2022年1月9日日曜日

我が家の火消し

 一年前(2021/1/8)のブログ記述「空言疎語の緊急事態」が、今も生きている。「人の流れを止めることです」と今年、小池都知事は言わないけれども、今のオミクロン株感染拡大の勢いは、昨年の日ではない。一日ごとに、2倍、5倍、10倍と増えていく数字の変容は、それを目にするごとにコロナウィルスの勢いをどう躱すかと考える以外、方途がない。インフルエンザと同じと言われても、数字でみえるから、「軽症です」という言葉も自己欺瞞に聞こえる。

 アメリカが1日に百万人を突破したと報道がある。日本はそうなると、たぶん、PCR検査も追いつかないということになって、医療崩壊以前、つまり事態にまるで対処できないとなるに違いない。

 カザフスタンで燃料が値上がりしたことがきっかけで暴動に発展し、鎮圧する警察や軍と衝突が起きて死者が出ているとニュースが流れている。むろん日頃の「抑圧」が溜まっていたからであろうが、ちょっとしたことがきっかけで憤懣は暴発する。日本はそうはならないと思っていても、はて、何処までそれが通用するか。

 中国の気配が、怪しい。北京五輪を盛り上げようとしているが、他方でウィルス感染の拡大を抑えるために、強圧的な手立てを講じている。外出禁止を護らないものに対して、扉を溶接するような強硬手段は、行政者の「執行権」のアルゴリズム(手順)が「正ー反」の二極しか持ち合わせていないからであろう。そういう強硬な執行権を行使したところが、そりゃああまりにも酷いと、SNSなどを通じて非難が起こる。慌てて溶接を溶いたときくと、そうだよね、そういうやりとりが行政者の文化性を少しずつ変え、生活者の気風を受け容れる統治者のアルゴリズムを生み出していくのだと思う。中国のように大きな地域の、多様な民族を一括する統治感覚では、「正ー反」二極の統治手順が横行してしまう。つまり、各地に「憤懣」が溜まっていく。まして北京五輪の機に、コロナウィルス感染の拡大を世間体というか、世界に向けた中国式専制統治の喧伝の正統性として見せようという魂胆が絡まると、「習おじさん」への親近感が一挙に「反乱」へ結びついて暴発する可能性を生む。

 今中国が安定的なのは、ちょうど1980年代末の日本経済のような様相だからだ。「一億総中流」と日本では呼んだが、中国は「共同富裕」がそこそこ実感できるほどの経済的な浮揚感が人々の間にある。それが続いている間は「憤懣」は限定的になる。だが、バブルが弾けるように経済的な纏(まとい)がとれてしまうと、一気に専制的な統治は「正統性」を失って「天命革まる」気配が表層化する。

 もちろんそうした事態を察知すると、「憤懣の暴発」を逸らそうとする統治者側の意図が働く。一番手軽なのは、「外圧」によって我が国が危機に立っているという緊急事態だ。そうなると、行政権が法治の枠組みを超えてでも最大限に発揮されても(国民の)支持を得ることができると、世の統治者たちは知っている。どこで「外圧」が働くか。習おじさんが大一番を賭けるのであれば台湾ということになる。もしここで有事となると、北京五輪どころではなくなるから、ま、今はそこまでは踏み込むまいが、反米や反日が一番手っ取り早いことは、確かだ。

 となると、ご近所の騒乱は、必ず飛び火する。対岸の火事ならぬ、我が家の火消しが必要になる。元宰相は、すでに外野に身を置いているつもりなのか、気軽に隣国を挑発する言動を繰り返している。彼にとっては(たぶん)自国民が心を一にして統治者に結集することを願っているのであろうが、その結果、互いに角突き合わせるようになっては、またぞろ90年前の盧溝橋事件になりかねない。それが我が家を全滅に追い込んだことは周知のこと。我が家の火消しというのは、我が家が心を一にすることではなく、我が家がクールに事態を見計らう「火消し」を意味してもいる。

 統治者にはゆめゆめ、それを忘れぬように願いたいものだ。

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