コロナウィルスのせいもあって、ここ2年間会う機会を持たない方もいて、年賀状は久闊を叙す近況報告のようになった。私は昨年4月の遭難救助されたということだけを記したから、しばらく逢っていなかった山の仲間ばかりか、もうここ二十年近く話したことのなかった友人から「大変でしたね」と見舞いのような電話やメールを頂戴した。共通の友人が創作した「小説」のことも話題になり、祝賀会でも開きたいねと話が弾んだ。「久闊を叙す」というのはこういうことなんだと、わが身がやっていることを振り返って思った。
今年傘寿を迎える同い年の山の友人は、今も山の会の人たちをかたらって山歩きを続けているだけあって、遭難救助ということにビビッドに反応した。5月に書き記して私の山の会に人たちに送った「遭難ご報告」をメールに添付して送り、参照してもらっている。今年91歳になる山の先輩が、山歩きは難しくなったが、平地は2時間ほど毎日歩いているとあって、そうかその年までそうでなくちゃあ、(あと十二年か)と思いを新たにしている。
こうして、新しい年を迎えたと思うのは、わが身を世界に位置づけるのに、ほかの人々と共通の「時間軸」を尺度にしているからだ。つまり「時間」は私の身の外にありながら、私の世界とかっちりと組み合っている。これが「私の時間」なんだと、その特有性を忘れないように肝に銘じる。
そういうことでいえば、すでに彼岸に渡っている家族や友人や知人とも、(生きていればいくつになったろうと)賀状こそ出さないけれども心裡で言葉を交わしている。これも久闊を叙するだとすると、新年という時の刻みもなかなか捨てたものではない。これまで去年・今年貫く棒のようなものと、生きているわが身の暮らしの継続性の慥かさとみていたが、そうではない。ちょうど宇宙のようなもの。量子物理学者が「時間は存在しない」と世界観を提示しても、そうだよね、でも、「私の時間」は地球上の人類の時間として物語り化されて、棒のように貫いているんだよねと、超越的な世界の慥かさをもわが身に引き寄せて感じている。面白い。
こうして正月3日を迎えた。今日はこれから奥日光へ出かける。宿を取って雪の野山を歩こうという恒例の正月だが、はたしてどの程度、どれだけ歩けるか。リハビリのチェックも兼ねて、わが身の回復度を推しはかるハイキングになる。
今度お会いするのは速くて5日になる。ではでは。
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