傾けて、それが身に染みこんで行く過程が見えることへ、惹き込まれていく我が関心が振動するからだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿